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Devil of the sound  作者: 日向 翠
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第11章 和解

トレイシア王女とアロイス王子は要塞壁の上に立っていた。


そこは通路というより、軍道のように広く、兵士五十人くらいが横に並んで立てるほどの幅があった。そこから穏やかな大海を一眺することが出来た。


アロイスは石造りの狭間に腰を掛け、じっと考え込んだように海を見つめていた。トレイシアも近くに立ち、黙って海風にあたっていた。


 アロイスはランゴバルト国が失われた話を、にわかに信じることができなかった。確かにそれは、西方諸国にとって、脅威が取り除かれた平和の訪れのようにも感じられた。それにしても、代々守られてきたトスカーラの国の名誉と威信をかけた要塞の守備が幻の相手に対峙していたものだったとは。


 生き残った西方諸国は、世界の半分を失ってしまったのだ。永久に。


戦争を知らない今の世代の王国が、平和の中で次第に私利私欲のために動き出しているのは否めない。


 ジークレッドの言う通り、西方諸国が再び協定を新たに結び直し、平和への模索を開始しなければ、こちら側も第二のラルス・ジーモンを誕生させ、ランゴバルト国と同じ運命を辿ることになるかもしれない。

戦乱の世になるのは避けなければならない。アロイスは目が覚めるような思いでトレイシアの話を聞いた。



「砂浜に、降りてみませんか?」トレイシアがいつか静かな声で言った。

 アロイス王子は、はっと気がついて、トレイシアを見上げた。

「要塞の向こう側へ」彼女は海の果てをじっと見ながら言った。

「行きましょう」

 アロイスはうなずいた。


二人は地下通路の階段を下り、要塞の外堀を囲む石畳に出た。アロイスは外堀の壁にひらりと舞い上がり、トレイシアに手を差し伸べた。そしてトレイシアを堀の上に引っ張り上げ、二人で砂浜へ軽くジャンプした。


 初めての砂浜の感覚は、まるで固い雲の上に舞い降りたかのようだ。


「私はよく子供の頃、シェルビリーヌとこっそりここへきて砂遊びをしました」


 近くで見る海は静かで、あまりにも大きく、人の存在が世界の一部でしかないことを、語り掛けるかのようだった。穏やかな波が砂浜に打ち寄せている。なんと美しく偉大な存在だろう。ここに立っていると世の中のすべてが遠く感じて、この打ち寄せる海こそが真実のように思えてくる。


トレイシアは胸がいっぱいになった。

「ここに連れてきて下さって良かった」

 彼女は潤んだ目で海を見つめて言った。


アロイスは、久しく忘れていた温かい感情が胸に流れ込むのを感じた。長い事自分の心に宿っていた暗い心が晴れていくような気分だった。


 アロイスは海の方へ歩いて行った。そして砂浜にかがみ、ひとつの貝殻を拾い上げた。それは白く美しいオウムガイだった。

彼はそれをトレイシアに差し出した。


トレイシアは初めて見る美しい形に目を見張った。

「土産にすると良いでしょう。耳に当てると海の音がすると言われています」

「本当ですか?」

 彼女は驚いて貝を耳に当ててみた。


中からコォーッという風の鳴るような音がした。彼女は嬉しそうな驚きの表情でアロイスを見た。アロイスは胸がどきりとし、トレイシアの表情に自分も嬉しくなった。



 シェルビリーヌが彼女に引き合わせてくれたのかもしれない。彼女もよく大小さまざまなオウムガイを集めていた。大人になってからは、要塞壁の上から兵士を統率するために立ち寄るばかりだったが、確かにここへ来ると自分が心の呪縛から解き放たれるような気がした。



 外堀の壁の上から一人の兵士が、声を荒げていた。波の音で、よく聞こえない。アロイスは兵士の方に近寄って行った。


「アロイス王子、大変です! ジークレッド王が来ています」


兵士は真っ青な顔をして、怯えた様子で、要塞の中を指さした。アロイスは一瞬聞き違いだと思った。


(早すぎる。知らせを受けて、王自らが駆け付けたというのか)


