皆さまの前で
「ハースト商会、ミレイユ・ハースト嬢」
玉座の間に、式部官の声が響いた。
わたしは父の隣の席から立って、赤い絨毯の上を歩いた。両側に並んだ貴族たちの顔が、ゆっくり後ろへ流れていく。ひと月ほど前の夜会で、扇の陰から囁いていた顔もいくつかあった。今日は、誰も扇を開いていない。
北の討伐の叙勲式だった。天井から騎士団の青い旗が下がり、蜜蝋の蝋燭の匂いが広間に満ちている。
騎士団の働きを労う式に、糧食を納めた商会が呼ばれるのは、異例のことらしい。王妃様のお口添えだと、侍女頭が父にそっと教えてくれた。
控えの間では、騎士団の列の中に、元夫の姿もあった。何か言いたそうに口を開きかけるのへ、わたしは顔見知りにするのと同じ会釈だけを返して、父の腕を取った。
玉座の前で膝を折ると、王妃様が巻いた感状を手ずから渡してくださる。
「三年間、兵の腹を満たしてくれたことに」
「もったいのうございます」
「名前を呼ばれるのには、もう慣れましたか」
わたしは顔を上げる。王妃様は、扇の陰で少しだけ笑っておいでだった。
「まだ、少し」
席に戻る途中で、後ろの列の囁きが耳に入った。
「ダントン夫人は、医師に診ていただいたら、何もなかったそうよ」
「今は西の修道院ですって」
「ブローチは、ヴェルナー公が買い戻して王家にお返ししたとか。軍馬と、南の別邸を売ったそうよ」
「先代の奥様は、領地に下がられたまま」
「ハースト嬢は、三年間あのお家を一人で回していたんですって」
最後の囁きだけが、わたしのこと。ひと月前には、同じ声が別のことを言っていた。
あの軍馬は、元夫が十五のときから乗っている馬だと、昔ベルンハルトに聞いたことがある。
売ったのか、と思った。
わたしは感状を膝に置いて、前を向く。
騎士たちの叙勲が始まった。
一人ずつ名前を呼ばれ、玉座の前で膝をつき、国王陛下から勲章を受ける。
元夫の名前が呼ばれたのは、三番目だった。
額の傷跡は、もうほとんど目立たない。礼装の胸に勲章を留められると、元夫は深く頭を下げた。けれど、立ち上がったあと、列へは戻らない。
「陛下。一言だけ、お許しをいただけますか」
国王陛下は、少しのあいだ元夫を見下ろしていた。
「申せ」
元夫は玉座に一礼すると、身体の向きを変えた。
玉座の間の、わたしの座っている席のほうへ。
「ハースト嬢」
広間が、静まり返った。
「二年半前の王宮の夜会で、俺はこの人を、金で買った妻だと皆に紹介した。皆さまの中にも、あの晩あの場にいた方がおられると思う」
何人かが、気まずそうに目を伏せる。
「あれは嘘だ。俺は、この人に家を救われた。三年間、それを知っていて、一度も礼を言わなかった。この場で、あの晩の言葉を取り消させていただきたい」
元夫は、胸の勲章に手を当てた。
「今日のこれも、この人の小麦がなければ受けられなかった。北の谷で兵が飢えずに戦えたのは、この人のおかげだ」
元夫は、絨毯の上に片膝をついた。
叙勲を受けたばかりの勲章が、胸の上で揺れる。
「ミレイユ。もう一度、俺と結婚してほしい」
隣の席で、父が膝の上の拳を握るのが見えた。
わたしは膝の上の感状を見ていた。
皆の前で辱めた人は、皆の前で頭を下げれば、帳尻が合うと思っている。叙勲の場で、陛下と王妃様の前で、何十人もの貴族の目の前で。ここで断れば、恥をかくのはこの人だけではない。そういう場所を、この人は選んだ。
わたしは立ち上がった。
感状を父に預けて、元夫の前まで歩く。
元夫が、わたしを見上げている。
灰色の目は、今日も同じ色をしていた。
「閣下」
わたしは膝を折らなかった。三年間、この人の前では、いつも膝を折っていた。
「三年間、あなたはわたしの名前を呼びませんでした。今は呼べるのでしょう。でも、もう、わたしが振り向きません」
広間の誰も、動かない。
元夫の顔から、少しずつ色が抜けていく。片膝をついたまま、言葉を探すように唇が動いて、何も出てこなかった。
それから、玉座のほうから乾いた声。
「ヴェルナー公」
国王陛下だった。
「叙勲の場は、求婚の場ではない」
王妃様が、扇を閉じる音がした。
後ろの列の誰かが、こらえきれずに小さく吹き出した。それが合図になったように、広間のあちこちで、張りつめていたものがほどけていく。扇の陰で、今度はわたしではなく、元夫のほうを見て囁く声がした。
元夫が、ゆっくりと立ち上がる。
陛下に一礼し、それから左手の指輪を外す。
しばらく手のひらの上で転がしてから、礼装の隠しにしまう。討伐のたびに外していた頃とは、違う外し方だった。
元夫は列へは戻らずに、玉座の間を出ていった。広間の扉が閉まる音は、登記所の判の音より、もっと小さかった。
わたしは席に戻って、父から感状を受け取る。
座ったとたんに、膝が震え始めた。立っているあいだは、何ともなかったのに。
父が何も言わずに、わたしの手の上に自分の手を重ねた。荷車を押してきた、硬い手のひら。
騎士たちの叙勲は、そのまま続いた。
「騎士団副団長、オスカー・レーン」
「北の谷で、団長を担いで戻ったのはそなたか」
「はい、陛下」
「よく戻った」
騎士団の列から、低い歓声が上がった。レーン卿は勲章を受けると、すぐに列へ戻る。式のあいだ、一度もこちらを見ないまま。
こちらを見ないことが、少しだけ寂しかった。そう思った自分に、驚く。
式が終わったとき、騎士団の列にレーン卿の姿はもうなかった。
その晩、帳場の机の引き出しを開けた。北棟から持ってきた麻紐の束は、一番奥にしまってある。紐には触れずに、引き出しを閉めた。
手紙が届いたのは、三日後の朝だった。
「騎士団の若い従士が持ってきました。お返事は要らないそうです」
番頭はそう言って、封筒をわたしの机に置いていった。白い封筒で、封蝋は騎士団の紋。表には、角ばった字で宛名が書いてある。
中の便箋は、一枚だけだった。インクの濃さが途中で一度変わっている。一度ペンを置いて、また書き始めたのかもしれない。
北の砦への転属を拝命しました。明後日の夜明けに、西門より発ちます。
それだけだった。礼の言葉も、糧食のことも書いていない。差出人の名前だけが、いつもと同じ字で、いつもと同じ位置にあった。
三回読んだ。
隣の机で帳面をつけていた父が、老眼鏡の上からこちらを見た。
「西門か。夜明けは冷えるぞ」
「何のお話ですか」
「独り言だ」
父はまた帳面に目を戻す。ベルンハルトが、窓のほうを向いて咳払いをした。
わたしは、封筒をもう一度裏返して、宛名を見た。
公爵夫人へ、ではなかった。
ハースト嬢へ。
二十四通目は、はじめて、わたし宛てだった。




