第14章 シェーンベルガー国
翌朝、夜明け前の薄暗いうちに彼らは出発した。
ジークレッドが先頭を行き、二人の騎士がそれに続いた。トレイシアを中央に挟み、しんがりは昨日と同じく、ダグラスが務めた。ジークレッドは慎重に方角を確認しながらゆっくり歩を進めている。二人の騎士も木々につけられた印を再確認している。
ダグラスがトレイシアに並んだ。
「あと二時間もすれば国境に入ります。もう少しの辛抱です」
トレイシアは笑ってうなずいた。
「貴方の言ったとおりだったわ」ダグラスはトレイシアを見た。「今までで一番怖い夢を見たかもしれません」
ダグラスは思い出すように言った。
「自分も初めはそうでした。この森は本当に変わっています。人の心に入り込んでくるような妙な魔がいるようです」
「マンスフェルトの森を通る訓練をしたのですか?」
ダグラスはうなずいた。
「選ばれた騎士だけですが、通り抜けられる程度の訓練はします。シェーンベルガー国の地の利を生かした武術のひとつのようなものです」
二人はしばらく黙って走った。
一行はついにマンスフェルトの森を抜け、シェーンベルガー国の国境に入った。
彼女はほっとした顔で、森を振り返った。もう二度とここには来ないだろう。
暖かい日の光に照らされても、まだ背筋の冷たさが感じられた。
美しい緑の丘がずっと続き、その向こうに視界の果てまで麦畑がどこまでも続くのが見渡せた。彼女はその広大さにほっと感嘆のため息を漏らした。一行は自分の国に戻ってきた安心感に、しばし、馬の足を緩めた。
「美しい国ですね」トレイシアが眩しそうに目の前に広がる風景を眺めてジークレッドに言った。
「そうだな」ジークレッドも満足気にうなずいた。
気が付くとジークレッドが自分をじっと見つめていた。
「大変な思いをさせてすまなかった」彼は心からいたわるように言った。
「いいえ。ジークレッド様自らお出迎え下さって恐れ入ります。王の不在中に何もなければよいのですが」
「信頼できる家臣たちがいる。私はその者たちを信じている。」
彼は軽やかに笑った。
そして真面目な顔でトレイシアを見た。
「そなたにとって、ここは異国だ。だが城内では言いたいことがあれば遠慮なく話せ。胸のうちに思いを秘めるとろくなことはない」
ジークレッドは穏やかだが、確固とした口調で言った。
「私は皆にそう言っている。なんでも話すといい」
「はい」トレイシアはしっかりとうなずいた。
「では早速、お願いがあります」
ジークレッドは愉快そうに彼女を見た。
「何だ?」
「私をブルクミランの王女として迎えるのでなく、ブルクミラン国の正式な親善大使としてお迎えください」トレイシアはしっかりとした口調で言った。ジークレッドは少し考えた。
「なかなか良い案だな。そなたの言う通りにしよう」
「もう一つあります」トレイシアはじっと彼を見据えた。
「城内でドレスは着ません。このままでも構いません。また城内外での剣の帯刀を許可して下さい」
ジークレッドは少し驚いたような眼をした。それからふっと笑みを浮かべた。
「いいだろう。そなたの望むようにしたらいい」
トレイシアはほっとした表情をした。
「ありがとうございます」
「ブルクミラン王はそなたのような、王女を持ってさぞ安心しているだろう」
「父上は私を変人扱いなさって呆れております」
「そのように話されることもあるだろうが、多くの者はそうは思わないだろう。そなたは王位継承者にふさわしい」
その言葉に、トレイシアは目を見張った。
「議会が済んだら、私も良いように取り計らおう」
ジークレッドは笑って、馬を走らせた。
「城までとばすぞ」
彼はよく通る声で、皆に言いながら駆け抜けて行った。一行は王を先頭に手綱を操り、馬をせかした。
一行がシェーンベルガー城へ到着したのは、昼頃だった。
真上から太陽の光が差して、城門が開き、両側に大きなオークの木が並び、きれいに舗装された広い道を辿って行くと、美しい城の一角が見え始めた。
トレイシアは思わず目を見開いて、その城の巨大さに息をのんだ。ブルクミラン城の何十倍もあるだろう。
