ベンチの先客
生き下手な私が小学生のころから10年以上かけて書き始めた物語です。
このお話を書く中で、私はいろんなことを登場人物から教えてもらいました。
お話を読んで、今生きづらさを抱えてもがいている人が少しでも生きやすくなるチップスを
見つけてくれたらうれしいです。長くなるかもしれないし短く終わるかもしれません。
もし自画像を描けと言われたら、私は私の後姿を描く。高校へ向かう電車で使う駅の歩道橋の上。人に埋もれて立ち尽くす自分。それは正面からどんなに似せた顔を描くより私をちゃんと表していると思う。
空っぽの自分。空っぽすぎて自分がどんな顔をしているのかわからない。
そんな私は時に別人になる。
"Lily, come here."
すべてがぼんやりと薄らぼけて見える世界の中で、ひときわ心地いい声が私を呼ぶ。
”Lily”
少し鼻にかかった甘い声。
私は生きているのかわからない。息はしているけど、一人の人間として生きているかなんてわからない。
けれど…Lilyと呼ばれるその瞬間は、その間は…
どうしようもないくらい、一人の人間なんだ。
藤間雪。それが私の本名。7つ年の離れた兄がいて両親がいる、4人家族の長女だ。
生まれたばかりのころ、私は赤ん坊なのにいつも眉間にしわを寄せてよく泣くから周囲の人間から、どこか体の調子が悪いんじゃないかとよく心配されたそうだ。
少し大きくなって幼稚園へ通うようになっても、友達を作るどころか1秒足りとも母親から離れられないほどの人見知りで怖がりだった。
小学生になっても、極度の人見知りと怖がりは変わらず、友達もできなかった。家は厳格な家庭だったから自然と礼儀作法を気にした振る舞いを身に着けてしまい、やりたい放題自由に動き回る周囲の同級生の中でじんわりと浮いていた。学校へ行くときも帰るときも1人。休み時間はいつも本を読み空想の世界へ行くことで寂しさを紛らわす。給食の時間だって、クラスメイトと向き合っていると食欲がなくなるから、何も食べずに窓の外を見てその場をやり過ごしていた。体育の授業はペアを組む友人がいないことが嫌でいつも見学。図工は、自分の脳内が思ったように表現できないのが歯がゆくて悔しいので一切絵を描かなかった。そのため、クラスメイトが色鉛筆やクレパスを持ち思い思いにカラフルな絵を描いている間、私は原稿用紙と鉛筆を持ち、テーマに沿った作文を書いた。作文のほうが、まだ脳内を表す手段としてましに思えたから。
ほかにも、いろんなこだわりがあって、苦手があって、きらいがあって、できないがあって、私は学校生活にも日常生活にもなじめないまま12歳を迎えた。
そう。12歳。
それが私と彼の出会いだった。"Hey, what's up?"
そういって2本の少し不健康そうな腕を伸ばしじっとわたしを見つめる、
黒い2つの瞳との出会いだったんだ。
その日、私は父と言い合いになり家を飛び出した。
理由はよく覚えていないが、父と母が口喧嘩をしていて仲裁には入ったのだ。下唇を悔しげに噛み黙り込む母を見ていると、どうしても父の言い方が許せなくて...それを指摘すると父は高圧的に「子供が口を出すことじゃない。黙っていなさい。」と言った。
そうだ。父はいつだって私を子供だと言う。そして、子供だからこう振る舞え、アレをするな、これだけしてればいい、と行動をコントロールしようとするのだ。
私は好きで子供でいるんじゃない。
好きで女に生まれたわけじゃないように、好きでクラスで1番高い身長になったわけじゃないように、
好きでカラスのように真っ黒な髪の毛を持ったわけじゃないように、好きでこの家族の元に生まれたわけじゃないように...
そう、私は好きで子供でいるわけじゃない。
なのに、父は...
いつも私を子供だからと押さえつけるんだ。
私は、うるさいと叫び、家を飛び出した。
行く場所なんてどこでもよかったけど、どこにでも行けるわけではない。
だって電車に乗るお金ももったいなければ、自転車だって両親に禁止されているから持っていない。徒歩圏内で静かに1人になれるところなんて限られている。
そこは、ちょうど数週間前学校の教師から不審者が出るから1人で近づくなと言われた、公園のひっそりとした片隅だった。遊具があるスペースの横に坂を上るスロープが伸びている。そのスロープを上るとあまり手入れのされていない茂みと、その中にいくつかの色褪せた赤茶色のベンチが置かれていた。
その真ん中ベンチに腰を下ろすと、茂みの隙間から
丘に広がる住宅街と、そのはるか上に青空が広がっていて晴れて日にはとても気持ちがよかった。
もちろん、その日は曇り空で梅雨真っ最中のじめっとした湿気がまとわりついてきて、気持ちいいとは程遠かったのだけれど。それでも、私はそのお気に入りの公園のベンチへと足を向けた。
不審者が出てもいい。危なくてもいい。
1人でいられる静かな場所は行きたかった。誰にも傷つけられない、安心できる場所へ。
タンタンタンと坂を上ると、そこにはいつものベンチ。
けれもお気に入りのベンチには先客がいた。
真っ黒なジャケットとダメージジーンズを身につけ、こんな曇り空なのにサングラスをつけた男がベンチに仰向けに横たわっている。不審者とまで言うかわからいけれど、近づかないほうがいいことは確かだった。
「私の場所なのに...」思わず悔しさが漏れてしまう。
すると男はむくっと起き上がった。
「は?」
シャープな顎のライン、一本の髭も生えていない手入れのされた肌。茶髪のパーマのかかった髪は肩に届くか届かないかぐらいの長さだ。
「だから、そこ...」私の場所なのに...
彼の派手な容姿に怯んだ私は、どんどん言葉がうやむやになっていった。
「なんだよ、はっきり言えよ」
そう言った彼はサングラスを少し下げ、じっと私をみた。私はなぜか恐怖のあまりその場を後にできず立ち尽くしていた。
「お前、泣いてんの?」次の瞬間、彼は私の頬をじっと見て言った。私は咄嗟に頬を拭く。歩きながら泣いていたことに、自分で気づいていなかった。
「別に。いいの、なんでもない。」そう言うと、私の固まっていた体は急にほぐれて、それがわかると私はすぐに回れ右をした。この派手な男と関わってはいけない。直感がそう告げた。
「ちょっと待てよ、お前!」すると彼の声が追いかけてくる。その声がもし荒げられたものだったら、私は走って逃げ出していただろう。意地の悪いからかいを含んだ声だったら迷わず無視しただろう。けれど、
その時の彼の声は...
今でも忘れもしない。彼の優しい声だった。
鼻にかかったような少し丸みを帯びていて、それでいて耳当たりの心地いい低い声。
あの声に私は捕まったんだ。
その日のこの瞬間。
私をこれから何年も何十年も、縛り付けて離さない男のあの声に、私は捕まったんだ。




