第10章 トスカーラ国
大海に面するトスカーラ国の海岸沿いには巨大な要塞が何里にもわたって築かれていた。厚い壁は何度も修復され、〈暗黒の百年戦争〉の傷跡を残していた。
要塞壁はトスカーラ国を越え、西方の果てまで、大海に面するすべての四カ国まで続く、この世界で最も巨大な建築物だった。トスカーラの王城は、海から離れた内陸に位置していたが、いつでも大軍を要塞に送り込めるように、舗装された広い軍道が、要塞へと続いていた。
現国王は十年近く病に侵され、病床にあった。国務は主に宰相と大臣、王位継承者のアロイス王子に委ねられていた。
三年前、アロイス王子はチェルニア国の第三王女エレノラと婚姻の約束を一度は結んだものの、チェルニア国王マールセンは結局、エレノラをシェーンベルガー国のジークレッド王に嫁がせてしまい、代わりに第二王女アドリアスとの婚姻を申し入れてきた。
トスカーラ国にとっては大国チェルニアの王家との婚姻関係は国益に有利になる。この政略結婚は成立し、アロイスはアドリアスを王妃に迎えた。アロイスはこの時二十四歳だった。一年後第一王子が誕生したが、産後すぐにアドリアス王妃は亡くなった。
そしてこの年、アロイス王の妹、つまり六年前にシェーンベルガーから帰国した元ジークレッド王の第一王妃シェルビリーヌ姫が病死した。
ジークレッドとの婚姻が解消され、シェーンベルガー国から帰国して以来、シェルビリーヌは奇怪な行動をとるようになり、しばしば城を抜け出し、城下の町で、色々な男と夜を共に過ごし、側近らに連れ戻される日々が続いた。何度かは教会の若い僧を誘惑したこともあった。ついに、彼女は城の西の棟に監禁されるようになったが、その頃、既に身体は梅毒に侵されていた。城内に監禁されてからも、衛兵や下男に至るまであらゆる男を自分の部屋へ連れ込んだ。彼女は哀れにもすべての男をジークレッドと思い込み、ずっとその名を呼び続けた。
シェルビリーヌの奇行についての噂は、トスカーラ国内はおろか、近隣の西方諸国の民にも知られるまでになっていた。そしておととしの長い冬、アロイスは王妃と妹シェルビリーヌを一度に失った。シェーンベルガー国の大聖堂を共に歩んだ、純真な妹の姿はどこにもなく、彼女は、最後までジークレッドの名を呼びながら、逝った。
トレイシアと二人の騎士、セルスとノートンは、トスカーラ国の兵士らに守られ、拉致されてから三日後にトスカーラ国に到着した。
このまま地下牢に閉じ込められるかもしれない。トレイシアはそんな不安がよぎる一方、持ち前の好奇心が、彼女の冷静さ、快活さを保っていた。いつもどこかに道はあるはずだ。せっかくここまで来たなら、大海と大要塞を見てみたい。トレイシアは様々な思いを巡らせ、自分を奮い立たせていた。
兵を統率するオロフは、一度も怯えた様子を見せないどころか、毅然とした若い王女の姿に、不思議な尊敬の念を感じた。噂に聞いた通り変わった姫であるが、なんと堂々たることか。西方の果ての小国に、このような、風格を備えた存在があったことに内心驚いていた。
王城に辿り着いたのは、夕刻だった。
アロイス王子はトレイシアを迎えるため、晩餐の準備をして待っていた。
トスカーラの城に、騎士らと共に入ったトレイシアは、非常に美しい装飾を施した、広い部屋を与えられた。騎士らも隣の続きの間に入った。トレイシアはようやく独りになり、ほっとした。重要な使命のあった旅路を阻止され、捕らわれの身とはなったものの、どうやら地下牢へ閉じ込められるような事態にはならないようだ。
レディスは無事にシェーンベルガー国へ辿り着いただろうか。ジークレッド王は軽率に動いたりはしないだろう。でも何らかの策を考えているに違いない。それが国同士の争いのきっかけにならないことを、願っていた。
トレイシアは侍女が用意した、美しいドレスに着替え、ひと時のくつろぎを得た騎士と共に、食卓の間に向かった。
若い従者が重厚な扉を開くと、そこは大きな広間で、豪華な食事と美しい花がいくつも生けられており、たくさんのろうそくが部屋の装飾を照らし、幻想的な光が反射して輝いていた。
