第16章 ダンジョン
城の庭では、毎日騎士の鍛錬が行われていた。トレイシアも中庭からその様子をうかがうことができた。
ダグラスは格段に強かった。
幼いうちからダグラスに指導されたジークレッドは、ダグラスから三本に一本は確実に取ると聞き、彼も相当の強さだと知った。
シェーンベルガー軍の訓練は、実際の戦闘を意識したものだった。平和でのんびりしたブルクミラン国の鍛錬とは雲泥の差だった。
城内は男性がほとんどだった。
侍女の代わりに男性の従者が仕えていた。たまに厨房や食卓に侍女の姿を見かけたが、トレイシアの周りにはレディスと、たまに二人の侍女が訪れるだけで、他に女性はいなかった。
シェーンベルガー国に来る前は、宮廷内の王侯貴族の華やかな社交界に入らなければならないかと、気が重かったが、貴族の女性たちの社交が無いのは、内心、荷を下ろした気分だった。
時々貴族の馬車が止まり、着飾った女性の姿を目にする時もあったが、たいていは短い時間で去って行った。
トレイシアはずっと気にかかっていたことをジークレッドに頼んでみようと、中庭で、ダグラスが一人になったのを見計らって尋ねてみた。
「ジークレッド様は、今日は一日城下の視察に行って、戻るのは夜になると思います」ダグラスが言った。
「どんなご用件ですか? 私に出来ることならお手伝いします」
タオルで汗を拭きながらダグラスが言った。トレイシアは低い声で言った。
「この城にもラルス・ジーモンの肖像画があるでしょう?」
ダグラスは怪訝そうに彼女を見た。
「はい。ダンジョンにありますが」
少し考えてから彼は言葉をつないだ。
「そうか、トレイシア様は肖像画を研究なさっているのでしたね」
ダグラスはジークレッドから話を聞いているらしかった。
「ご案内いたしますよ」ダグラスは笑顔で言った。
「本当ですか。ありがとう、ダグラス」
昼下がり、ダグラスは彼女と共に西の塔の鍵を開け、ダンジョンに降りて行った。ひんやりとした空気が、らせん状の階段にしみこんでいた。地下に着くと、光は届かず、二人は持っていたランタンに火を点した。
また扉があらわれた。ダグラスは別の鍵を使って扉を開けた。暗い廊下が城の地下にずっと伸びている。両脇にたくさんの扉が並んでいる。朽ちかけているものもあれば、新しく付け替えたと思われるものもあった。
ダグラスは回廊を右へ曲がった。
その先に現れた、三番目の重厚な扉を開けた。
そこは天井の低い間で、横に長い部屋だった。定期的に掃除されているようだ。シンプルなソファと、壁にラルス・ジーモンの肖像画がかかっているだけの部屋だった。
彼女はじっと肖像画に見入った。
ラルス・ジーモンはいくらか斜めの方角を見て、はるか遠くへ視線を向けている。紫色のマントが肩から腰に掛けて風にたなびいていた。右足を岩の上に置き、左足をぴんと伸ばして立っている。背景はどこかの農村のようだった。遠くに城の影が見える。
保存状態が良い絵画だった。彼女は黙って肖像画を見つめた。
「ダグラス」トレイシアは肖像画を見たまま言った。「私はしばらくここにいてもいいでしょうか?」
「お独りで、ですか?」
「模写をしたいんです」彼女は言った。
「こんな暗い中で、ですか?」ダグラスは驚いた口調で言った。
「どの城もダンジョンは暗いわ」彼女は持ってきた羊皮紙とペンを取り出してソファに置いた。彼がどう言おうと彼女は留まるつもりだ。
「自分は戻らなければなりません。本当に独りでいいんですか?」
「帰り道はわかります。遅くならないようにしますから大丈夫です」
ダグラスは彼女が模写の準備するのを見ていた。
「では……塔の扉は閉めて行きます。中から鍵は開きます。誰も入ってくることはありません」
「わがままを言ってごめんなさい」トレイシアは感謝の気持ちを込めてダグラスを見た。
ダグラスは自分のカンテラをもう一つ置いて、静かに部屋を出た。彼女は既に肖像に集中している。不思議な方だ。いったい何度そう思っただろう。
ダグラスは慣れた足取りで暗闇の廊下を歩いて行った。
トレイシアは模写を始めた。
彼女は父王が、他国へ招待されるたびについていき、連れの画家にラルス・ジーモンの肖像画の模写をさせた。おかしなことをお願いする子どもだと各国の国王は思ったことだろう。
彼女は一緒にダンジョンに入り、画家が模写を終えるまで、自分も一緒に待った。
そのうち彼女は自然に画法を覚えていった。
画家が模写してブルクミラン国へ持ち帰った絵を、今度は自分で模写した。そんなことを繰り返すうち、だんだん腕を上げていった。しかし彼女が描くのはラルス・ジーモンの肖像画だけだったが。
