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旦那様が記憶喪失になったので、ちょうどいいから離縁します  作者: 九葉(くずは)


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5/10

三年分の帳簿

帳簿の部屋には、椅子がひとつしかない。


机も小さい。窓は北向きで、昼を過ぎると手元が暗くなる。壁の棚には、背に年と月を書いた帳簿が三年分、隙間なく並んでいる。背の字は全部同じ手だった。小さくて、右の肩が少しだけ上がっている。


離縁の翌日から、俺はこの部屋にいる。


一冊目を開いたのは、ベルンハルトに鍵束を見せられた晩だった。奥様がお返しになりました、と家令は言った。それで、この家の鍵をこれまで誰が持っていたのかを知った。


一年目の最初の頁は、借金の一覧から始まっている。


父上が亡くなったあとに残したもの。領地の用水路の修繕費。王都の屋敷の抵当。俺の知らない名前の商人への支払い。合計の欄の数字を、俺は三回数え直した。


その下に、同じ手で一行。


持参金より、順次返済。


頁をめくるごとに、数字は少しずつ減っていく。使用人の給金、持参金より。屋根の修繕、持参金より。冬の薪、ハースト商会より立て替え。


一年目の春の頁に、一行だけ、金額の書かれていない項目がある。


北棟の物置、片付け。自分で。


減らない欄もあった。


客人費。


東棟の、客人のための費用。仕立て屋、宝石商、香水の店。月によっては、使用人全員の給金より多い。その欄の脇には、何も書き込まれていなかった。


俺の欄もある。


騎士団長の交際費。遠征の支度。馬具。俺が自分で払ったと思っていたものは、たぶん、ほとんどここに入っている。


母上が帳簿の部屋に来たのは、四日目の昼だった。


「帳簿なんて、家令に任せておきなさい。それより、あの娘を連れ戻す算段をしてちょうだい。このままでは、来月の給金も払えないのよ」


「母上は、この欄をご存じでしたか」


俺は客人費の頁を開いて見せた。母上は数字を見て、すぐに目を逸らす。


「クラリスはかわいそうな子なのよ。夫を亡くして、ほかに頼るところもないの」


「持参金で払っていたことも」


母上は答えずに、扇を開いた。それから、俺の顔色が悪いと言って、部屋を出ていく。


二年目の途中まで読んだところで、紙の端に書かれた字に目が止まった。


本文とは別の、もっと小さな字。急いで書いたように、少し崩れている。


旦那様、今朝も咳。薬湯を厨房へ頼むこと。


その三日後の欄外にも。


旦那様、咳止まる。薬湯やめ。


俺は帳簿を閉じて、厨房へ下りた。


厨房には料理長が一人残っているだけだった。竈の火も半分落ちている。昨日、下働きが二人辞めたと聞いた。


「二年前の冬に、俺に薬湯を出したことがあるか」


料理長は鍋をかき回す手を止めて、しばらく考えている。


「ございます。蜂蜜と生姜の。閣下が咳をなさるたびに、お出ししておりました」


「誰に言われて」


「奥様のご指示です」


それから料理長は、少し言いにくそうに付け足した。


「閣下は、クラリス様からだと思っておいででした。お運びするのは、いつもクラリス様でしたので」


「クラリスが、そう言ったのか」


「私の口からは、何とも」


料理長はそれ以上言わずに、また鍋をかき回し始める。


厨房を出たその足で、北棟の端まで行った。


あの人の部屋は、扉に鍵もかかっていなかった。寝台と、机と、空の衣装箪笥。暖炉の灰は、きれいに掻き出してある。窓には薄い布が一枚かかっているだけで、廊下より寒かった。


