湿った風に吹かれて
「大丈夫?」先ほどとはまた口調を変え、ぶっきらぼうに問う男は、起き上がると思ったより背が高くて肩幅が広かった。
私は黙って彼を見つめ返す。ただ黙って。
優しげな声に問いかけられ返事をすると、自然と涙がこぼれてしまいそうだったから。だから声は出さない。
そんな私を見て彼は困った様子もなくただ黙っていた。そして、また口を開く。
「いくつ?お前。」
「年がそんなに大事?」私はさっきの父との会話を思い出しきつい口調で返した。そのあと、しまったと思う。見知らぬ人に、それも少し派手な不良風の男に喧嘩を売ってしまった。
男は少し目を丸くしてそのあと笑いをこらえるような口元をした。
「別に。そんな大事じゃないけど。」彼はそう返事をしたあと、さっとベンチの右端により左側をたたいた。
「ん。」
「何?」
"Come here."
彼はさらっときれいな英語を口にした。なぜか、その言い方に私は抗えなくて、自分でもおかしなことをしているってわかっているのに黙って彼の左側に腰を下ろした。
"Good girl."すると、彼はぼろっとつぶやいた。
沈黙が流れ、梅雨のけだるい空気を時々湿った風が流していた。
「なんで英語で話すの。」しばらくの沈黙の後、気になって問うてみる。
「ん?俺の大事な人が英語話すから。だから俺も伝えたいことがあるときは英語で話すんだよね。そのほうが伝わる気がする。」
「私日本人なんだけど。」
"I know."彼の返事に私は眉間にしわを寄せた。
けれど。本当は少し心地が良かった。耳当たりのいい、この男の声ときれいな発音の英語の積み重なりは。私の胸にすっと入ってきた。
「こんな時間にここで寝てたの?」
「こんな時間?」
「平日の夕方って大人は仕事でしょ?」
「ああ。今日平日か。曜日なんて考えてなかった。」
彼は足を組み、その上に肘をつき顎を乗せた。そして、足をぶらぶらさせる。
「俺、怪しいやつに見える?」
「うん。」
「はは。容赦ねえな。」
間髪入れずに頷くと彼はおかしそうに笑った。
「それじゃあさ、怪しいやつと話してていいの、お前。」
ちらっと私の服装を眺め彼は続ける。
「お嬢っぽいじゃん。お父さんとお母さん、お前がこんな奴と話してたら黙ってねえだろ。」
お嬢っぽい…。その言葉が胸にわだかまりを作る。そのわだかまりをごくっと喉を鳴らすことで一緒に飲み下した。
「でも、私に隣に座れって言ったのそっちじゃん。」
「ん。まあな。」
ふと気づく。私この年上の男とため口で話している。普段大人と話すときは手が震えるほど緊張するのに。気を使って気を使って敬語を使うどころか何を話せばいいのかわからず黙り込んでしまうのに。
この男とはなぜか初対面なのに会話ができる。
カチャっと横で音がして、目を向けると男はライターに火をつけていた。そして煙草をくわえる。
ふーと吐いた煙は軽やかにもやもやと上へ上って行った。
「タバコ。」
「ああ。嫌だった?」
「別に。」別に嫌じゃない。ただ、私の周りでタバコを吸うような大人がいないだけ。慣れていないだけ。
「お前、なんで泣いてたの?」
彼はこちらに目を向けず遠くの景色をみつめながらふわっと聞いた。
「別に。関係ないでしょ。」
「まあな。けど、気になるじゃん。」
「じゃあ、勝手に気にしてて。」
「ああ。」彼はにやっと笑ってタバコの火をもみ消した。
この人、怒らないな。父を母を思い出す。2,3年前から私にとって両親は親じゃなくなった。ただ、私を守ってくれる偉くて強い大人。そんな風にはもう見えない。どうしても、両親のできないところが目に付く。弱いところが気になる。口だけ立派なことを言っているけれど、実際はそうでもないよねってことが多い気がする。
それだけじゃない。学校の先生や近所のおじさんおばさんもそうだ。大人が大人じゃなくなった。
そう。大人ってみんな偉そうに私たち子どもと区別するけれど、本当は大人なんてこの世にいないんじゃないか。そんなことに気づくようになった。
そんなことに気づくようになってから、父は私を生意気だと頭ごなしに叱ることが増えた。なんで雪はそんな風に考えるのと母が悲しげにすることが増えた。先生やよその大人の前では、がっかりさせないように、本音を隠して子供らしく振舞うことが増えた。
けど、私この男の前では…。全く気を遣わず、本音を隠さず話している。そして、そんな私を彼は怒らずさっきから面白そうに笑っていた。
「変なの。」
「何が?」
「ん。」男を顎でしゃくる。
「俺?」
頷く。
「お前も、なかなかだぞ。お嬢。」
男はそういうと、機嫌よく鼻歌を歌い始めた。
恥ずかしくないのかな。
そう心の中で疑問に思いながら、ふと気づく。
「その曲…。」
そう。その曲は、最近私が1人部屋にこもるときに流しているバンドの曲だった。
「お、知ってんの?」
こくりとうなずく。音楽。それは、今の私の唯一の居場所だった。
家で、学校で、この世界で、居場所がない私にとって、ただ自分の部屋でヘッドホンをし膝を抱えている時間は唯一自分の存在をおぼろげながら確認できる時間だった。
そして、そんな時間に最近よく聞くbバンドの曲がある。
んんんーん
彼は隣で鼻歌を続けながら最後のメロディーのところでちらっと私を見て微笑んだ。
彼が歌わなかった、けれど鳴らしたメロディの歌詞を私は知っている。
元気出せよ
そのメロディを聴き、私はまた自分の目頭が熱くなるのを感じた。
なんだか、うまく表せない思いがどっとこみあげてきたのだ。
どんなに怒られても、人に嫌われても、無視されても
涙をこらえて平気なふりをするのに12年間かけて私は慣れてきた。
けれど…。自分にまっすぐに向けられたやさしさに対して、あふれてくる涙を
こらえることがまだ当時の私にはできなかったのだ。




