第12章 マンスフェルトの森
早朝、まだ暗がりの中で、トレイシアは騎士の衣装を身にまとい、腰に剣を差して、馬舎へと向かった。
自分の馬にブラシをかけて、十分な餌を与えた。
馬番の従者は、突然、王女が現れたので初めはぎょっとしていたが、彼女が誰の助けをも借りず、淡々と長旅の準備をするのを半分呆れたように、感心して眺めた。
「あっしゃ、王女様がご自分で馬のお世話をするところを初めて見ましたよ」
男は別の馬にブラシをかけながら話しかけた。
「私の国では自分のことは自分でするのよ」
「こりゃ驚いたな。王女様はもうお発ちになるんですか?」
「ええ。お世話になりました。海が恋しくなるでしょうね」
トレイシアはにっこり笑みを返した。
「王女様に声をかけられるなんて、初めてです」
男は真っ赤になって恐縮した。
背後から声が聞こえた。アロイス王子らの声だ。彼女は馬に馬具を取り付け、振り向いた。
彼らはトレイシアの姿に驚き、一瞬歩を止めた。彼女はジークレッドの姿をみとめ、笑顔を向けた。
「お早うございます」
「ずいぶん早いな」
ジークレッドはアロイスの方に目をやった。アロイスは肩をすくめて見せた。
騎士の姿をしたトレイシアは凛々しく清純さがかえって際立って見えた。
「アロイス様、私の共の騎士、セルスとノートンには、今日の昼頃、トスカーラ国を通って、シェーンベルガー国へ向かうように伝えておきました。彼らのことをよろしくお願いいたします」
アロイスは穏やかな笑みを浮かべてトレイシアに近づいた。アロイスは彼女との別れに、胸が重苦しかった。自分が感情を自制しているのを感じた。
「引き受けました。安心して下さい」
彼は彼女の手を取ってキスをした。
「その衣装、よくお似合いだ」
彼はまぶしそうにトレイシアを見た。
「心変わりはしませんか? 旅路を思うと心配です」そっと彼女の耳元にささやいた。
「ありがとうございます。またお会いしましょう」
彼女は感謝のこもった目で王子に笑みを返した。アロイスの従者が、五人それぞれに食料と水の入った麻袋を配った。
「ご苦労だった」ジークレッドは、馬舎の男に言った。
「道中お気をつけて」男は深々と頭を下げた。
「議会について公式の文書を送る。待っていてくれ」ジークレッドが言った。
「貴方の信頼に応えるよう尽力を惜しみません」とアロイスが答えた。
「よろしく頼む」ジークレッドはアロイスに近づき、二人は抱擁を交わした。
やがてジークレッドの一行は馬にまたがり、手綱を取った。
「また、会おう」
ジークレッドは鐙を蹴って先頭を走りだした。騎士達も王子に頭を下げ、次々に王に従った。
「お元気で。アロイス様」
トレイシアも笑顔を向けて、走り出した。
アロイスは胸にこみ上げてくる激しい思いを抑え、彼らの姿を見送った。
ジークレッドは最初から馬をとばしていた。
マンスフェストの森に入ると馬の歩みは遅くなる。夜は動きが取れないので、出来るだけ歩を進めておきたかった。
ダグラスがトレイシアに並んだ。
「昨夜はお休みになったのですか? 目が赤いようですが」
「大丈夫よ。森はどのくらいで抜けてきたのですか?」
「来るときは二日で。ずっと飛ばしましたから」
「森で野宿したの? それとも夜を徹して走ったの?」
「ほとんど走り続けました。しかし復路は、無理はなさらないと思います。行きは王も必死でしたから」
その言葉を聞いてトレイシアは内心、妙に嬉しい気持ちがした。
「ジークレッド様は、私の同行にお怒りかしら?」
「姫を危険にさらしたくないだけですよ。あの森は……変わっていますから」
方向感覚が失われるという話は聞いていたが、〈魔の森〉と言われるからには、他にも何かあるのだろう。
ずっと昔、ブルクミラン国で生まれ、〈魔の力〉を持った王女をマンスフェルトの森がのみこんだという伝説は知っていた。
トレイシアは恐ろしさと同時に、好奇心が湧いてくるのを感じた。
二時間後、一行はマンスフェストの森に向き合った。昼間でも中は光りがあまり届かず暗い。ジークレッドは馬の歩を緩めた。
「ここから先はお前たちに先頭を任せる。印を見誤るな。迷えば元も子もない」
