全部、思い出した
その日、カードは来なかった。
朝の荷が着いて、帳場が一番忙しくなる時間を過ぎても、使いの少年は現れない。
夜会から、四日が経っていた。
午後二時の鐘が鳴ったとき、わたしは帳面から顔を上げて、裏口のほうを見ていた。待っていたわけではない。あれだけ続けば、鐘と一緒に首が動くようになる。
「今日は、来ませんね」
番頭が言った。
「来ないでしょうね」
「閣下は、あの晩から三日、王宮の医務室で眠っておいでだったそうです」
夕方、ベルンハルトが帳面から顔を上げて言った。王宮に出入りする粉屋から聞いたらしい。
「昨日の朝、お目覚めになって、その日のうちにお屋敷へ戻られたと」
「そう」
「クラリス様は、ブローチを買い戻して王家にお返しするまで、王都を出てはならぬとのお達しです。先代の奥様も、同じく」
「買い戻すお金は」
「ございません。宝石商は、売った値の倍でなければ手放さないと言っているそうで」
わたしは頷いて、仕入れの帳面に戻る。
騎士団からは、新しい契約の最初の注文書が届いていた。角ばった字で、小麦二百袋。
ベルンハルトはそれ以上何も言わなかった。
翌日の昼前、表の戸が開いた。
叩かれずに、開いた。
番頭が振り返って、何か言いかけて、そのまま固まる。戸口に立っていたのは、元夫だった。黒い外套を着て、手袋もはめている。先触れのカードはない。店の前に立つ人を、番頭はもう何日も裏口へ回してきたのに、元夫は表の戸から、当たり前のように土間へ入ってきた。
「ハースト嬢に会いに来た。通してくれ」
三年間、屋敷で何度も聞いた声の出し方だった。
土間で袋を担いでいた荷運びの男たちが、手を止める。公爵様だ、と誰かが小声で言った。
髪は、三年間見慣れた形に後ろへ撫でつけてある。右手の人差し指には、公爵家の印章の指輪。
それから元夫は、自分の言ったことに気づいたように、戸口で足を止めた。
「……すまない。先触れを出すのを忘れた」
番頭がわたしを振り返る。わたしは机から立った。
「奥の部屋へどうぞ。ベルンハルト、戸を開けておいて」
帳場の奥には、父が商談に使う小さな部屋がある。
元夫は部屋に入ると、椅子の座面にうっすらと積もった小麦粉に目を留めて、ほんの一瞬、眉を寄せた。三年前に何度も見た顔だった。
それでも元夫は、椅子を勧められる前に座り、座ってから、そのことに気づいて立ち上がった。わたしが座るのを待って、もう一度腰を下ろす。
戸口には、ベルンハルトが立っている。
「全部、思い出した」
元夫が言った。
「婚礼の前の晩のことも。この三年のことも。君の名前を訊いたことも、裸足で砂利の上を走ったことも、裏口の前で断られていた日々のことも。全部だ」
「そうですか」
「医務室で目を覚ましたとき、最初に思い出したのは、婚礼の晩のことだった」
元夫は手袋を外して、膝の上で握った。
「俺は東棟で、朝まで酒を飲んでいた。クラリスが泣いていたからだ。あの子は、君が金で俺を買ったと言って泣いていた。俺はそれを、確かめもしなかった」
「存じております」
「夜会で、君を金で買った妻だと紹介したのも俺だ。書斎で、置物は置物らしくと言ったのも。借金を君の持参金で返していることも、知っていた。知っていて、一度も礼を言わなかった。金を払うのは、買った側の務めだと思っていた」
淡々とした声だった。一つずつ、帳簿の数字を読み上げるように。
「薬湯のことも思い出した。クラリスが運んできたのを、俺はクラリスが作らせたものだと思って飲んでいた。礼も言った。クラリスに」
記憶を失くしていた人は、何ひとつ知らないまま頭を下げていた。今ここにいる人は、全部知っていて、それを並べている。
「それから」
元夫は、少しだけ言い淀んだ。
「婚礼の晩に、君は手紙をくれた。侍女が届けてきた」
「はい」
「読んでいない」
膝の上で、わたしは指を組み直した。
それから、元夫の顔を見た。
「封も切らずに、東棟の暖炉に入れた。封蝋が薄い緑だったのは覚えている。何が書いてあったのか、俺は知らない。返事がないと、君は言っていた。返事が来るはずがなかった」
「東棟の、クラリス様のお部屋の暖炉ですか」
「……そうだ」
部屋の外で、荷車の軋む音。
便箋三枚の手紙だった。封蝋の緑は、嫁ぐ前の日に父と文具屋で選んだ。よろしくお願いします、と書いた。好きな食べ物と、冬が苦手なことも。
あれは、誰にも読まれなかった。
そう思ったとき、自分でも意外なことに、少しだけ胸が軽くなった。あの手紙を書いた十七のわたしは、まだ誰にも知られていない。あの人にも。
「話してくださって、ありがとうございます。知らないままでいるより、ずっといいことでした」
元夫の肩から、ほんの少し力が抜けたのが分かった。
赦しの言葉を聞いたと思った人の顔だった。
元夫は顔を上げた。
灰色の目が、わたしを見ている。記憶を失くしていたときと、同じ目の色だった。けれど、見ているものが違う。あのときの目は、何も知らない人の目だった。今は、全部を知っている人の目で、それでもこちらへ手を伸ばそうとしている。
「言い訳はしない。許してくれとも言わない」
「はい」
「ただ、あの三週間のことも、俺は覚えている。名前を訊いたのも、裸足で走ったのも、断られに通ったのも、俺だ。あれも俺なんだ」
「あの方は、わたしの名前を訊いてくださいました」
「それも俺だ」
「はい。何も覚えていらっしゃらなかったときの、閣下は」
しばらく、返事はなかった。
元夫の左手の薬指には、まだ指輪があった。医務室で眠っていた三日のあいだも、外されなかったらしい。
「だから、今度は間違えない。全部覚えているから、今度こそ君を大事にできる。もう一度、やり直させてくれないか」
元夫は、身を乗り出すようにして続けた。
「北棟の端の部屋は、壁ごと取り壊す。東棟の南の部屋を、君の部屋にする。クラリスには出ていってもらう。母上も領地へ下がらせる。君が戻ってくるまでに、屋敷は全部片づけておく」
東棟の南の部屋。三年間、クラリス様のショールが椅子の背に掛けたままになっていた部屋。
片づけるのも、壊すのも、部屋を決めるのも、この人だった。三年前と同じように。
戸口のベルンハルトが、身じろぎする気配がした。
わたしは、元夫の指輪を見ている。
内側に彫ってある名前を、この人は三年間、一度も読まなかった。読んだのは、何も覚えていなかったときだけだった。
帳場のほうで、父が荷車の数を数える声がしている。いち、に、さん。いつもと同じ調子で。
わたしは膝の上で両手を重ねて、元夫を見た。
「それは、あなたの都合です。思い出したのなら、なおさら戻りません」