長いテーブルの向こう側にいたアロイス王子が、立ち上がってトレイシアを笑顔で迎えた。トレイシアは前に進み出て、アロイス王子の前で、ドレスの裾をつまんで優雅に挨拶をした。アロイス王子も腕を胸に当て、礼をした。そして、トレイシアの手を取って右手の甲にキスをした。
「ようこそトスカーラ国へおいで下さいました。トレイシア王女」
背の高いアロイス王子は、知的な美しさをたたえたトレイシアを眩しそうに見た。
「このようにお出迎え下さり、感謝しております」
トレイシアも穏やかな笑みを浮かべて言った。後ろに控えた騎士たちにも王子に頭を下げた。
「さあ、お疲れのことと存じます。おかけください」
アロイスはトレイシアと騎士らを食卓に導いた。宴の間にはアロイス王子と給仕の侍女たちしかいなかった。そのためトレイシアも騎士たちも、あまり気を遣わず、食事をすすめることができた。
アロイスはなるべく話を控え、三人が食事に専念できるよう取り計らっている様子だった。
トレイシアの騎士は油断なく周囲の様子を厳しい表情で見ていたが、その晩の穏やかな雰囲気を壊すような気配は何もなかった。
トレイシアとセルス、ノートンはこの丁重な招待が不思議でならなかった。
アロイス王子はしばらくして、トレイシアに言った。
「貴女に事情をお話ししなくてはなりませんが、今宵は早く休まれた方が良いと思っています。」
この言葉を口にしたとき、彼の目は非常に暗く不穏な色を秘めていた。セルスは思わず食事の手を止め、鋭い眼で王子を見た。トレイシアは表情を変えず、アロイスをまっすぐに見た。
「もしアロイス様さえよければ、今宵のうちにお話をしたいと思います。」
「では、貴女のご都合の良い時に、いつでも私の書斎部屋を訪ねて来て下さい。今夜、私は公務で深夜まで起きています」
アロイスは立ち上がった。
「皆の者、私の大事なお客人たちに失礼のないように」
彼は給仕の侍女たちに言うと、ゆっくりとした足取りで立ち去って行った。
セルスは王子が出て行くのを見届けると、ささやくようにトレイシアに言った。
「一体全体どういうつもりでしょうか?」
トレイシアは侍女の注いでくれたワインを黙って口につけた。
「アロイス王子の考えが読めません。姫はどうお考えなのですか?」
いつも事態の先を考えているトレイシアの説明を待っているかのような様子で、セルスはじっと彼女を見つめた。彼は、隣でワインをのんびりと美味しそうに飲んでいるノートンをつついた。ノートンは、はっとして二人の会話に注意を向けた。トレイシアは二人を見て、声をひそめて言った。
「アロイス王子の目的は、私たちではなく、シェーンベルガー国なのでしょう」
二人は怪訝そうな顔をした。
「王子の丁重なもてなしに感謝しなくてはなりません」
「姫が連れ去れたというのに、その相手に感謝するというのですか」セルスは納得がいかないように言った。
「とにかく私の指示が無い限り、自分勝手な行動は許しません。外交は微妙に保たれているのですから」
彼女は確固とした厳しい口調で二人に言い渡した。
「二人とも客人としてのマナーを忘れないように」
二人は顔を見合わせた。「はい」それぞれに低い声で返事をした。トレイシアはにっこり笑うと、デザートを口に入れた。
アロイス王子はトレイシアに打ち明けるべきかどうか逡巡していた。
実は彼女に実際に会うまでは、自分の行動を彼女に説明しようなどとは考えてもいなかった。旅路の途中で連れ去った王女は、不安と恐怖とで怯えきっていると思い込んでいたのだ。
ところがトレイシア王女は冷静そのものである上に、歳若い女性であるにもかかわらず自分の方が慎み深さを感じるほどの威厳と知性に満ち溢れていた。
何も知らず城内で大事に育ち、良い婚姻関係を結ぶために教育された王女とは格別に何かが違っていた。トスカーラ国では女性に王位継承権は無く、常に王位に就くのは男子に限られていたが、ブルクミラン国では違うのかもしれない。
アドリアス王妃と妹のシェルビリーヌがほとんど時を同じにして死んだ、おととしの冬、彼は自分が少しずつ築き上げていったものが崩れたような大きな喪失感と無力感に襲われた。王妃は彼に可愛い息子を残したが、それでも、ジークレッドに未練を残したまま、狂気のうちに死んだ妹への喪失感を埋めるのには足らなかった。