「はっ」
二人の騎士が、ジークレッドの前に出た。
「ダグラスはしんがりを頼む。トレイシア、私の傍を離れるな」
いつになく緊迫した様子のジークレッドを不思議に思った。トレイシアは遅れを取らないようにジークレッドの横について走った。
森の様子は、彼女が知っているブルクミラン国の〈西の森〉とあまり変わりないように思えた。
木々の様子を見ると、たまに木の幹に色の付いた刀傷がついている。道順を示すためにつけられたものだろうか。一行は森の中まで入らず、馬の通り道から、たまに木々の合間に、外の景色が垣間見られる程度の森の際を進んでいった。
ジークレッドはたまにトレイシアの方へ眼をやり、様子を見ていた。何を心配しているのだろう。
そういえば小鳥の鳴き声がしない。森の端だからだろうか。
「なぜトスカーラ国に残らなかったんだ? 」
ジークレッドがトレイシアを見ながら言った。彼女も彼を見て逆に尋ねた。
「どうして私を置いて行こうとなさったのですか? 迎えに来て下さったとおっしゃっていたのに」
(そうだ。一刻も早く連れ戻したかった。だが、アロイス王子と一緒にいるトレイシアを見て、強い感情が起こった。こんなことは初めてだ。だからこそ、私から彼女を遠ざけなければならないと思った)
「そなた、昨日は一睡もしなかったのか?」
彼は彼女の顔をじっと観察するように見た。
「大丈夫です」
彼は少し心配そうに彼女を見つめた。
森に入って一時間ほどした頃だろうか、急に彼女の馬が歩を緩めた。様子が変だ。馬は前に進みたくないかのようにジグザグに歩み始めた。
彼女は安心させるように馬の首を優しく撫でた。彼女の馬は甘えるように、トレイシアに何かを訴えるような低い声出した。
やがて完全に動かなくなってしまった。彼女は馬から降りた。
「ジークレッド様、先に行ってください。もし許可して頂けるなら、ダグラスと共に後から行きます」
ダグラスが王に向かってうなずいた。ジークレッドは決断が付かぬままトレイシアを見つめた。
ふとトレイシアは穏やかな静かな声で歌い始めた。聞いたことのないような優しい音の調べだ。昔のブルクミランの言葉だろうか、意味は分からないが、聞いていると自然と心が落ち着いてくる。
トレイシアは馬の頭を抱きしめ、歌いながらまた手綱を引き、馬の歩を進めた。馬は戸惑いながらも歩き出し、やがて軽く走るような素振りを見せた。彼女は再び馬にまたがり、走り出した。
彼女は歌い続けた、馬は、安心したように順調なペースを取り戻した。周りにいるジークレッドらも不思議な安心感が湧いてくるのを感じていた。
いつに間にか周囲で鳥の泣き声も聞こえてきた。先頭を走る二人の騎士は不思議そうにトレイシアを振り返った。
ダグラスはこんな光景は初めて見た。トレイシアの歌のせいだろうか?
森の中の彼女は生き生きとして楽しそうだった。不思議な人だ。ダグラスはあらためて感じた。
トレイシアは隣で馬を進めるジークレッドを見た。
「私の歌はお邪魔でしょうか? 」
「良い声だ。心地いい」ジークレッドは愉快そうに笑った。トレイシアは嬉しそうに笑みを浮かべた。
一行は慎重な様子で、シェーンベルガー国に向けて、薄暗い森をさらに進んだ。先頭の騎士は木々の切り傷を確認しながら馬を走らせている。
トレイシアは少し前から眠気を感じていた。
一瞬ぼんやりした瞬間、前方の左手の小岩の上に黒い人影を見た。彼女ははっとした。
人影は、通り過ぎざま、木の影で見えなくなった。岩を振り返ると、そこには何もなかった。気のせいだったのだろうか。
「トレイシア、前だけに集中しろ」彼女の隣を行くジークレッドが言った。
「はい」
彼女は気を取り直して、前方に目を向けた。
馬はその後は、順調に走っている。ジークレッドの馬の隣を走っているので安心しているのかもしれない。
やがて彼女は前方に、今度ははっきりと黒い男が立っているのをみとめた。
男は暗い紺色の王族の衣装を身にまとい、マントが風に揺らいでいる。彼女は驚いて、じっと男の姿を凝視した。
どこかで見たことのある顔だ。よく知っている男ではないか?
