第13章 悪夢
何の物音もしない、静か過ぎる夜の森の中で、眩しいほどのろうそくの灯りをはさんで、トレイシアと白い顔のシェルビリーヌが向かい合って座っている。
トレイシアは自分が夢の中にいるのだと心の中で何度も言い聞かせながら、恐怖心を抑えていた。
しかし、目の前の女性は実体そのものだった。とても夢の中とは思えない。妙に気になるのは彼女の透き通るような、白い肌だった。
彼女は小さな可愛らしい顔をトレイシアに向けて、ほほえみながら言った。
「会いに来て下さってありがとう」
トレイシアはじっとシェルビリーヌを見つめた。彼女は言葉を続けた。
「そんなに警戒しなくても大丈夫よ。これは夢です」
(わかっています)トレイシアは心の中で答えた。
シェルビリーヌは謎めいた笑みを浮かべた。
「本当にそうだと思うの?」
「貴女は……もうこの世にはいません」
するとシェルビリーヌは首を傾げた。
「それはあまり重要ではないわ。人の魂は、心の中に残ってずっと生き続けるの」
彼女はトレイシアを見つめた
「歌っていたのは貴女ね。貴女はブルクミラン国の王女。」
トレイシアはぎくりとした。
「〈森〉が教えてくれたの。貴女は〈良き音の力〉を持っているのね」
シェルビリーヌはトレイシアから目を離した。
「〈闇の音〉を歌ってはだめよ。〈マンスフェルトの森〉は悪しきものを滅ぼしてしまうから。」
彼女は白すぎる細い手をトレイシアの方へ伸ばした。
彼女の氷のように冷たい手がトレイシアの手に触れた。トレイシアは思わず手を引こうとした。しかしシェルビリーヌは思いもよらない強い力で、彼女の手を握りしめた。トレイシアは悲鳴を上げそうになったが、声が出ない。
「貴女の心がジークレッド様に動いているのを感じるの。」
彼女はトレイシアを睨み、暗い表情に変わった。
「手を放してください」
「私のジークレッド様を奪わないで。」
その声は憎しみに満ちた、低い声だった。
トレイシアはやっとのことで手を振り払い、椅子から立ち上がって、後ろに下がった。
シェルビリーヌの顔が歪んでいる。目を細めて鋭い視線でトレイシアを見ている。
「……貴女は、私と同じなの。ジークレッド様に魅かれている」シェルビリーヌは秘密を探るような眼でトレイシアを見つめた。
トレイシアは鼓動が速くなるのを感じ、黙って彼女の様子をうかがった。無意識に左の剣の柄を探っていた。
「もし、あなたの心がジークレッド様に傾いたら、あなたの大事なディアナベスが〈闇の歌〉を歌うことを〈マンスフェルトの森〉に話すわ。そうしたら〈森〉がディアナベスをのみこんでしまうでしょう」
「やめて! そんなことはしないで。」
(これは夢だ。夢だ。引き込まれてはだめ)
シェルビリーヌの周りにまとわりつくような冷気は、耐えがたくトレイシアの身に降りかかっている。
「もう私は行きます。さようなら、シェルビリーヌ王女」
「どこへ行くの?」
シェルビリーヌが立ち去ろうとするトレイシアに声をかけた。たき火の方を向くと、やはりそこには誰の姿もない。
「貴女の行くところはどこにもないわ」
それでもトレイシアはシェルビリーヌから離れ、たき火のところへ戻った。胸のざわつきを感じながら、周りを見回した。
後ろを振り向くと、シェルビリーヌの姿もテーブルや椅子も消えていた。
突然彼女は毛布の中で目を開いた。夢から覚めたのだ。後味の悪い夢だ。
「大丈夫か?」
隣でジークレッドの声がした。トレイシアは起き上がった。彼が心配そうに彼女を見ている。トレイシアは呆然として周りを見渡した。ジークレッドの他にはだれもいない。暗がりに何頭かの馬の影が見える。
「他の皆は?」
トレイシアは不安げに尋ねた。突然ジークレッドの腕が伸び、トレイシアの肩を抱いて自分の方へ引き寄せた。トレイシアは驚いて、鼓動が速くなった。ジークレッドの方に頭を向けた。頬に触れるほどに顔が近い。彼の腕に力が入り、身動きできない。
「安心しろ。皆は探しに行っている」
何を探しに……?