机の上に、指輪がひとつ置いてあった。


女物の、細い指輪。手に取って内側を見ると、俺の名前が彫ってあった。


深く、はっきりと彫ってある。三年間、一度も外さずにはめていたのだろう。字の角が、少しだけ丸くなっていた。


俺はそれを机に戻した。


その晩、部屋に戻ってカードを書いた。


ハースト嬢へ。本日午後二時に伺ってもよろしいか。


いつもと同じ文句を書いてから、ペンが止まった。断られるのは分かっている。四日続けて断られた。それでも何か一行、足したかった。


額の傷は、もう塞がった。


書いてから読み返す。ひどく間の抜けた一行だ。


クラリスが部屋に来たのは、六日目の夜だった。


盆に茶器を載せて、寝間着の上にあのショールを羽織っている。ブローチはもう、つけていなかった。


「ユリウス。ずっと帳簿の部屋にいるんですって。体に障るわ」


「クラリス。聞きたいことがある」


クラリスは茶を注ぐ手を止めない。


「薬湯のことだ。俺が咳をするたびに、蜂蜜と生姜の薬湯が出てきた。君が運んでいた」


「ええ」


「あれは、誰が作らせていた」


湯気の向こうで、クラリスの目がわずかに動いた。


「厨房よ。わたしが頼んだの」


「料理長は、そうは言わなかった」


クラリスが、茶器を置く。


しばらく黙っていたけれど、やがて、諦めたように笑った。昔から、叱られる前にはこういう笑い方をする子だった。


「だって、あなたが言ったのよ」


「何を」


「あの子は金で公爵家を買ったって。婚礼の前の晩に。そんな女の作ったものなんて、あなたは口にしなかったでしょう。だから、わたしが運んであげたの。あなたのために」


俺は言い返そうとして、言葉が出てこなかった。


婚礼の前の晩のことは、覚えていない。けれど、クラリスがでたらめを言っているとも思えなかった。俺はきっと、本当にそう言ったのだ。


「俺は、それを彼女に確かめたか」


「確かめる必要なんて、なかったでしょう。みんな知っていたもの」


「誰が、みんなに言った」


クラリスは答えなかった。


茶器を盆に戻して、何も言わずに部屋を出ていった。


俺は左手の指輪を外した。


灯りにかざすと、内側に字が彫ってある。


小さな字だった。細い線で、丁寧に彫ってある。婚礼のとき、俺はこれを読んだだろうか。読んでいない気がした。読んでいれば、少なくとも三年も、あの人の名前を呼ばずにいることはなかったはずだ。


ミレイユ。


口の中で転がしかけて、やめた。


その名前を呼ぶ資格が、俺にあるとは思えなかった。


七日目の夕方、ベルンハルトが帳簿の部屋の戸を叩いた。


外套を着て、帽子を手に持っている。雨が降り始めていた。


「お暇をいただきます、閣下」


給金はもう、どこからも出ない。それでも、四十年この家にいた男の口からその言葉を聞くと、腹の底が冷えた。


「どこへ行く」


「行き先は、申し上げずにおきます」


家令は外套の懐から、薄い帳面を一冊出して、机の上に置く。


「こちらは、帳簿の棚にはございません。奥様が、ご自分の机で付けておいでだった書簡の控えです。閣下がお目通しになるべきかと思いまして」


それだけ言うと、ベルンハルトは深く頭を下げて、出ていった。


帳面を開いた。


屋敷に届いた手紙と、出した手紙の記録だった。日付と、差出人と、要件と、返事を出した日。一行ずつ、あの小さな字で埋まっている。


公爵家宛ての手紙のほとんどは、俺宛てだった。返事を出したのは、全部あの人だった。


帳面の終わりのほうに、同じ差出人の名前が何度も出てくる。


騎士団より、糧食の御礼。遠征のたびに一通。


差出人の欄は、毎回同じだった。騎士団副団長、オスカー・レーン。


返信済、と毎回書いてある。


最後の頁の隅に、数字が書き込んであった。


二十三通。


俺は、一通も書いていない。


三年分の礼状の差出人は、全部、俺の部下だった。

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