ラルス・ジーモンは色々な画家に肖像画を描かせることによって、それが同時期に描かれたものである事を巧みに隠したのかもしれない。
普通、宮廷画家はひとりないし二人程度だが、数十人の画家を雇ってある期間に一斉に描かせたのだろう。
半年で一枚、一度に三人が描けば三年で十八枚。雇われた画家たちはどうなったのだろう。口封じのため密かに殺されたのだろうか。
トレイシアには、自分がなぜこれほどこの肖像画に魅入られているのかわからなかった。
しかし、幼いころ聞いた、ランゴバルト国が魔の国へ変わったというおとぎ話のような伝説が、彼女の心を捉えて離さなくなっていた。
不老不死のラルス・ジーモン。東方諸国を征服した無敵の国王。
彼女は暗いランタンの下で、夢中で描き続けて、いつしか時間の感覚が無くなっていた。
夕食の時間になっても戻らないトレイシアを、レディスが心配そうに探していた。ブルクミラン国内ではよくあることだったが、ここは異国の城だ。いったい、どこへ行ったのだろう。
レディスはついに騎士部屋のドアを叩いた。ダグラスが驚いた。
「まだお戻りではないのか?」
「貴方は姫がどこにいるか知っているのですか?」
ダグラスは頭をかいた。「ああ……まあ」言葉を濁した。
「すぐ呼んで参るから安心して待っていてくれ」
ダグラスは急いで外へ向かった。レディスは呆れてダグラスを見送った。どこに行っても相変わらずのトレイシア様。
外はすっかり暗くなっていた。ダグラスが庭に出ると、ちょうどジークレッドが騎士のドレークと共に戻ってきたところだった。
「ジークレッド様」
ダグラスは王を迎えた。ジークレッドはひらりと馬から降りた。
「ご視察はいかがでしたか」
「上々だ。実はある工房へ行ってきた」
ドレークが後ろからきて、木の箱のようなものを見せた。
「バイオリンだ。面白かったぞ。今度はトレイシアも連れて行こう」
ジークレッドが高揚した様子で言った。
(トレイシア様に何かあったら大変だ)
ダグラスは急いで礼をした。ダンジョンの鍵束が彼の腰元でガシャガシャと音を立てた。
「では後程」
「どこへ行くんだ? 何を急いでいる?」
ジークレッドはダグラスの慌てた様子に気が付いた。
「西のダンジョンです」
ダグラスは仕方なく事情を話した。トレイシアを案内してからもうかれこれ五時間になる。
「私が行こう」
ジークレッドは手を差し出した。ダグラスはその手にダンジョンの鍵束を渡した。
「申し訳ありません」
「お前が謝ることはない」
ジークレッドは月明りの薄暗がりを歩き出した。ダグラスは後に続いた。
歩き出したとたん、ドレークに腕をつかまれて、引き戻された。
「気をきかせろよ」
ダグラスは不思議そうな顔でドレークを見た。ドレークは、にっと口角を上げ、大事そうに楽器を抱えて、城内へ歩いて行った。ダグラスはしばらく考えていたが、どうしたものかその場で考え込んだ。
塔の入り口にかかるろうそくを手に、ジークレッドは西の塔へ降りて行った。回廊を右へ曲がり、三つ目のドアを叩いた。
「トレイシア、私だ」ジークレッドは戸の外から声をかけた。返事が無い。
そっと扉を開けた。部屋はすでにランタンの火が消え、真っ暗だった。
トレイシアはペンを手に持ったままソファの上で眠っていた。
正面にはラルス・ジーモンが立っているかのようだ。異国の暗いダンジョンでよく眠れるものだ。
ジークレッドはソファの方へ回った。トレイシアの手から落ちた羊皮紙を拾い上げた。
精密な、肖像画の模写が、完成していた。
色々な才能を持っているものだな。ジークレッドは眠っているトレイシアを感心して見た。
起こそうとした手がふと止った。眠っているトレイシアは、繊細で美しかった。
彼はしばらく彼女の穏やかな寝顔を見つめた。バイオリンを見たら彼女は喜ぶだろう。その時の顔が見たかった。彼女を喜ばせたいと思った。
知らないうちにジークレッドの手が震えていた。
だめだ。私が近づけば彼女を傷つけてしまう。他の女性たちのように彼女を不幸にする。私に近づく者は皆不幸になる。トレイシアをそんな目に遭わせたくはなかった。私は彼女の幸せを望んでいる。彼女を大切にしたいと思った。彼女の笑顔が見たかった。
やがて彼女は寝がえりを打とうと動いた。
人の気配を感じて、ふと目を開けた。目にジークレッドが立っているのが見えた。彼女は驚いて、息を呑みこんだ。
「ジークレッド様」
「よく寝ていたな」彼は優しい笑みを浮かべた。「皆が心配して探している」
トレイシアは慌てて立ちあがった。
「許可もなく入り、すみません」
