第21章 嵐の中の伝令
嵐の中を馬で突き進んでくる者がいた。追い風でなかったら馬は先に進めなかっただろう。彼の目には何も見えない。前後は暗闇で突風と激しい雨に吹き荒れ、自分がどの辺まで進んでいるのか、はっきりした見当が付かなかった。黒い彼の馬は、嵐の中で立ち往生していた。しかし前に進むしかない。夕方見た不吉な暗い紫色の雲は嵐の兆候だったのだ。
広大な麦畑の向こうに城の影が亡霊のようにかすんで見えた。嵐が止むのを待っている時間はない。彼は、昼夜留まることなく夜道を、突き進んだ。伝令がこれほど困難な日があっただろうか。彼はしかし命に代えても辿り着かなくてはならなかった。
恐ろしい光景が頭から離れなかった。
急がなければ。
シェーンベルガー城はもうすぐだ。
全身から水を滴らせ、彼は目をわずかに開けて、馬を激励した。嵐で吹き飛ばされてくる緑の葉や木切れが、彼に襲い掛かる大きな手のように背後から彼を襲った。何度も倒れそうになりながら、彼は一歩ずつ前へ進んで行った。
目に吹き付ける雨をぬぐって、前方を睨んだ。
突然トレイシアは目を覚まし、起き上がった。ベッドの上にいるはずなのに、冷たく、狭い場所に閉じ込められているようだ。さっきから歌が聞こえてきていたのをはっきりと感じた。なぜ気が付かなかったのだろう。旋律はディアナベスとよく歌った〈虹の歌〉。
太陽からさしてくる日差しが光の粉になって、空気が七色の虹の色に見える。その光の粉は、トレイシアとディアナベスの身体に舞い降りる。二人は手で光の粉を集めた。手の中で、宝石のように細かい粒が、虹色に光っている。手の平も、身体もとても温かい。二人は虹の中に立っている。望むことは全て叶えられような、そんな気分がする。空を見上げると、虹の橋がずっと彼方に続いている。
二人は歌いながら、虹の橋を昇りはじめた。虹は消えることなく、踏みしめることができる。赤い虹を踏むと、そこから赤い粉がパット大気の中に舞い、紫色の虹を、紫の粉が舞う。ここは色の世界に溢れている。美しい夢のような世界。でも夢ではない。虹の上を歩くことはできるのだ。二人は顔を合わせて、虹の橋の上を歩きながら、笑みを交わした。
トレイシアの腕に、何かが落ちた。彼女は水滴がそこにあるのを見た。頬にも冷たいものを感じる。
私は泣いているのだ。
トレイシアは手の平で涙をこすった。どうして泣いているのだろう。
すぐ耳元で声がした。
〈トレイシア〉
彼女はぎくりとした。
〈助けて〉
「ベス?」
声はディアナベスのものだ。トレイシアは焦って暗い部屋中を見回した。
「ベス、ディアナベス。どこにいるの?」
部屋には誰の姿もない。
その時、トレイシアの目の前の光景が変わった。
湖のそばに城が立っている。湖から水鳥が飛び立っていく。
トレイシアは、その城を見て、目を見開いた。
「チェルニア城が!」
彼女は驚いて思わず声に出した。
再び、光景が変わった。今度は城の中だ。視界が、どんどんと城のダンジョンを降りていく。暗く冷たい通路に出た。同じような扉が並んでいる。ずっと進み、最後の扉の前に来た。また光景が変わる。石畳の狭い牢の中に、ディアナベスが横たわっている。胸の上に手を組み、口には金属でできた、さるぐつわがはめられている。ディアナベスは青白い顔で、死んだように動かない。
次の瞬間、光景が変わった。
暗い闇の中、木々の向うに大きな炎が見える。それはよく見慣れた風景だった。ブルクミラン国だ。ブルクミラン城が燃えている。トレイシアの肌に鳥肌がたった。
唐突に光景は消え、トレイシアは自分の部屋に戻っていた。胸の鼓動が聞こえてきそうだ。一体何が起こったのだろう。彼女は真っ青になり、冷や汗をかいていた。
(ディアナベスの身に何かあったのだ。)
そうに違いなかった。彼女はその身で感じていた。
ベッドから起き上がり、服を着た。腰のベルトをきつく締め、剣の鞘をベルトにつけた。そしてシェーンベルガー国へ来たときにつけていた、マントを羽織った。
扉を開け、彼女は廊下に飛び出した。部屋の中から慌てて追ってきたレディスに肩をつかまれた。
「トレイシア様、何をなさっているんです? どこへ行くんですか?」
「レディス、私はブルクミラン国へ、そしてチェルニア国に行くわ。ベスを助けに」
「何をおっしゃっているんですか。こんな真夜中に。外は嵐ですよ」
「止めないで」
トレイシアはレディスの手を払いのけて、歩きだした。レディスは驚いて、トレイシアの前に立ちふさがった。
「しっかりして下さい。一体何があったんですか?」
「そこをどきなさい」
トレイシアはレディスを押しのけた。衛兵が、物音を聞いて、数人集まってきた。
「何事ですか?」
どこからともなく旋律が聞こえてきた。レディス、衛兵らは、周りを見回した。トレイシアが歌っている姿をぼんやりと見ながら、彼らは意識が遠のき、ゆっくりと倒れた。