アロイスは険しい顔で、兵士の指さす方を見た。

「間違いないか?」

「間違いございません。三人の騎士と共に要塞の門で」


(近衛騎士だけ連れてきたのか? 単身で? なんと無謀かつ大胆不敵な)


 アロイスはトレイシアを振り返った。彼女はゆっくりと海の水に手を浸しているところだった。

「ここにご案内しろ」アロイスは兵士に言った。

「はっ」兵士は慌てて要塞へと引き返して行った。

 

 要塞の門では四頭の馬にジークレッド王と騎士が乗って立っていた。


黄金の髪に神々しい美しさをたたえた王は、他の三人と変わらぬ騎士の恰好をしていた。長旅の疲れを微塵も見せず、来訪を告げた兵士の応答を待った。


やがて兵士が案内を告げると、ジークレッドは騎士たちにここで待つように言い、馬からひらりと降りて、ひとり単身で要塞の中へ歩いて行った。


兵士たちは噂に名高い美しいジークレッドの姿を一目見ようと集まってきた。


ジークレッドは前方を鋭く見つめ、少しの躊躇も見せず、堂々と兵士たちの前を通り、海が見える外堀に辿り着いた。


 ジークレッドの目にトレイシアの姿が映った。


彼女は興奮した子どものような様子で、楽しそうに波と遊んでいた。それをアロイス王子がじっと見つめている。

ジークレッドは黙って二人の様子を見ていた。やがてアロイスが顔を上げて、彼と目が合った。

ジークレッドはアロイスの目を見たまま、軽く頭を下げた。


 ジークレッドの美貌は、六年前、シェルビリーヌの婚礼式で見たときと少しも衰えず、少年らしさの代わりに、若さに満ち溢れた精悍さに、磨きがかかったような威厳を感じさせた。


アロイスはしばし見とれるかのようにジークレッドの姿を見ていたが、自分も頭を下げ、トレイシアに何かささやいた。


 トレイシアは驚いた様子で、顔を上げて、ジークレッドを振り向いた。トレイシアの心の中で思い描いていたジークレッドの姿が、そこにあった。


ジークレッドは彼女の顔を見て、思わずほっとして、穏やかな笑みを浮かべた。彼は自然に胸が熱くなるのを感じた。そのまま外堀の壁をひらりと乗り越え、砂浜に降り立った。


 トレイシアは、信じられないような驚きの顔をしたまま、ジークレッドの方へ走ってきた。

「ジークレッド様!」

 彼女はジークレッドの前で立ちどまった。ジークレッドは笑顔でトレイシアを見つめた。

「無事でよかった。迎えに来た」

 トレイシアは美しい王の姿に胸が締め付けられるような心地がして、鼓動が速くなった。


この感情は何だろう。


トレイシアはジークレッドを見上げた。

「レディスは間に合わなかったのですね? 」

 彼の喉元が熱くなった。

「いや。彼女は見事に任務を果たした。私がここに来たのは自分の意志だ」

 彼女は、少し後ろへ下がり、彼を信じられないような様子で見た。

「なぜこんな危険を冒してきたのです? 私の言葉を信用なさらなかったのですか? 国王が自ら国を出るなんて、この大事な時に貴方に何かあったらどうなさるおつもりなのです?」


 彼は穏やかに笑った。

「怒るな、トレイシア。私も重要な要件があって来たのだ」

 ジークレッドはアロイスの方へ眼を向けた。二人の視線がぶつかった。彼は目を細めてアロイスを見た。


「久しぶりだな」

 そして一歩、アロイスの方へ向かって前に出た。

「トレイシアは連れて帰る。だがその前に、貴殿と和解したいと思って来た」

 ジークレッドは堂々と言い放ち、誠実な目でじっとアロイスを見た。


アロイスは黙ってジークレッドの視線を受け止めた。ジークレッドの後ろでトレイシアの心配そうな目が見つめている。アロイスはジークレッドの方へ、歩き出した。


一歩ずつ砂浜を踏みしめるたび、彼は暗い呪縛から解き放たれていくのを感じた。


ジークレッドはアロイスが近づいてくるのを黙って見守った。


 彼はジークレッドの前に立った。ジークレッドは揺るぎない視線でアロイスを見ている。やがてアロイスは、しっかりした仕草で右手を差し出した。ジークレッドはそれを見て、穏やかな笑みを浮かべ、自分も手を差し出し、アロイスの手をしっかりと握りしめた。