「許可などいらない。しかしこんなところでよく眠れるな」
「模写をしていたんです」
「よく描けている。画家のようだ。感心した」そう言いながら、ジークレッドは笑顔で羊皮紙を彼女に渡した。彼女はペンと羊皮紙を握った。
「戻ろう。腹がすいているだろう」
そんなに時間が経ったのだろうか。彼女はまだ頭が覚めないままジークレッドの後に続いた。
扉を開けた瞬間、ふっとろうそくの火が消えた。二人は思いがけず暗闇の中に立った。
「誰かが外の扉を開けたんだ」彼の冷静な声が言った。ジークレッドは暗闇の中で彼女に手を差し出した。
「来い。私の手がわかるか」
トレイシアは声のする方へおずおずと手を差し出した。ジークレッドの手と触れ合った。彼はしっかりと彼女の手を握った。
「ゆっくりついて来るんだ。大丈夫か?」
「はい」
ジークレッドはここを歩くのに慣れている様子だった。トレイシアの歩調に合わせ彼女を引っ張っていた。
大きなジークレッドの手に引かれ、彼女は暗闇の中で鼓動が速くなるのを感じた。心臓の音が聞こえるのではないかと思うほどだった。
「ブルクミラン国のダンジョンを歩いた時を思い出すな。あの時もこうして暗闇を歩いていた」
「私が目隠しをお願いして」
トレイシアが笑った。
「ずいぶん昔のことみたいです」
「そうだな」
急にトレイシアが足を滑らせた。ジークレッドが彼女を腕で支えた。
「ごめんなさい」
彼は彼女を引っ張り上げた。その時、トレイシアは、彼に強い力で抱きしめられたような気がした。心臓が走るように速くなり、顔が熱くなった。暗闇の中でよくわからない。
「……ジークレッド様?」
トレイシアはやっとの思いで掠れるような声で言った。
「……行こう」
ジークレッドは彼女の手を引いて再び歩き出した。彼女は何も考えられなくなっていた。ただ彼の手が熱く、奇妙な戸惑いと恥ずかしさが入り混じり、心が乱れた。
ジークレッドが立ち止まった。階段の下まで来たのだ。
「ここからはそなたが先に行け。行き止まりの扉は一つしかないから迷う事はない。私はすぐ後ろを歩く。落ちたら受け止めてやるから心配するな」
「はい」
ジークレッドは彼女を後ろから支えるようにゆっくり上がって行った。
「ジークレッド様。このような面倒をかけて申し訳ありません」
「面倒などとは思っていない。気にするな」彼は静かに言った。
トレイシアはすぐ耳元で聞こえる彼の声に思わずうっとりするような気分になった。冷静さを取り戻したいのに心のざわつきは激しさを増すばかりだった。
そこから逃げ出したい一方、トレイシアは別の事を考えていた。もしこの階段がずっと続いたら。
〈ジークレッド様に魅かれている。〉
シェルビリーヌの言葉が突然よみがえった。そうなの? これはそういう事なの?
〈本心かどうかは、現実で貴女自身が知ることだ。〉
ハワード卿の目を思い出した。
その時、階段の上からランタンが灯された。トレイシアはジークレッドの腕が彼女の腕のすぐ横に、彼女を支えるように置かれているのを見た。思わずぱっと彼から身体を離した。
ダグラスがランタンを持って降りてきた。
「お二人ともお怪我は?」
ダグラスが心配そうに声をかけた。
「大丈夫です」
トレイシアが慌てるように言った。顔が火照っているのに違いない。
「歩けるか?」
「はい、もちろんです」
彼女は目をそらし、階段を上がって行った。ダグラスがすまなそうに立っていた。
「ダグラス、ごめんなさい。私眠ってしまったようです」
「え? あんなところでお休みになったんですか?」
続いてジークレッドが扉から出てきた。
「お前が扉を開けるからろうそくが消えたぞ。入るなら入るで下まで降りて来い」ジークレッドが文句を言うような口調で言った。
「お邪魔だと思い直してここでお待ちしました」ダグラスがジークレッドにささやくように言った。
「そう思ったなら初めから来なければよい」ジークレッドがつぶやいた。ダグラスはその言葉に、驚くような顔をした。
「レディスが大騒ぎしていると思います。お先に城へ。鍵をかけてから行きます」
ダグラスは何か嬉しそうに言いながら、ダンジョンの鍵を閉めた。
城に帰ってから、夕食の後、寝室に戻るまで、トレイシアはレディスに小言を言われ続けた。ここはブルクミラン国とは違うのだから、自分勝手に動かないよう、長々と説教し続けた。
皆が寝静まってからも、トレイシアはいつまでも眠れないでいた。ダンジョンで眠ってしまったからかもしれない。
ジークレッドが握った右手を見つめた。
暗闇の中の抱擁は気のせいだったのか。
ジークレッドの碧色の美しく優しい眼差しが頭から離れなかった。