トレイシアはぞっとした。
それは、彼女のダンジョンにある肖像画から抜け出したような、ラルス・ジーモンだった。
そんな馬鹿な!
彼女は思わず手綱を握る手に力を込めて、青ざめた顔でジークレッドを見た。ジークレッドは表情を変えず、前方を向いている。
しかし男の姿は近い、ジークレッドにも見えているはずだ。
「ジークレッド様……あれは?」
彼女はどんどん男に近づいていく。いつでも走りだせるようにトレイシアは手綱を強く握り、足に力を込めた。
男の暗く鋭い眼が彼女の視線とぶつかった。彼女は男の姿に目を奪われたまま、通り過ぎて行った。男は彼女をじっと見送った。
背筋が寒くなった。ジークレッドには見えないのだろうか?
彼女は頭を振り、前方だけに集中した。
こんなところに、ラルス・ジーモンがいるはずはない。気のせいだ。自分に言い聞かせた。
半刻ほど走った後、今度は前方の道のすぐわきに、誰かが立っている。
これはさすがに皆の目にも見えるはずだ。彼女は寒気を感じ、ジークレッドを見た。
ジークレッドもトレイシアの視線に気づき、彼女に顔を向けた。
「どうした?」
「道のわきに男が立っています。あそこに」
トレイシアは自分たちが近づいていく前方の男の方を指さした。
彼はラルス・ジーモンだ。肖像画の男に、見間違えようがない。
男の目は、既にトレイシアを捉えている。彼女もじっとラルス・ジーモンを見つめた。
ジークレッドは、幽霊でも見ているような青ざめた顔をしたトレイシアに目をやった。
「トレイシア」
彼女はごくりと唾を飲み込んだ。
今まさに、ラルス・ジーモンの傍を通り過ぎようとしている。
「トレイシア、私を見ろ」ジークレッドの鋭い声が言った。
彼女は、はっとして、ジークレッドの澄んだ碧眼に目を移した。
彼女はラルス・ジーモンの強い視線を感じながらも、男の暗い眼から解かれた。
皆には見えてないのだ。
トレイシアは青ざめたまま前方に目を移し、馬を走らせた。心臓がはねるように鳴っている。幻覚とは思えない、まさに実体そのものだった。
「この森の見せる幻覚だ」ジークレッドが言った。
「貴方には見えたのですか? 」
トレイシアが震えるような声で聞いた。
「おそらくそなたが見ているものとは違うものを目にしている。私も同じだ」
彼女は不安げに、ジークレッド方を向いた。
「そなたには何が見えた?」ジークレッドが尋ねた。
「ラルス・ジーモンです」トレイシアが答えた。
「なるほど」ジークレッドはふっと笑った。
彼は真剣な目でトレイシアの目を覗き込んだ。
「何か見ても、無視しろ。不安になったら、私に声をかけて、私を見るんだ。いいな」彼は優しい口調で言った。
トレイシアは青ざめた顔のままうなずいた。彼の力強い言葉が、恐怖心を退けた。
「不思議な森ですね」
「〈魔の森〉だ。これも東西が簡単に森を越えられない理由だろう」
「ハワード卿はこの森を越えて行かれたのですね」
「そうだ」
トレイシアはその使命の重さを想像した。
「どうやって森を抜けたのでしょう? 」
「国に着いたら、直接本人に尋ねるといい」
「ハワード卿にお会いするのが楽しみです」
「私も会うのは久しぶりだ。楽しみにしている」
トレイシアはしばらく考えていた。森についてもっと知りたかった。
「恐怖心が幻覚を生むのですか?」
「そうかもしれないな」
「では心を自制すれば、惑わされないのですね」
「よほどの自制心があれば、そうかもしれない。だが人には無意識というものがあるだろう。制御できない面もあって当然だ」
彼女はジークレッドを見た。ジークレッド様はどうだろう。彼ほど自制心の強い人ならば惑わされたりしないだろう。この森を通ることを選んだほどだ。
おそらくシェーンベルガー国の騎士達は、マンスフェストの森を抜ける訓練をしているのかもしれない。
やがて日が落ち、森はますます暗くなった。木々の間に暗闇が靄のように入り込んでいる。夜を徹して走り続ければ、シェーンベルガー国の領域に入るが、一行は一旦、馬を休ませることにした。
日が昇る前に、馬を進められるほどの明るさになったら、出発する。まず馬に水と食料を与え、五人はたき火を囲んで座った。