ふと見ると自分が着ている騎士の衣装が美しい真っ赤なドレスにかわっている。自分の手の様子も違う。トレイシアは嫌な予感がした。
「震えているな。怖い夢でも見たのか?」
ジークレッドが耳元で優しくささやいた。
「シェルビリーヌ様の夢を……」
ジークレッドが彼女の身体を強く抱きしめた。
「大丈夫だ」
彼の声はうっとりするほど優しかった。
はっとして後ろを振り向くと、たき火の向こう側に、ジークレッドと自分を見つめている、真っ青な顔をしたトレイシア自身が立っていた。
次の瞬間、彼女はトレイシア自身に戻っていた。
ジークレッドと美しい女性が抱き合っている。二人は口づけを交わしていた。ジークレッドは女性をゆっくりとたくましい腕で支えながら押し倒した。
トレイシアは胸が苦しくなって思わず目をそらした。そして身が切られるような感情から逃げるように、森の中へ走り出していった。どす黒い、今まで感じたことのない思いが心の中で渦巻いている。それは初めて味わった、体中が痛くなるような激しいうねりだった。彼女はその黒い感情から逃げ、やみくもに走り続けた。
闇が彼女の周りを追いかけてくる。彼女を飲みこもうとしているかのようだ。
唐突に夜の湖が目の前に広がった。彼女は慌てて立ち止まった。湖の向こうに大きな城が見える。見覚えのある城だ。どこで見たのだろう。昔、父王について行ったチェルニア国の城の一角だ。トレイシアは呆然と立ちすくみ、湖と城を見つめた。
音もなく、彼女のすぐわきを、黄色いドレスを着た黒髪の女性が通り過ぎた。トレイシアはぎくりとした。女性はトレイシアに全く気付かない様子で、湖の中へ入って行く。
突然、背後からジークレッドの声がした。
「ある夏の夜、エレノラは、王妃としての立場と自国への責任との板挟みに耐えられず、チェルニアへ一時帰国した折、自害した」
トレイシアはぎょっとして声のした方を振り向いた。ジークレッドが湖のほとりにじっと立っている。彼の目は冷たく、無表情な顔で、じっとエレノラが入水するのを見つめている。彼は動かない。女性はどんどん湖の中へ身を沈めていく。トレイシアははっとして、剣を水辺に置き、急いで女性の後を追って湖へ入って行った。
彼女は死のうとしている。もう肩のあたりまで水につかっている。
「待って!」
トレイシアは思わず叫んだ。湖の砂に足が取られてうまく前に進めない。必死に女性を追うが、彼女はもう湖の暗闇の中へ入って見えなくなった。
「だめよ! 戻って!」
叫んだとたん、砂に足が取られた、彼女は湖の中でおぼれた。必死に這い上がろうとしても、水中から抜け出せない。息が出来なくなった。彼女は必死でもがいた。たくさんの水が肺に入ってきた。
トレイシアは声にならない叫びを上げ、起き上がった。心臓が空気を求めてすさまじく鼓動している。彼女は思いっきり息を吸った。ジークレッドが片手で彼女を抱き起している。ダグラスともう一人の騎士も心配そうに彼女を覗き込んでいる。
トレイシアは周りを見回した。
たき火が燃えている。その向こうに別の騎士が、先程と同じように眠っている。
「トレイシア様」
ダグラスが言った。
トレイシアはこれが現実なのかまだ夢の中にいるのか、にわかに信じられなかった。
私は目覚めたのだろうか? 自分の手や恰好を見回した。左手が剣をつかんだのを見た。
彼女は苦しそうに肩で息をした。ジークレッドが彼女の背中を支えている。彼女は自分で起き上がり、両手でジークレッドの身体を押しのけた。
「大丈夫です」
彼女は真っ青な顔をして、冷や汗をぐっしょりと、かいていた。
まだ息が苦しい。ジークレッドが、黙って水を渡した。彼女はそれを受けとり、飲んだ。一息つくと、ジークレッドの目を見た。
トレイシアは黄色いドレスを着た女性が入水していった時の、ジークレッドの無表情な顔が頭から離れなかった。あの女性はジークレッドの三番目の王妃エレノラに違いない。
トレイシアは彼から目をそらし、立ち上がろうとした。足元がふらついている。ジークレッドが手を貸そうとしたが、その手を振り払って、皆がいるたき火の向かい側へ、よろめきながら歩いて行った。
白いテーブルも椅子もない。しかし今にもそれが現れそうな恐怖がよぎった。彼女は、じっと炎を見つめた。
「……怖い夢を見ただけです。もう落ち着きました」