シェーンベルガー城に近づいていくと、建物へと続く短い階段の両側に兵士たちが整列していた。
中央で、宰相のベルンヘルト侯爵とジークレッドの近衛騎士、ドレークとデルツが王を出迎えた。
一行が馬から降りると、兵士らが慇懃に礼をして、馬を連れて行った。
宰相は穏やかな目に知性をたたえた、六十代ほどの紳士だった。
「ようこそシェーンベルガー国へ。トレイシア様、お会いできて光栄です。私は宰相のベルンヘルトと申します」
「はじめまして。しばらくお世話になります。よろしくお願いします」トレイシアが丁寧に礼をした。
彼女は眺めの良い、バラ園の見える広い部屋に案内された。重厚な家具が置かれている。天蓋付きのベッドには動くと光を放つ生地のドレープに囲われていた。
部屋にはブルクミランの騎士のレディスが待っていた。二人は固く抱き合い、レディスは泣きださんばかりだった。彼女は侍女の姿をしていた。ここにいる間は彼女が一番近い側近として仕えてくれる。心強いことだ。
二時間後、騎士デルツが迎えに来た。
彼女は〈円卓の間〉へと案内された。
〈円卓の間〉はオーク材の重厚な柱と壁に覆われ、正面の庭が一望できる落ち着きのある広い部屋だった。重そうな楕円形の大きなテーブルが中央に置かれ、九脚の椅子が並んでいた。
王座がなく、ジークレッドが座る椅子は一段と背もたれが高く、シェーンベルガー国の紋章が刻印されていた。壁にはかなり精巧な地図がかけられていた。王座と対面する壁一面の書棚には、ぎっしりと本が並んでいる。
円卓にはジークレッド、宰相ベルンヘルト、ドミニク軍務大臣、カスパール将軍、レンナート外務大臣、そして騎士隊長のダグラス、そして、マケドラーダ国のハワード卿の姿があった。
トレイシアはシェーンベルガー国とブルクミラン国を結び親善大使として紹介された。ジークレッドは彼女との約束を守ってくれた。
半刻ばかりの会合が終わり、解散となった。トレイシアは〈円卓の間〉を真っ先に出て行くハワード卿の後を追った。
ジークレッドからの重大な使命、――――ランゴバルト国をマンスフェルトの森を通って偵察に行くこと――――を果たしたハワード卿を直に目にし、トレイシアは胸が高鳴った。
その使命を全うした後、ジークレッドの従妹の、キャスリーン姫と結ばれた話は、身分違いの恋の美談として広く伝えられている。
「ハワード卿」
彼女は声をかけた。
ハワードは会合中も非常に寡黙だった。トレイシアは、彼が言葉の少ない男性であることを、妹のディアナベスから聞いていた。
「いつかはディアナベスを助けて頂きありがとうございました」
ハワードは振り向き、じっとトレイシアを見つめた。
「ディアナベス姫の姉君であられましたね」ハワードの低く、地を這うような、唸るような声色だった。
二人は並んで廊下を歩き始めた。言葉は交わさずに並んで歩いたが、穏やかな温かいものを彼女は感じていた。
やがてハワードが低い声で言った。
「いくつかお尋ねしたいことがあります」
トレイシアは大柄な身体のハワードを見上げた。
「私もです」
ハワードは穏やかな目でトレイシアを見返した。
「時間はたっぷりあります。今日はゆっくり休まれたほうが良いでしょう」
「そうさせて頂きます」
彼女は心身ともに疲れていることを、正直に言った。
二人はその後もずっと黙って歩いた。回廊の曲がり角まで来て、ハワードは立ち止まった。
「ハワード卿。一つだけお尋ねしてもよいでしょうか?」
トレイシアは真剣な目で言った。ハワードは黙ってトレイシアの言葉を待った。
「マンスフェルトの森で見る夢は、自分の本心を映しているのですか?」
ハワードは険しい眼でトレイシアを見た。彼は彼女に向き直り、がっしりした両腕でトレイシアの肩へ優しく手を置いた。トレイシアは驚いてハワード卿を見上げた。
「忘れなさい」ハワードは穏やかな深い眼でトレイシアの目をじっと覗いた。トレイシアはただ彼を見つめた。
「貴女の居場所はここです。本心かどうかは、この現実の世界で、貴女自身が知ることです。あの森ではありません」
ハワードは手を離し、軽く礼をして歩き去った。
トレイシアはじっと彼の後ろ姿を見送った。