シェルビリーヌがシェーンベルガー国の王妃の座を退いた本当の理由も、後で知った。それでも、幼い頃から大事に守ってきた妹の無残な死は、彼の心を大きな闇で覆った。
シェーンベルガー国が西の小国ブルクミランの王女を招待したという噂を耳にした時、彼の闇は自然とジークレッド王へと向けられた。今度はどんな女を王妃に迎えるつもりだ? 彼は自由で開放的なブルクミラン国の月曜市に、従者を送り込み、様子を探らせた。その日は通行許可が無くても入国できる日だった。
従者の話によれば、城の庭でブルクミランの王女とジークレッド王その人自身が密会をしているとの驚くべき報告を受けた。王自ら出向くとは、かなり深い仲に違いない。アロイス王子はシェルビリーヌが憐れで、しかも既にこの世にはいない妹が侮辱されたような気持に捕らわれた。彼は孤独な苦しみの中で、ジークレッドを憎み、シェルビリーヌのことなどとっくに忘れ、新たな女性と、愛の喜びに生きようとする彼を妬んだ。
アロイス王子の中ではシェルビリーヌは永遠の眠りにつくことはなかったのだ。アロイスは自分と同じように、ジークレッドを苦しめてやろうと考えた。機会を狙い、そして絶好のチャンスが訪れた。愛する者を奪われる苦しみを知るがいい。悪魔のような強い復讐心が、彼を迷い無く、愚かな行動へと導いていった。
だがトレイシア王女を一目見たとたん、彼はまるで悪夢から覚めたかのように、復讐心が揺らぎ、彼の中の正常な倫理観を揺さぶられたような感覚を覚えた。それは自分の立ち位置が突然わからなくなったような不安を伴っていた。
その時、書斎の扉をたたく音がした。従者が入ってきて、トレイシア王女の来訪を告げた。
アロイスは決心の付かないまま、王女に会うことになった。
二人はテーブルをはさんでゆったりしたソファに座り、ワインを開けた。アロイス王子は落ち着いた風を装っていたが内心まだ心が揺れていた。
トレイシアは、トスカーラの城から大海まで、馬を飛ばせば数時間で着くと聞き、明日にでも外出を許可して欲しいと願い出たところだった。
「それとも外出は許されないでしょうか? 私は〈捕らわれの身〉ということを忘れていました」
彼女は可笑しそうに笑った。
「いや。貴女がお疲れでなければ、私が案内いたします」
トレイシアは嬉しそうな顔をした。
「本当ですか? 海を見るのは初めてなのです。それにあの有名な要塞壁もこの目で見られるとは、はるばる貴方の国へ来た甲斐がありました」
トレイシアは心底から興奮しているようだった。
彼女はまっすぐアロイスの目を見た。アロイスが話し出すのを待っているようだ。アロイスは言いにくそうな様子だったが、話し始めた。
「貴女の旅路の途中で我が国へ無理にお連れしたことをお詫びします」
アロイスは暗い眼をしていた。そして書斎の両方の壁にかかっている、二人の女性の肖像画へ眼をやった。ひとつはアロイス自身が婚姻を結んだ時に、アドリアス王妃から贈られたもので、もうひとつは、シェーンベルガー国へ嫁ぐ前の、年若いシェルビリーヌの肖像だった。アロイスはシェルビリーヌの肖像をじっと見つめた。彼の表情は暗く切なげで、見る者も憐れに感じるほどだった。
「亡くなられた妹君の肖像ですね。目元が似ていらっしゃる。可愛らしい方だったのですね」
トレイシアが静かに言った。アロイスはシェルビリーヌを見つめて答えた。
「彼女は私の天使のようでした。歳が離れていたせいもあるが。こんなに早く逝ってしまうとは思いもよらなかった。シェーンベルガー国との婚礼を決めたのは私なのです。あの男に嫁がせなければ、今頃彼女はまだ……」
アロイスは非常に暗い眼で何かを憎悪するかのように宙を睨んだ。
「妹はジークレッドに恋い焦がれていました。しかしあの男はシェルビリーヌに見向きもせず、知らない土地へ嫁いだ妹を徹底的に無視した。妹は王妃としての立場を失い、孤独のあまり大きな過ちを犯した。心が病んでしまったのです」
アロイスはひとりごとのように言った。
