第20章 密偵
雨の降る深夜、シェーンベルガー城の城壁を乗り越えようとする黒い影があった。月夜の、一時の雨が降り止んだ中を歩いていたハワード卿は、不審な男の影を目撃し、後を付けて行った。
途中から再び雨が降り出した。初めは小降りだったが、やがて本格的に降り出した。男は一向に歩を弱めることなく、一心に城壁へと向かっていく。
ハワードも雨の中で前方を睨み、男を見失わないように走った。
男は城壁まで来ると、あらかじめ準備していた止め鉤付きのロープを城壁の上へと放り投げた。止め鉤が城壁のブロックに引っかかり、男はロープを引っ張り強度を確認した。
密偵だ。
ハワードは大声で背後から声をかけた。
「そこまでだ!」
そして大柄の身体で、男に突進していった。男はぎょっとして振り返り、慌ててロープを昇り始めた。ハワードは男に飛びかかり、二人は土砂降りの雨のぬかるみに泥まみれになって転がった。
ハワードはすばやい動きで男の短剣を取り上げ、それを男の首元につきつけた。
「どこの者だ。洗いざらい話せば命は助ける」
ハワードは男を組み敷いて、低い声で言った。男は奥歯をかみしめようとした。た。毒を飲もうとしている。ハワードは男の口をこじ開け、奥歯にはめ込んだ薬を取り出した。男は観念したように力を抜いた。ハワードは立ち上がり、男を引っ張り上げた。
「衛兵!」ハワードが叫ぶと。城の周囲から数人の兵士らが集まってきた。
「この男を牢に入れておけ」ハワードは、その密偵を衛兵に引き渡し、密偵が地下牢に連れていかれるのを見送った。密偵は抵抗することをやめたようだ。
ハワードは男の短剣を拾い上げた。短剣の造り、柄の様子をじっと見つめた。短剣の鞘は革製だ。鞘の皮を引き裂き、中身を見ると青い印が見えた。見覚えのある印だった。チェルニア国の印に違いない。どうやら男はチェルニア国の密偵であるようだ。ハワードは雨に濡れた身体をぬぐい、着替えると、城へと歩いて行った。
地下牢には、さきほどの密偵が、後ろで両手を縄で縛られ、座っていた。密偵は黙って牢の床を見つめている。牢の檻の中には、ダグラスの姿もあった。
拷問兵士が、密偵の前に座り、ペンチのような金属の道具を密偵に見せた。
「これから、きさまの爪を一枚ずつはいでやる」拷問兵士は薄笑いを浮かべた。
ハワードが牢の前に来た。ダグラスと目を合わせた。
拷問兵士は密偵に尋ねた。
「きさまの名は?」
密偵はクッと音を立てて、床を見ながら笑った。
「名前など聞いてどうする? 名前になど意味はない」
拷問兵士は密偵の顔をぐいと引っ張った。
「お前がチェルニア国の密偵だということは、ばれているんだ?」
拷問兵士は男の胸ぐらをつかんだ。
「お前の手に入れた情報を洗いざらい話せ」
胸ぐらを放し、男の後ろ手に縛られている腕を引っ張った。
「まずは、親指からだ」
密偵は、腕をふりほどき、拷問者を睨みつけた。「国王に会わせろ、そうすれば何もかも打ち明ける」
「何だと?」
拷問兵士は、爪をはぐためのペンチを、密偵の前につきつけた。
「俺の質問に答えろ」
「もう答えただろう。ジークレッド王を呼べ。そうすれば話す」
拷問兵士はペンチを振り上げ、密偵の顔を殴りつけようとした。
その腕をつかんだ者がいた。ダグラスだ。
ダグラスは驚いたような眼で、じっと密偵の顔を見つめている。拷問兵士も、周りにいる衛兵たちも、驚いてダグラスを見た。
「待て」ダグラスは拷問兵士を下がらせ、密偵の顔を、信じられない顔で見た。
「お前は誰だ? お前の顔に見覚えがある。誰だ? どこで会ったんだ……」
密偵の声が変わった。ダグラスの目を見つめた。
「久しぶりですね。ダグラス様」
ダグラスは密偵の顔をまじまじと見た。どこかで見た顔だ。一体どこで?