「ごめんなさい」トレイシアはそう言うと、通路を走った。柱の向うに衛兵の姿が見える。彼女は、柱に身を隠しながら、城内を進んでいった。
時々、雷の轟がどこからともなく聞こえくる。強い風が窓を打ち破りそうだ。稲妻が瞬き、窓から鋭い光を差し込み、城の中を恐ろし気に照らした。
(ベス、待っていて)トレイシアは窓から見える嵐の様子を見つめた。
嵐の中をやってきたブルクミラン国からの使者は、シェーンベルガー国のベルンヘルト宰相に伝令を渡した。それを読んだベルンヘルト宰相は、すぐさま東の支城にいる、ジークレッド王に、使いを飛ばした。
この嵐だ。王が帰還するまで丸二日はかかるだろう。もうじき夜が明ける。夜明けとともに、嵐も弱まってきたようだ。風はまだ強いが、雨は小降りになった。衛兵たちが窓の打ち付けを取り外し、城内の者は空が白むのをじっと見ていた。
トレイシア王女にどう伝えたものか。夜中の三時を回ったところだ。ベルンヘルト宰相はトレイシアの部屋に向かった。
彼女の部屋の階に出ると、衛兵が倒れているのを見つけた。ベルンヘルト宰相は驚いて、衛兵にかけよった。
「おい、しっかりしろ」ベルンヘルトが肩を揺さぶると衛兵は、目をこすりながら起き上がった。
「何をしている? 眠っていたのか? 」
衛兵はぼんやりした目で、辺りを見回し、ベルンヘルトの顔を見た。
「……宰相殿? どうなさったのですか?」男は頭を振った。「何だか急に眠くなって……」男が言った。
ベルンヘルトは立ち上がり、急いでトレイシアの部屋へと向かった。
途中、三人の衛兵が柱に寄り掛かって眠っている姿を目にした。さらに進むと、トレイシアの部屋の前には、レディスと二人の衛兵が眠り込んでいる。
彼は青ざめて、トレイシアの開け放れた部屋へ飛び込んだ。暗い部屋には誰の姿もない。慌てて部屋中を歩き回りトレイシアの姿を求めたが、彼女はそこにはいなかった。
ベルンヘルトは部屋から出て、レディスの身を起こした。
「レディス。しっかりしてくれ。トレイシア様はどこにいる?」
レディスはぼんやりと、目を開けた。
「トレイシア様がどこにもいない。何か知っているなら教えてくれ」ベルンヘルトが言った。レディスは急に目を見開き、驚いたようにベルンヘルトを見た。彼女は、ぱっと立ち上がって、ベルンヘルトを押しのけ、トレイシアの部屋に入った。
「トレイシア様!」
レディスの悲痛な声がした。ベルンヘルトは、立ち上がって、再びトレイシアの部屋に入った。
膝を床について、肩を揺らしながら泣いているレディスの姿があった。
「……お止めすることができなかった。トレイシア様は行ってしまった。おひとりで……うう……」レディスアは声を押し殺して泣いた。彼女のそばにベルンヘルトは片膝をついた。
「レディス。トレイシア様がどこに行ったのかわかるか?」
「……ブルクミラン国かチェルニア国か……」レディスが泣きながら答えた。
「なぜ、そこに行ったのか、トレイシア様はおっしゃっていたか?」
「わかりません……いえ、ディアナベス様を助けると……」
彼は落ち着いて頭を巡らせた。レディスは立ち上がった。
「私も後を追います」
「待ちなさい。そなたがひとりで行っても何もならない」
レディスは、トレイシアの部屋の奥に続く、自分の部屋へと走っていった。ベルンヘルトも立ち上がった。
レディスの部屋の扉が、ベルンヘルトの目の前で、バンと音を立てて閉じられた。
「レディス、大事な話がある。ここを開けなさい。」
扉には鍵がかけられている。
「ブルクミラン国に関する知らせが届いたのだ。レディス、聞いているか?」
「ええ、聞こえています。どんな知らせですか?」
部屋の中から声が聞こえた。
「扉越しにする話ではない」とベルンヘルトは言ったがレディスは黙ったままだ。
「レディス!」ベルンヘルトは大きな声をあげた。扉のノブを回したが、ガチャガチャと音を立てるだけで、ノブは回らない。
「大変なことが起こった。そなたに早く伝えたい。ここを開けてくれ。」
唐突に扉が開き、身支度を整えたレディスが現れた。
「何が起こったんですか?」彼女はベルンヘルトに尋ねた。彼は思わず躊躇した。
「話がないなら、行きます」
「待て」彼は通り過ぎようとするレディスの腕をつかんだ。
「ブルクミラン国で大きな火災があり、城が焼け落ちたようだ。」
レディスは、毛が逆立つ思いで、ベルンヘルトの顔を凝視した。
「ブルクミラン国王陛下は? 王妃様は?」彼女の手が震えている。「ディアナベス王女は無事なのですか?」
「わからない。火災から逃れた使者が、さきほど辿り着いたところだ」ベルンヘルトが告げた。レディスは彼の手を振りほどいた。
「私の主はトレイシア様ただひとり。私は姫のところへ行きます」
そう言うと、レディスはあっという間に、トレイシアの部屋を抜けて、姿を消した。「レディス!」ベルンヘルトの声が彼女の後を追った。