「そしてジークレッドは妹を、病を理由に厄介払いをした。それでも彼女はあの男を想い続け、そして神に召されたのです。狂った心のまま」
アロイスはしばらく黙って最後のシェルビリーヌの悲しい光景に捕らわれて、動かなかった。トレイシアの存在を忘れて、茫然としている様子だった。トレイシアはいたわりの心を込めてアロイスを見つめていた。
トレイシアの視線に気が付いたアロイスはゆっくりと顔をあげ、目の前の彼女を見た。
「貴女もあの男に心をひかれているのですか?」
トレイシアはアロイスを怪訝な表情をして見た。
「私は今日貴女に初めてお会いして、どうしてもあの男が貴女を傷つけることが許せないと思いました。シェルビリーヌのためにも貴女を止めなければならないと思っています」
アロイスは真剣な目でトレイシアを見つめた。トレイシアはしばらくアロイスを見つめ返した。
アロイスの言葉を理解しようと頭を巡らせていた。やがてできるだけ冷静な口調で言った。
「アロイス様、私とジークレッド王は貴方が思われているような関係ではありません」
アロイスは表情を変えずに黙って聞いている。
「なぜ貴方がそのように思われたのかはわかりませんが、私はジークレッド様にお会いしたのは、一度きりです」
「一度きりで人惑わす男なのだ」
「そういうことではございません」
トレイシアは状況を理解した。アロイスの目的はジークレッドその人への、復讐なのだ。自分が拉致された理由は、〈音の力〉に関する情報をトスカーラ国が探り当てたからではないようだ。それに、国の間の争いとはずっとかけ離れたところにあった。
やがてトスカーラ国の王位を継ぐ人間が、これほどまでに私情に流されてしまうとは。そしてそれが簡単に、戦乱のきっかけにもなるかもしれないというのに。彼女は辛そうな表情でアロイスを見つめた。
「すべては貴方の誤解です」
アロイスは疑わしそうな眼でトレイシアの様子を見つめた。
「もしや貴方の国の方が、ブルクミランの市場にお出かけになりましたか? この数か月以内に」
アロイスはどきりとした。トレイシアはしっかりと彼を見据えた。
「ジークレッド王はある重要な情報を持って、王の身分を隠し、忍んで私の下に現れました。そしてブルクミラン国が、シェーンベルガー国と協力をするように説得しにいらしたのです。」
トレイシアはやや険しい眼をして言った。アロイスはトレイシアの話が分からない様子で戸惑った。
「何の話です? つまり貴女は、ジークレッドとは恋仲では無いというのですか? 二人の密会はジークレッドが何か別の話をしに貴女の国へわざわざ参ったのだと?」
「その通りです」
トレイシアは静かな目でアロイスを見つめていた。アロイスはにわかに信じられなかったが、どうやらジークレッドとの密会については誤解したのだとぼんやり感じた。
「アロイス様、私も貴方のシェルビリーヌ様に対する思いはわかります。私にも大事な妹がおります。彼女が貴方の妹君のような目にお遭いになったら、私でも相手に一矢報いたいと思うでしょう」
アロイスは内心驚いた。
「でも私は、ジークレッド王を信じています」
トレイシアはきっぱり言うと立ち上がった。
「今日貴方が取った行動によって、シェーンベルガー国がトスカーラ国の脅威にならないよう祈るばかりです」
アロイスも立ち上がった。彼は彼女の毅然とした態度に戸惑っている様子だった。
「私は貴女を怒らせたようですね?」アロイスは心配そうに言った。
「貴方に怒っているのではありません。争いを招くきっかけになるのではと、心配しているのです」トレイシアは腰を上げた。「今夜はこれで下がらせて頂きます。貴方の丁重なおもてなしに心から感謝しております」
アロイスは少し心配げにトレイシアを見守った。トレイシアは深く優雅にお辞儀をすると、そのまま扉を開けて、立ち去った。
アロイスは、ふっとため息を漏らした。トレイシアを連れ去るという軽率な行動に出たことは後悔していたが、彼女に出会えたことを嬉しく思う気持ちも認めた。それに誤解であったとしても、今頃ジークレッドは慌てている事だろう。いつも暗く沈んだ気持ちが少し軽くなったように感じた。明日彼女と海を見るのが楽しみだった。




