第19章 雨
トレイシアは、ジークレッドから贈られたバイオリンを、部屋で奏でた。
やがて、西の棟の回廊に騎士や従者たちが自然に集まってきた。密かに廊下の外に、佇む者が大勢いた。
シェーンベルガー国は、雨の多い季節に入り、外へ出ることができない日々が続いていた。
彼女はバイオリンを持って西の棟の一階の吹きぬけに行った。
何かの慰めになるかもしれない。彼女は美しい音色を奏で始めた。
ブルクミラン国では、恋人たちが静かな夜に出会う時に、奏でる曲だ。ロマンチックで慈しむような旋律だ。
やがて部屋という部屋から人々が集まってきた。
吹き抜けなので音がよく響く。
聴衆はうっとりした様子でトレイシアの演奏を楽しんでいた。
曲を弾き終わると彼女は優雅にお辞儀をした。大きな拍手が起こった。歓声を挙げる者もいる。騎士も大臣も従者も身分に関係なく喜んでいる様子だった。
彼女は次に三拍子のワルツを弾きだした。楽し気で気品に満ち溢れた曲だった。思わずステップを踏み出したくなる旋律だ。豪華な舞踏会にいるようだ。従者の中にはふざけて男同士でダンスする者もいた。トレイシアはちらりとそれを見て思わず笑った。
聴衆が一体となってリズムに合わせて身体を揺らしている。じめじめした暗い天気を吹き飛ばすような優雅な明るいバイオリンの旋律に感嘆の声が上がった。曲が終わるとトレイシアはまた優雅にお辞儀した。大歓声だった。
トレイシアは上の階に、ジークレッドの姿をみとめた。ダグラスが隣にいる。音の力を見せているわけではない。とがめられることもないだろう。
トレイシアはまた弓を構えた。今度はまたうっとりするようなロマンチックなメロディだった。切ないが幸福に満ちている。みんなからほうっとため息が上がった。彼女は丁寧に一音一音に心を込めた。
これは愛のメロディだ。
弾きながら彼女は自然に、初めにジークレッドにラルス・ジーモンの肖像画を見せた時のこと、トスカーラに迎えに来てくれた時のこと、シェーンベルガーで迎えられたことを、思い浮かべていた。
そしてダンジョンの暗闇で手を引いてくれたこと。弾き終わったトレイシアは自分の気持ちを音に表現した気分になって高揚した。
あまりの素晴らしい演奏に聴衆も驚いたように息をのんでいるのが伝わってきた。
トレイシアは、無意識のうちにジークレッドを見上げた。澄んだ碧色の目がトレイシアを見つめていた。
彼女はジークレッドに向かってお辞儀をした。
聴衆は大拍手をした。皆、演奏の素晴らしさに感動しているようだった。拍手はいつまでも鳴りやまなかった。
彼女は顔を上げると顔が熱くなるような気がした。
胸の鼓動を整えて、また弓を構えた。
最後はシェーンベルガーの宴の時に歌われる有名な曲だった。誰もが知っている力強い陽気な曲だ。聴衆から歓声が上がった。そして侍女や従者から宰相までも自然と口ずさみ大合唱になった。聴衆の心が一つになった。
彼女のバイオリンの音色はさっきとうって変わって力強く、心から力が湧いてくるような音だった。トレイシアはいつの間に曲を覚えたのだろう。音は正確に皆の合唱を力強く導いていった。
曲が終わり、西の棟は人々で埋め尽くされていた。彼女は全員に向かって四方向にお辞儀をした。
聴衆は皆、トレイシアのとりこになったことだろう。
彼女は聴衆に手を挙げて、自分の部屋へ戻る階段へ向かった。途中人々から賞賛の言葉が絶えなかった。彼女は笑顔で皆に応えながら、自室の扉を閉めた。
ジークレッドはしばらくその場から動けなかった。ブルクミランで聞いた曲よりさらに、彼女の演奏が彼の心を揺さぶっていた。曲を奏でるトレイシアの姿が頭から離れなかった。
彼は自分から湧き出る気持ちを持て余していた。妙に落ち着かない気分になった。
こんなことは、初めてだ。
ダグラスは彼の様子を見て、そっとその場から離れた。
その夜、侍女のひとりが、バラの風呂を準備してくれた。トレイシアはバラの香りをすっかり気に入って、風呂の中でゆったりと身体を休ませた。
「みな、トレイシア様のファンになりましたね」
侍女が衝立の向こうから声をかけた。
「少しは慰みになったかしら」
「大いにですよ。この国は音楽とはほとんど無縁ですから。私も涙が出るくらい感動しました」
「大げさね」トレイシアは白い肌にピンクがかった足を伸ばした。
「あら、雨が上がったようです。珍しく月が出ています」侍女は窓から乗り出して、空を見ている。トレイシアは大きなタオルをまとって、侍女の隣に並んだ。
「まあ、そんな恰好で」
「きれい。久しぶりの雨上がりね」
トレイシアは急いで簡単なドレスをまとい、上着を羽織った。
「外へ出るんですか?」
「すぐ戻るわ。外の空気を吸いたいの」
庭はぬかるんでいるだろう、ブーツをはいた。
トレイシアは、部屋から見えるバラ園に行った。バラの季節は過ぎていたが、緑の葉に雨の露が残り、きらきらと輝いていた。庭には水たまりが出来ている。水に月が反射して光っている。トレイシアは静かに水を踏んで放射状の輪が広がっていくのを見た。
「トレイシア」
名前を呼ばれて、はっと顔を上げると、バラ園のドームの向こうにジークレッドが立っていた。トレイシアは思わず黙って見つめていた。
彼の姿は、まるで月の光で創られた天の使いのようではないか。彼女はジークレッドが近づいてくるまで、自分が見とれてしまっているのに気が付かないほどだった。はっとして慌てて腰を落として挨拶した。
「ジークレッド様」
彼は少し離れた場所で立ちどまった。ジークレッドとはあれ以来、公務の内容以外、会話をしてない。
「雨が止んだので久しぶりに外へ出ました」
「私もだ」ジークレッドはそれ以上近づこうとはしなかった。
「今日は皆を楽しませてくれて、感謝している。見事な演奏だった」
「恐れ入ります」
トレイシアは、ジークレッドから演奏について何かとがめられることがあるのではないかと、どきどきしながら頭を下げた。
礼をしてジークレッドの方を見ると、彼はトレイシアを黙って見つめている。トレイシアはこのまま立ち去った方が良いものかどうか迷ったが、結局、もと来た道を引き返すことにした。
「それでは私はこれで……」
「そのまま聞いてくれるか」
ジークレッドの沈んだ声が聞こえた。何かあったのだろうか?