トスカーラ国を発つとき、渡された麻袋から、それぞれ適当な食料を口にした。
トレイシアは昨夜の睡眠不足のせいか、さっきから強い眠気を感じていた。騎士の一人は既に横になって休んでいる。
ダグラスがわざと怖い顔をしながらトレイシアに言った。
「この森で眠ると人生で一番怖い夢を見るそうです」
トレイシアは、好奇心をそそられたようにダグラスを見た。
「本当ですか」
もう一人の騎士が真面目な顔で言った。
「私もそう聞いています。行きも私は眠りませんでした」
「お前は怖がりだからな」
ダグラスがにやにや笑いながら言った。
かすかな寝息を立てている騎士を見やった。
「あいつはどこでも寝るな」ダグラスがつぶやいた。
「お前たちも私に構わず休め。そなたも今のうちに休んでおくといい」ジークレッドは隣のトレイシアに言った。
「ジークレッド様はお休みにならないのですか?」トレイシアが尋ねた。
「こんなところで眠れるか」ジークレッドはそう答えた。
「王は城でもそれほどお休みにはならない。トレイシア様、本当に気になさることはありません」ダグラスが言った。
そういえばジークレッドより騎士の方が早く眠りに入っているのも、今までの彼らの油断無い警備から考えると不思議な気がした。
トレイシアは今朝の事を思い出した。だいたい自分が睡眠不足になったのは、ジークレッドが自分を置いて出発するのに遅れないため熟睡できなかったのだ。
「まさかここに私を置いていったりはなさいませんよね?」
トレイシアは冗談めかして言った。
「心配なら眠っている間、私が手を握っているか?」
ジークレッドが冗談なのか本気なのかわからない笑みを浮かべて言った。トレイシアはどきりとして、目をそらした。
「結構です。だったら貴方の馬の手綱を握って休みます」
ジークレッドが笑った。
本当に今朝は置いていくつもりだったのだ。人の気も知らないで。
「では遠慮なく、お休みなさいませ」
トレイシアは準備した毛布にくるまって横になった。
眠気は圧倒的な強さで彼女を眠りに落とした。
一瞬がくりと身体が動き、眠りが浅くなった。
周りに人の気配がしないのをぼんやりと感じ取った。
彼女はぎょっとして、強い眠気に逆らって起き上がった。
何ということか!
彼女の周りには誰もいない。
薪の中に細々と炎が灯っている。馬もいない。皆どこへ行ったのだろう。彼女は焦ってあたりを見渡した。
そこに不思議な光景があった。
白いテーブルと椅子が、まるでその場だけ森の中を切り取ったように置かれている。椅子は二つあり、テーブルの上には明るくろうそくが灯っている。
手前の椅子に誰か髪の長い女性が後ろ向きに座っている。
これは夢だ。
夜の森の中に女性がひとりで椅子に座っているなんてどう考えてもおかしい。
でも夢の中にいるとは思えないほど意識ははっきりしている。
トレイシアはゆっくりと剣を携えたまま起き上がり、テーブルの方へ歩いて行った。もし現実だとしたら、あの髪の長い女性は、誰だろう? 女性は細い体に白いドレスを着ていた。
トレイシアはゆっくりと彼女の方へ近づいて行った。もうすぐ横顔が見える。白い肌に少し頬に赤みがさした若い女性だ。
シェルビリーヌだ。
トレイシアはアロイス王子の書斎で見た肖像画を思い出した。薄気味悪い、本能的な怖れを感じ、彼女は後ろへ下がろうとした。
その時、白いドレスの女性が顔を上げて、トレイシアを見た。肖像画のように可愛らしい笑顔がトレイシアを捉えた。少し目の焦点がずれている。その生々しい様子がトレイシアの意識をさらに覚醒させた。
「こんにちは。お待ちしていました。」小鳥が鳴くような声が言った。彼女はにっこり笑って、前の椅子を指した。
トレイシアは目の前で起こっていることが現実ではないと自身に言い聞かせながらも、その場から逃げ出したい衝動を必死に制した。そして女性の声に従い、彼女の前にある椅子にゆっくりと腰を降ろした。
とても夢とは思えない。夢だとしたら、何もかもがはっきりしすぎている。
まるで〈あの世〉と〈この世〉の狭間にいるようだ。




