三年分の帳簿
帳簿の部屋には、椅子がひとつしかない。
机も小さい。窓は北向きで、昼を過ぎると手元が暗くなる。壁の棚には、背に年と月を書いた帳簿が三年分、隙間なく並んでいる。背の字は全部同じ手だった。小さくて、右の肩が少しだけ上がっている。
離縁の翌日から、俺はこの部屋にいる。
一冊目を開いたのは、ベルンハルトに鍵束を見せられた晩だった。奥様がお返しになりました、と家令は言った。それで、この家の鍵をこれまで誰が持っていたのかを知った。
一年目の最初の頁は、借金の一覧から始まっている。
父上が亡くなったあとに残したもの。領地の用水路の修繕費。王都の屋敷の抵当。俺の知らない名前の商人への支払い。合計の欄の数字を、俺は三回数え直した。
その下に、同じ手で一行。
持参金より、順次返済。
頁をめくるごとに、数字は少しずつ減っていく。使用人の給金、持参金より。屋根の修繕、持参金より。冬の薪、ハースト商会より立て替え。
一年目の春の頁に、一行だけ、金額の書かれていない項目がある。
北棟の物置、片付け。自分で。
減らない欄もあった。
客人費。
東棟の、客人のための費用。仕立て屋、宝石商、香水の店。月によっては、使用人全員の給金より多い。その欄の脇には、何も書き込まれていなかった。
俺の欄もある。
騎士団長の交際費。遠征の支度。馬具。俺が自分で払ったと思っていたものは、たぶん、ほとんどここに入っている。
母上が帳簿の部屋に来たのは、四日目の昼だった。
「帳簿なんて、家令に任せておきなさい。それより、あの娘を連れ戻す算段をしてちょうだい。このままでは、来月の給金も払えないのよ」
「母上は、この欄をご存じでしたか」
俺は客人費の頁を開いて見せた。母上は数字を見て、すぐに目を逸らす。
「クラリスはかわいそうな子なのよ。夫を亡くして、ほかに頼るところもないの」
「持参金で払っていたことも」
母上は答えずに、扇を開いた。それから、俺の顔色が悪いと言って、部屋を出ていく。
二年目の途中まで読んだところで、紙の端に書かれた字に目が止まった。
本文とは別の、もっと小さな字。急いで書いたように、少し崩れている。
旦那様、今朝も咳。薬湯を厨房へ頼むこと。
その三日後の欄外にも。
旦那様、咳止まる。薬湯やめ。
俺は帳簿を閉じて、厨房へ下りた。
厨房には料理長が一人残っているだけだった。竈の火も半分落ちている。昨日、下働きが二人辞めたと聞いた。
「二年前の冬に、俺に薬湯を出したことがあるか」
料理長は鍋をかき回す手を止めて、しばらく考えている。
「ございます。蜂蜜と生姜の。閣下が咳をなさるたびに、お出ししておりました」
「誰に言われて」
「奥様のご指示です」
それから料理長は、少し言いにくそうに付け足した。
「閣下は、クラリス様からだと思っておいででした。お運びするのは、いつもクラリス様でしたので」
「クラリスが、そう言ったのか」
「私の口からは、何とも」
料理長はそれ以上言わずに、また鍋をかき回し始める。
厨房を出たその足で、北棟の端まで行った。
あの人の部屋は、扉に鍵もかかっていなかった。寝台と、机と、空の衣装箪笥。暖炉の灰は、きれいに掻き出してある。窓には薄い布が一枚かかっているだけで、廊下より寒かった。
机の上に、指輪がひとつ置いてあった。
女物の、細い指輪。手に取って内側を見ると、俺の名前が彫ってあった。
深く、はっきりと彫ってある。三年間、一度も外さずにはめていたのだろう。字の角が、少しだけ丸くなっていた。
俺はそれを机に戻した。
その晩、部屋に戻ってカードを書いた。
ハースト嬢へ。本日午後二時に伺ってもよろしいか。
いつもと同じ文句を書いてから、ペンが止まった。断られるのは分かっている。四日続けて断られた。それでも何か一行、足したかった。
額の傷は、もう塞がった。
書いてから読み返す。ひどく間の抜けた一行だ。
クラリスが部屋に来たのは、六日目の夜だった。
盆に茶器を載せて、寝間着の上にあのショールを羽織っている。ブローチはもう、つけていなかった。
「ユリウス。ずっと帳簿の部屋にいるんですって。体に障るわ」
「クラリス。聞きたいことがある」
クラリスは茶を注ぐ手を止めない。
「薬湯のことだ。俺が咳をするたびに、蜂蜜と生姜の薬湯が出てきた。君が運んでいた」
「ええ」
「あれは、誰が作らせていた」
湯気の向こうで、クラリスの目がわずかに動いた。
「厨房よ。わたしが頼んだの」
「料理長は、そうは言わなかった」
クラリスが、茶器を置く。
しばらく黙っていたけれど、やがて、諦めたように笑った。昔から、叱られる前にはこういう笑い方をする子だった。
「だって、あなたが言ったのよ」
「何を」
「あの子は金で公爵家を買ったって。婚礼の前の晩に。そんな女の作ったものなんて、あなたは口にしなかったでしょう。だから、わたしが運んであげたの。あなたのために」
俺は言い返そうとして、言葉が出てこなかった。
婚礼の前の晩のことは、覚えていない。けれど、クラリスがでたらめを言っているとも思えなかった。俺はきっと、本当にそう言ったのだ。
「俺は、それを彼女に確かめたか」
「確かめる必要なんて、なかったでしょう。みんな知っていたもの」
「誰が、みんなに言った」
クラリスは答えなかった。
茶器を盆に戻して、何も言わずに部屋を出ていった。
俺は左手の指輪を外した。
灯りにかざすと、内側に字が彫ってある。
小さな字だった。細い線で、丁寧に彫ってある。婚礼のとき、俺はこれを読んだだろうか。読んでいない気がした。読んでいれば、少なくとも三年も、あの人の名前を呼ばずにいることはなかったはずだ。
ミレイユ。
口の中で転がしかけて、やめた。
その名前を呼ぶ資格が、俺にあるとは思えなかった。
七日目の夕方、ベルンハルトが帳簿の部屋の戸を叩いた。
外套を着て、帽子を手に持っている。雨が降り始めていた。
「お暇をいただきます、閣下」
給金はもう、どこからも出ない。それでも、四十年この家にいた男の口からその言葉を聞くと、腹の底が冷えた。
「どこへ行く」
「行き先は、申し上げずにおきます」
家令は外套の懐から、薄い帳面を一冊出して、机の上に置く。
「こちらは、帳簿の棚にはございません。奥様が、ご自分の机で付けておいでだった書簡の控えです。閣下がお目通しになるべきかと思いまして」
それだけ言うと、ベルンハルトは深く頭を下げて、出ていった。
帳面を開いた。
屋敷に届いた手紙と、出した手紙の記録だった。日付と、差出人と、要件と、返事を出した日。一行ずつ、あの小さな字で埋まっている。
公爵家宛ての手紙のほとんどは、俺宛てだった。返事を出したのは、全部あの人だった。
帳面の終わりのほうに、同じ差出人の名前が何度も出てくる。
騎士団より、糧食の御礼。遠征のたびに一通。
差出人の欄は、毎回同じだった。騎士団副団長、オスカー・レーン。
返信済、と毎回書いてある。
最後の頁の隅に、数字が書き込んであった。
二十三通。
俺は、一通も書いていない。
三年分の礼状の差出人は、全部、俺の部下だった。




