二十三通目
「あの子を、助けてやってちょうだい」
先代の奥様が泣くのを、わたしは初めて見た。
王宮の東翼、侍従長の執務室の前の廊下。ブローチの件で、わたしは証人として呼ばれていた。先代の奥様は、控えの長椅子から立ち上がると、扇も持たずにわたしの前まで来て、両手でわたしの手を取った。
三年間、この人の手に触れたことは一度もない。思っていたより冷たくて、指輪がたくさんはまっていた。
「ユリウスはね、あなたが戻ってくれれば全部元どおりになると言っているの。お屋敷はもう、厨房に料理長が一人いるきりよ。今月の給金も払えない。クラリスはあんなことになるし、わたくしは王都から出られないし」
「存じております」
「あなたしかいないのよ」
先代の奥様の目から、また涙が落ちた。
わたしは、握られた手をそっと引く。
「三年間、そうおっしゃっていただきたかったです」
先代の奥様の顔が、涙で濡れたまま止まった。
「今は、ほかの方をお探しください」
先代の奥様は、何か言おうとして口を開いた。恩知らず、と言いかけたのだと思う。けれどその言葉は出てこないまま、先代の奥様は長椅子に腰を落とした。
執務室の扉が開いて、侍従が名前を呼んだ。
部屋の中には、長い机が一つ置かれていた。
奥の席に白い髭の侍従長。その脇に書記官。机のこちら側には、クラリス様と、ベルンハルトと、元夫がいた。元夫はわたしが入ってきたとき一度だけ顔を上げて、すぐに机の木目へ目を落とした。
ブローチの件は、すぐに済んだ。
ベルンハルトが宝石商の証文を出し、わたしが三年間一度もブローチに触れていないことを話し、侍従長が書記官に何か書き取らせた。クラリス様は、最初から最後まで膝の上のハンカチを見ていた。
「では、ダントン夫人。ブローチの買い戻しの件について、何か申し開きは」
クラリス様が、顔を上げた。
泣いた跡は、どこにもない。唇が、薄く笑っていた。
「わたくしを罰するのでしたら、お考えになったほうがよろしいわ」
「どういう意味でしょう」
「わたくし、身籠っておりますの」
書記官のペンが止まった。
クラリス様は、ゆっくりと自分の腹に手を当てる。
「ユリウスの子です。三月前の、夏至祭の夜の。公爵家の跡継ぎの母を、牢にお入れになりますか」
元夫が椅子を蹴るように立ち上がった。
「でたらめだ。俺は」
「あなたは覚えていないのよ、ユリウス。頭を打ったんですもの。あの夜のことも、全部忘れてしまったんでしょう」
「全部思い出した。君の部屋へは、一度も」
「思い出したつもりになっているだけよ」
元夫が言葉に詰まるのを、クラリス様は見逃さなかった。侍従長のほうへ向き直って、もう一度、腹の上で手を重ねる。
一瞬だけ、元夫がわたしを見た。
助けを求める目だった。三年間、この人がわたしをそういう目で見たことは、一度もない。
「このとおり、ご本人の記憶は当てになりません。けれど、子どもは嘘をつきませんわ」
わたしは、手提げから帳面を一冊出す。
「侍従長様。少し、よろしいでしょうか」
「ハースト嬢」
「夏至祭の夜でしたら、閣下は王都にはいらっしゃいませんでした」
クラリス様が、わたしを見た。夜会のときと同じ目だった。
わたしは帳面の頁を開いて、侍従長のほうへ向けた。
「ハースト商会の出荷台帳です。騎士団の糧食は、公爵家を通して、うちの商会から出しておりました。夏至祭の十日前に、騎士団は北の砦へ発っております。団長の馬の飼い葉も、その日から砦へ送っております。お戻りになったのは、夏至祭から二十日ほど後です」
侍従長が帳面を覗き込んだ。
「それから、夏至祭の日付で、こう書いてございます。北の砦へ、兵の皆さまに蜂蜜菓子を四百。夏至祭のお祝いに、商会から送らせたものです」
「蜂蜜菓子」
「はい。受け取りの礼状も、騎士団からいただいております」
侍従長が、書記官に何か言った。書記官が扉の外へ出ていった。
騎士団の詰所は、王宮の西の端にある。
それほど待たずに、扉が叩かれた。
入ってきたのは、レーン卿だった。制服の上着の前を、走ってきたのか少し乱したまま。部屋の中を一度見回して、わたしのところで目を止め、それから侍従長の前で膝をついた。
「騎士団副団長、オスカー・レーン。お呼びにより参りました」
「副団長。夏至祭の夜、ヴェルナー団長はどこにおられた」
「北の砦です」
レーン卿の答えに、迷いはない。
「夏至祭の夜は、魔獣の群れが砦の北の谷に出ましたので、団長と私は見張り台で夜を明かしました。朝まで、一度も台を降りておりません。見張りの兵が十二人、同じ台におりました。お望みでしたら、全員をここへ呼びます」
「それには及ばん」
「それと」
レーン卿は、ほんの少しだけ言葉を足した。
「その晩は、兵が全員、蜂蜜菓子を食べておりました。公爵家の奥様からの贈り物でしたので、よく覚えております」
クラリス様の手が、腹の上から滑り落ちた。
侍従長が長いため息をついて、書記官のほうを見る。
「王宮の医師に、ダントン夫人を診ていただくように」
「……気分が、悪いの」
クラリス様が、かすれた声で言った。
「今日は、これで」
誰も返事をしない。元夫は立ったまま、クラリス様を見下ろしていた。
わたしは帳面を閉じて、侍従長に一礼した。
王宮の中庭を抜けて、馬車の待つ門へ向かう。
レーン卿が、半歩後ろをついてきた。送るとは言わない。わたしも、送ってほしいとは言わなかった。
「助かりました」
「こちらこそ。帳面がなければ、私の証言は団長をかばう部下の言葉にしかなりませんでした」
「蜂蜜菓子のことまで、覚えていてくださるとは思いませんでした」
レーン卿は、少し間を置いてから言った。
「全部、覚えています」
わたしは返事をしない。石畳の継ぎ目を、一つずつ数えながら歩く。数えていないと、隣を見上げてしまいそうだった。
中庭の石畳に、夕方の日が長く伸びている。
「遠征のたびに、公爵家へ礼状を書きました。団長は書かないと分かっていましたので、自分の名前で。誰が糧食を手配しているのかは、最初の冬に分かりました。前の年までとは、小麦の質が違いましたから」
「二十三通、いただきました」
「二十三通、お返事をいただきました」
レーン卿は、前を向いたまま言った。
「砦で、あれを読むのが楽しみでした。一通も、団長には見せていません」
門が見えてくる。ハースト家の馬車が待っている。
レーン卿は馬車の扉を開けるために、上着の内側へ手を入れた。
手袋と一緒に、封筒の端がのぞいた。
薄い緑の封蝋。
嫁ぐ前の日に、父と文具屋で選んだ色だった。封筒の角には、麦の穂の刷り模様がある。最後の一通だけは屋敷の便箋が切れて、実家の商会の封筒を使った。元夫の額に包帯が巻かれることになる遠征の、出発の三日前に書いたものだ。
レーン卿は何事もなかったように手袋だけを取り出して、封筒を奥へ戻した。
二十三通目の返事を、彼はまだ胸の内ポケットに入れていた。