 こんな日が来るとは昨日まで想像だにしていなかった。トレイシアのためとはいえ、国王自らここまで来たのは自分と和解するためだったのだ。大きな危険を伴いながら少ない手勢で、ここまで来た彼の誠実さに心が打たれた。


「もしよければ私の元王妃シェルビリーヌの墓に参りたいと思う」


 ジークレッドは碧色の海のような美しい色の瞳でアロイスを見た。アロイスは思いがけない言葉に驚いて、目を見開いた。そしてゆっくりうなずいた。



 海の見える見晴らしの良い緑の丘の上に、シェルビリーヌの墓堂が建っていた。丘には野の花が咲き乱れ、墓堂の裏側は林に囲まれた美しい静かな場所だった。


アロイス、トレイシア、ジークレッド、そしてダグラスを含む三人の騎士たちが丘の上に上ってきた。

 墓堂に着くと、ジークレッドと、共の騎士たちは墓石の前に膝をついて、深く頭を下げた。トレイシアも後ろでそれに倣(なら)った。アロイスはトレイシアの傍に立ち、じっとジークレッドを見つめていた。


 やがてトレイシアは立ち上がり、花を摘みに丘の麓(ふもと)の方へ向かった。


 二人の騎士は、ジークレッドとダグラスを置いて、少し離れた丘の下まで降りて行き、予断無く周囲に気を配る見張りに着いた。


 アロイスはゆっくりとジークレッドの方へ歩いて行った。ジークレッドはただ黙って墓堂の前に頭を下げて、動かなかった。静かな時間が流れて行った。アロイスは静かに潤んだ目でジークレッドに声をかけた。


「シェルビリーヌは最期まで貴方を愛していました」


 ジークレッドの背中が、その言葉にびくりと動いた。アロイスは黙って振り返り、彼から歩き去った。ダグラスは心配げな様子でジークレッドを見た。



 実弟フリードリヒ様と叔父のグランベルト公爵との裏切りが無かったら。王はもっと別の形でシェルビリーヌ様にお会いしていたかもしれない。すべてはあの時から始まったのだ。しかし世の中に、「もしも」は存在しないのだ。どちらにしても取り返しはつかない。


 ダグラスは、元王妃が彼を許し、これからの彼の人生を守ってほしいと、心密かに祈らずにいられなかった。


 ジークレッドは草の上に、長い時間、目を閉じたまま墓堂に膝をついて祈っていた。


 アロイスはトレイシアが花でリースを編むのを手伝い、花を摘んでは彼女に渡していた。野花の中に座るトレイシアはとても可愛らしく見えた。慣れた手つきでリースを編んでゆく。


 ジークレッドはゆっくりと立ち上がり、ダグラスもそれに従った。

「静かな場所だな」

 彼はいくらか青ざめた顔で丘の周りを見渡した。海が太陽の光を浴びて眩しく輝いている。

「眺めがいいですね。久しぶりに海を見ました。海はいいものだ」

 ダグラスはひとりごとのように言った。

「アロイス王子と和解できたのは、トレイシア様のおかげかもしれませんね」

 ダグラスは、トレイシアを見ながら言った。ジークレッドは黙ってうなずいた。


「帰りはどうなさるんですか? またマンスフェルトの森の方からお戻りになりますか? その……トレイシア様を連れて」

「マンスフェルトの森を抜けるのは少し危険だ。トレイシアはどうやら海が気に入ったようではないか。彼女は少しここに留まっても良いだろう。ダグラス、お前が後日、トレイシアを連れて帰ってくれ」ジークレッドが言った。


「目的は果たせた。アロイス王子は議会での協力を申し出てくれた。それに彼は、ブルクミラン国の秘密……ディアナベス王女の〈音の力〉のことについては、何も知らないようだ。」