彼は月の方を見るでもなく、どこか遠くを見ていた。横顔が月に照らされている。
「私の実弟と叔父は、南の棟で死んだ」
トレイシアは目を見開いて、眉をひそめた。
「十五歳の時だ。私は初めの結婚を控えていた。ある夜、侍女が、私に毒が入った茶を飲ませようとした。だが口に入れようとした瞬間、彼女は私から毒のカップを取り上げた」
彼女は突然の彼の告白に言葉が出なかった。
「寝室には叔父が送った刺客が忍んでいた。刺客は私を殺しそこね、代わりに侍女を剣で刺して逃げた」
ジークレッドの顔が苦痛で歪んだ。
「侍女は……ずっと私を慕っていたと言い残し、息を引き取った。彼女は私と心中するつもりだった」
彼は、そのまま続けた。
「私の叔父は実弟と王位継承を狙っていた。それを私は何も知らずに十五年間過ごしていたのだ。その晩、私はこの手で叔父を殺した。ダグラスが刺客を仕留め、実弟は自害した」
彼はドームの柱に手を置き、月を見上げた。
「今日のそなたの演奏は、今宵の雨上がりのようだ。一時だが心が救われた」
ジークレッドは穏やかな笑みを浮かべた。
「だからあらためて礼を言う」
ジークレッドはトレイシアの方を向いた。
トレイシアはじっと動かなかった。
彼女は静かに泣いていた。
自分の目から涙が流れていることに気が付かない様子だ。
ジークレッドは驚いて彼女を見つめた。トレイシアは涙を止めることが出来なかった。
「なぜ泣いている?」
彼が辛そうな声で尋ねた。トレイシアは瞬きをした。また涙が頬を伝っていった。
「……私が?」
南の棟に行った時のダグラスの暗い顔。〈あそこにはもう行かないで下さい。お願いします。ジークレッド様が悲しまれると思います〉というダグラスの言葉が頭に浮かんだ。あの棟は、まだ少年だったジークレッドの身に起こった、事件の現場だったのだ。
彼女は頬の涙を右手でぬぐった。
(なぜ私は泣いているの?)
ジークレッドが近づいてきた。トレイシアはそれを黙って見ていた。彼がトレイシアの前に立つと、ジークレッドの美しい碧眼が切なげに揺れているのが見えた。
彼は何も言わずトレイシアの前で立ち止まり、ゆっくりと彼女の方へ右手を伸ばした。その手でトレイシアの腕を引っ張り自分の方へ引き寄せた。そして両腕でしっかりと彼女を抱きしめた。突然の抱擁にトレイシアは驚いた。自分の鼓動も速かったが彼の鼓動も速かった。これは現実に起こっていることなのか?
彼の身体はとても冷たかった。
ジークレッドはじっと動かなかった。
トレイシアの温かさを感じるかのように。
その時、頬に冷たいものが当たった。彼女は顔を上げた、雨が降り出したのだ。ジークレッドも顔を上げた。大粒の雨が髪に触れた。
耳元で彼のかすれる声がした。
「私は何かを望んではいけないのか?」
「……何を……!」
彼は両手でトレイシアの頬に手を置き、身体をかがめた。
ジークレッドの顔がすぐ近くにある。彼はトレイシアの唇に自分の唇を重ねた。何が起きたかわからないほど突然の事だった。
やがてジークレッドはトレイシアから離れ、雨が降り始める中、ジークレッドはトレイシアの手を引いて城内へと走った。
二人が建物に入ると、本格的に雨が降り出した。
二人は音を立てて降り始めた雨をしばらく眺めていた。トレイシアはまだ茫然としていた。彼はそっと彼女の髪の濡れた髪に触れようとした。
「トレイシア様」
レディスの声が階段の上の方から聞こえてきた。また自分を探しているのだ。ジークレッドは笑みを浮かべた。
「すぐにいってやれ」
「はい」
返事はしたものの彼女はジークレッドの傍から離れられなかった。レディスが階段から降りてきた。
ジークレッドは一瞬切なそうな目でトレイシアを見た。それからレディスの方を振り向いた。
レディスは二人の姿を見て、足を止めた。
「ジークレッド様とご一緒でしたか。失礼しました」
「少し雨に濡れた。王女が風邪をひかないように気を付けてくれ」
「かしこまりました」
ジークレッドはトレイシアに笑顔を向け、颯爽と立ち去って行った。
トレイシアはじっとジークレッドの後姿を見送った。胸の鼓動はおさまりそうになかった。彼女は手で唇にそっと触れた。
雨音がますます激しくなってきた。




