夜会で
「あの方、公爵家の宝石を持ち逃げしたんですって」
扇の陰の囁きは、わたしが広間に入ったとたんに始まった。
王宮の秋の夜会には、毎年、王家に小麦を納める商会の主人が招かれる。今年はその招きに、ハースト子爵令嬢の名前が書き添えてあった。父は腕を貸しながら、王妃様の侍女頭からの計らいらしい、とだけ言った。
「怪我をした旦那様を置いて、出ていったそうよ」
「持参金を返せと、公爵家に迫っているとか」
「まあ、商家の娘ですものね」
隣で、父が小さく咳払いをした。
声は、わたしが歩くたびに少しずつ後ろへずれていく。わたしは振り返らずに、父の腕に手を置いたまま広間の奥へ進んだ。
首にも耳にも、何もつけていない。ドレスは嫁ぐ前に仕立てた紺の一着で、少し丈が短くなっていた。
先代の奥様とクラリス様は、王妃様の席に近い柱のそばにいた。
二人とも、わたしが来るのを待っていたらしい。先代の奥様が扇を閉じ、クラリス様がその半歩前に出た。広間の真ん中で、ちょうど王妃様のお耳に届く距離だった。
「ミレイユさん」
クラリス様が、わたしの名前を呼んだ。三年間、一度も呼んだことのない名前を。
「お返しいただきたいものがあるの。公爵家に代々伝わるブローチを、あなたが出ていった日から、どこにも見当たらないのよ」
広間の囁きが止んだ。
「銀の台に、青い石の。あなたも見たことがあるでしょう。あれは公爵夫人のものよ。離縁したあなたに、持っていく権利はないわ」
「恩知らずにもほどがあります」
先代の奥様が、扇の陰から言い添えた。
「三年も置いてやったのに」
置いてやった。置物は、置物らしく。この家の人たちは、同じ言葉ばかり使う。
クラリス様の胸元には、今夜は何もなかった。
わたしはクラリス様を見て、それから先代の奥様を見た。先代の奥様は扇の陰で、ほんの少しだけ顎を上げる。
「そのブローチでしたら、わたしは三年間、一度も手に取ったことがございません。いつも、クラリス様の胸元にありましたので」
「嘘をおっしゃい」
「嘘かどうかは、わたしより、もっと確かな方がご存じかと」
わたしは王妃様の席のほうへ向き直って、膝を折った。
王妃様は、扇を膝に置いたまま、わたしを見ている。
「昨年の春の園遊会で」
王妃様が口を開いた。
「青い石のブローチを、確かに見ました。ヴェルナー家のご夫人の胸ではなく、そちらのご婦人の胸元で。どうしてあの方がと、侍女頭と話したのを覚えています」
クラリス様の顔から、血の気が引いていく。
「それから」
わたしは父の後ろに控えていた人を振り返った。
黒い上着を着た白髪の男が、一歩前に出た。二日前まで、公爵家の家令だった人だ。今はハースト商会の帳場で、父の隣の机に座っている。
ベルンハルトは、畳んだ紙を一枚、両手で差し出した。
「昨日、王都の宝石商が、公爵家のつけの支払いについてハースト商会に相談に参りました。そのおり、これを見せてくれました」
買取の証文だった。
銀台に青石のブローチ一点。売り主の欄に、クラリス・ダントンの署名。日付は、わたしが屋敷を出た翌日になっている。
「そのブローチは」
王妃様が、ゆっくりと言った。
「先々代のヴェルナー公爵夫人の婚礼に、わたくしの祖母が贈ったものです。王家から下賜した品を、ご当主の奥方でもない方が、町の宝石商に売ったのですか」
クラリス様は何か言おうとして、唇だけが動いた。先代の奥様の手から扇が落ちて、床で乾いた音を立てる。
国王陛下が片手を上げた。
それだけで、衛兵が二人、柱の陰から出てくる。
「ダントン夫人には、別室でお話を伺う。ヴェルナーの先代夫人もだ」
クラリス様が連れていかれるとき、わたしのほうを一度だけ見た。
満足かと聞かれた夜と、同じ目だった。わたしはあの夜と同じように、膝を折って見送る。
「ハースト嬢」
王妃様に呼ばれて、わたしは顔を上げた。
「三年間、ご苦労でしたね」
それだけだった。それだけで、広間の何十人もの目が、わたしを見る目つきを変えた。
楽団が、止まっていた曲をもう一度始める。
囁きは、もうわたしの後ろにはついてこない。
壁際に、元夫が立っていた。
いつから広間にいたのかは分からない。額の包帯は取れて、細い傷跡が髪の生え際に残っている。一歩こちらへ踏み出しかけた形のまま、止まっていた。
わたしは、そちらを見ない。
「ハースト嬢」
すぐそばで、低い声がした。
レーン卿だった。騎士団の礼装を着て、手袋をはめた手を胸に当てている。
「一曲、お相手をお願いできますか」
「レーン卿が、踊られるのですか」
「先に申し上げておきます。得意ではありません」
わたしは少し迷ってから、彼の手を取った。
本当に得意ではなかった。三拍目で、必ず半拍遅れる。そのたびに、すみません、と小さく言う。騎士団の副団長が、剣を持たせれば王都で三本の指に入ると言われている人が、ワルツの三拍目で謝っている。
手袋越しの手は、驚くほど軽く添えられているだけだった。礼装から、かすかに馬と革の匂いがする。
二回目のすみませんで、わたしは笑ってしまった。
声を立てて笑ったのは、いつ以来だろう。
回るたびに、壁際の元夫が視界の端に入った。二年半前の夜会で、この人がわたしのほうを見たことは、一度もなかった。
「笑っていただけたなら、遅れた甲斐がありました」
レーン卿はそう言って、四回目の三拍目も、やっぱり遅れた。
曲が終わると、彼はわたしを父のところまで送り届けて、それ以上は何も言わずに下がっていく。手袋越しの軽さが、しばらく手のひらに残っていた。
広間の熱気に疲れて、わたしは庭へ出た。
露台の下の芝生に、月の光が落ちている。噴水の縁に手をかけて、しばらく水の音を聞いた。
芝生を踏む足音がして、振り返る。三歩ほど離れたところで、元夫が足を止めていた。月の明かりで、額の傷跡が白く見える。
「さっきは、何もできなかった」
「何もしていただく必要は、ありませんでした」
「分かっている」
元夫は言いながら、指先でこめかみを押さえた。広間を出てから、これで何度目だろう。
「ベルンハルトが君のところにいると、今夜知った。よかった」
「父が助かっております」
「母上とクラリスのことは、俺が始末をつける」
「閣下のお家のことですので、わたしは何も」
「君が笑うのを、初めて見た」
「初めてではありません。閣下がご覧にならなかっただけです」
黙って、元夫は頷いた。
それから左手を上げて、薬指の指輪に触れる。
「指輪の内側を、読んだ。三年間、一度も読まなかったらしい」
わたしは何も言わなかった。
噴水の水音だけが、しばらく続いた。
元夫は指輪から目を上げて、まっすぐにわたしを見た。こめかみを押さえていた指が、額の傷跡のほうへずれる。
「ミレイユ」と呼んだ元夫の身体が、そのまま芝生に崩れた。