 ダグラスは怪訝な顔をして、険しい口調で言った。

「いいんですか? 」

 ジークレッドはダグラスを見た。ダグラスはジークレッドを硬い表情で見据えていた。

「何のことだ?」


 ジークレッドはダグラスから目をそらした。彼とはずっと幼い頃から一緒だった。光明の中も暗闇も共に乗り越えてきた男だ。ダグラスが言いたいことは察しがついた。


 ジークレッドは緩やかな丘陵の上に咲く花々に囲まれたトレイシアの姿をしばし、見つめた。アロイスに向けるトレイシアの笑顔を見ていると胸を締め付けられるような気分になった。彼はその想いを意識の上に認めるまでにはいかなかったが。彼はその感情から自分を背けるように、二人から目をそらした。


「行くぞ」

 ジークレッドは先に歩き出した。ダグラスもすぐ後に続いた。


 ダグラスはジークレッドのわずかな変化に気が付いていた。これまで女性に対する態度や言動が、彼女、トレイシアに対しては違うことを。本人はそれに気が付いているのだろうか。


「トレイシア様は……」ダグラスは独り言のように口を開いた。「不思議な方ですね。ご自分のお考えを、臆せずに話される。誰に対しても。だから私もトレイシア様には常に誠実でありたいと思うのです」

 ジークレッドはダグラスにわずかに顔を傾けた。

「私は騎士として、あの方をお守りしたいと心からそう思うようになりました」


 ジークレッドは黙ってダグラスの独り言を聞いていた。二人はアロイス王子らの方へ向かった。


トレイシアは編み終わったリースをジークレッドに笑顔で見せた。そして墓堂の方へ歩いて行った。シェルビリーヌに捧げるのだろう。アロイスはジークレッドを誠意のこもった目で見つめた。

「ありがとうございます。妹も喜んでいるでしょう」


「私も貴方にお会いできて良かった」ジークレッドはアロイスの目に応え、黙ってうなずいた。ダグラスが後ろで黙って頭を下げた。


「我々は明日の早朝、発つつもりだ。今晩休む場所を借りられないか?」

「城に招待するつもりです。そんなに早く発たれるのですか?」

 アロイスは驚いて言った。

「長く国を留守にしてはいられないからな。それに帰りもマンスフェストの森に沿って戻ろうと思う。トレイシアを連れて帰るつもりだったが、後日、王女を貴殿の兵をつけて、ダグラスと共にでシェーンベルガー国まで送り届けてくれないか?」


 アロイスは目を見張った。しばらくジークレッドを探るように見ていたが、笑顔を浮かべた。

「あなたは真っ先に彼女を連れ戻しに来たものと思っていましたが……そうおっしゃるのなら、もちろん喜んで。ただし王女が納得すれば、の話ですが」


 三人はトレイシアが墓堂から戻ってくるのを、見守った。


 その夜、簡単に宴をすませると、ジークレッドと騎士たちは早々に部屋へ引き上げて行った。トレイシアも部屋へ下がろうとしたが、アロイス王子に引き留められた。


 トレイシアの共の騎士、セルスとノートンは既に騎士部屋で夕食を楽しんだようだったので、広い宴の間には二人だけになった。


「ジークレッド様は少しお疲れのご様子でしたね」

 トレイシアは心配そうに言った。ジークレッドは彼女に早朝の出発の話をしたのだろうか? アロイスは出来るだけ穏やかな声で言った。

「ジークレッド王は明日の早朝、国に戻らねばならないと聞きました」

「そうですか」トレイシアは初耳だった。「わたくしには何もおっしゃらなかったわ」

 彼女はふいに寂しいような気分になった。アロイスは少しトレイシアに近づいた。


「彼はマンスフェルトの森を抜けてここへ来たそうです。おそらく周辺諸国に王の不在を悟られないようにする策でしょう」

「では私も出発の準備をしなくては……」


「ジークレッド王はせっかくなので、貴女はもう少しここに留まり、要塞壁の様子を視察するのもよいと考えているようです。今日の貴女の様子を見ていると、どうやら大海の魅力に捉われてしまったかのように見えました」