「私のことをお忘れですか?」
密偵の声は女の声だった。ダグラスはごくりと唾をのみこんだ。
「まさか……イリスか?」
密偵はその言葉に笑みを浮かべた。ハワードが檻の外からダグラスに尋ねた。
「誰だ?」
ダグラスは驚いた顔のまま、ハワードに目を移した。
「国王の、亡き第一王妃、シェルビリーヌ様の侍女だった者です」
ダグラスはイリスを見た。両手でイリスの肩をつかみ、揺さぶった。
「こんなところで何をしている? なぜこんなことを!」
「あの時は、マルガレッタを助けようとしてくださって、ありがとうございます」
イリスは遠い眼をした。
「ジークレッド王に会わせてください。色々知りたいんでしょう? 捕まってしまったからには、仕方ない。観念します」
「王は今朝、東の支城に発った。お戻りになるのは二日後だ」ダグラスが答えた。
「二日も待てません。マールセン国王は、私がシェーンベルガー国へ寝返ったと思うでしょう。密偵とはそういうものなんです。まあ、どっちにしろ私はここで殺されるのだから関係ないですね」
「イリス、全て話してくれたら、お前の命は私が預かる」
「私をとがめず、この国で暮らせと?」
イリスは首を振って笑った。
「私はシェーンベルガー国を捨てたんです。もう二度とこの地は踏まないと決めました。そして、マールセン国王の使命に従った。そうでなければこの国に戻ってくる事はなかった……」
イリスは宙を睨んだ。そしてその目をダグラスに移した。
「もし話をしたら、私を自由にして、チェルニア国に帰してくれますか?」
彼女は首を回し、ハワード卿を見た。
「あなたが噂に名高いハワード卿ですね」イリスは落ち着き払って言った。
ハワードはイリスを見つめ返した。
「ハワード卿、あなたにもお願いします。誓って下さい。話せば、私を自由にすると」
イリスの目はまっすぐにハワードを見据えた。ハワードは彼女の気迫に思わず苦笑した。
「太々(ふてぶて)しい侍女もいたものだ」
ハワードは笑いながら、続けた。
「いいだろう。真実を話せば、お前は自由だ」
イリスは満足そうに息をついた。
「ではダグラス様、それにハワード卿、あなた方お二人に、お話します。」
「チェルニア国に入ってから、侍女の職を探しました。私が、シェーンベルガー国の出身であることに、皆が興味を持ちました。
やがてマールセン国王に直接、事情を話す機会を得ました。国王は私がシェーンベルガー城内のことを隅々まで知っていることに興奮していました。
チェルニア城で暮らすうち、マールセン国王がジークッレッド様に怨念を抱いていることを知りました。マールセン国王の娘エレノラ王女が、自分の父親とジークレッドの板挟みになり、ジークレッド様を愛するあまり、自害してしまったことを、国王は深く憎んでいました。自分に対しても後悔の念が相当深かったと思います。
私はマールセン国王に同情しました。姉のマルガレッタが酷い殺されかたをしたのも、そもそもジークレッド様がシェルビリーヌ王女に関心を示さず、マルガレッタに不用意に近づいたせいだと思います。
密偵になる訓練は二年くらい続きました。女ですからね。辛い訓練もありました。でもジークレッド国王に代償を払わせたいとと思っていましたから乗り越えられたんです。腕を上げて、仲間からは優秀な密偵だと評価されました。私にはきっと密偵になるのが向いていたんでしょう。マールセン国王の手足になって動きました。
シェーンベルガー国は侍女が少なく、目立つといけないので男として忍び込むことにしました。
マールセン国王に与えられた使命は、〈魔の力〉をトレイシア王女とディアナベス王女が持っているのかを探ること。
そもそも〈魔の力〉がどんなものか私は見たことがありません。
トレイシア王女がシェーンベルガー国へ来てからずっと様子をうかがっていましたが、結局、何もつかめないまま時が過ぎました。
昨日の深夜遅く、別の密偵から知らせがきました。私の任務は終わったので、チェルニア国へ戻るようにと。〈魔の力〉を持っているのはブルクミラン国のディアナベス王女だということを確信したと言っていました。
そして、チェルニア国王がすでにディアナベス王女をブルクミラン城から連れ出したそうです。」