 アロイスは愉快そうに笑った。

「ええ、その通りです。私だったら要塞壁の中に自分の部屋を作って、ずっと海を眺めていたい。海は偉大な哲学者のようです」

「夜の海もまた格別に美しい。月が出ている夜は非常に幻想的だ」

 トレイシアはため息を漏らした。

「ここは素晴らしい国だわ。私、またいつか訪ねて来てもよろしいでしょうか?」

 アロイスは真剣な目でトレイシアをまっすぐに見つめた。今まで見たことのないような切なげな熱い光が瞳の奥に宿っていた。


「貴女さえよければ、いつまでもこの国にいてほしい」

 アロイスはトレイシアにゆっくりと手を伸ばし、彼女の手に自分の手を優しく重ねた。


「この先ずっと私の傍にいて欲しいと思っています」

 彼はトレイシアの表情を一つも見逃したくないような様子で彼女を見つめた。トレイシアは静かな部屋に、まるで自分の鼓動の音が聞こえるような錯覚を感じた。彼女はうつむいた。


「私はまだ、準備が出来ておりません。自由奔放な生活を変えるつもりは……今はまだ」

 彼は彼女の手を強く握りしめた。トレイシアは、はっとして顔をあげた。

「では私は貴女を待ちます」

「でもお約束はできません。私はあまりも自分に忠実に生きてきましたので」

「私は貴女のそこに魅かれたのだ」彼はゆっくり手を放した。「ただ今夜、私が貴女に話したことは忘れないで下さい」

 アロイスは切なげに笑顔を向けた。


「私は貴女にずいぶん救われた。長年の私怨も解けた。私は貴女から、希望をもらいました」

「アロイス様……」

「いや。ありがとう、トレイシア王女」

 アロイスは、トレイシアの言葉をさえぎるかのように、すっと立ち上がった。


「それで貴女はジークレッド様と共に発つのですか?」


 彼女はジークレッドが自分を迎えに来たと言っていたのに、いつの間にか心変わりしたことに気がつかなかった。彼には考えがあるのだろうが、でも彼自身の口から伝えて欲しかった。


「お会いして確かめて参ります。ジークレッド様は他に何か私をお連れにならない理由をおっしゃっていましたか?」

「帰りもマンスフェストの森の際(きわ)を通ってシェーンベルガー国へ戻るそうです。貴女を同行するのは危険だとおっしゃっていました」

 トレイシアはしばらくその言葉を考えていた。やがてアロイスの方を見ると立ち上がり、深々とお辞儀をした。

「貴方の誠実で温かいお心を決して忘れません」

 アロイスは穏やかな笑みを浮かべた。


「いつかまた海を一緒に見ましょう。私は貴女を待っています」

 アロイスは急にトレイシアに近づき、彼女の身体を優しく抱擁した。彼女の顔は赤く染まり、鼓動が激しくなった。アロイスはすぐに手を離し、トレイシアの額にキスをした。


「ゆっくりお休みください」

 彼は笑顔を向けると、さっと踵を返し部屋を出て行った。トレイシアはまだ心臓が高まるなか、アロイスの後ろ姿を見送った。


 トレイシアはその足で、ダグラスたちの滞在する騎士部屋へ向かった。扉をコンコンと叩き、ダグラスの名前を呼んだ。ダグラスは目をこすりながら扉を開けた。


 外に立っているのがトレイシアだと知ると、居住まいを正して、廊下に出た。

「起こしてごめんなさい」

「ご心配なく、私は他国の城では眠りませんので。いかがされましたか? 」


「明日の早朝、私を残して国に戻るというのは本当ですか?」

 ダグラスはぎょっとした。やはりトレイシアに知らせずに発つことは、彼女を驚かせることになるだろうとは、察しがついていたが。


「早朝発つのは確かです」

「何時に発つのですか? 正直におっしゃって下さい」

「五時です」

「わかりました。ありがとう、ダグラス。おやすみなさい」


 彼女は踵を返すと、さっと自分の部屋へ引き返していった。ダグラスは頭をかいて苦笑した。そして王女が部屋に入るのを見届けた。



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