断られに来てもいいか
「お断りします」
わたしがそう言うと、元夫は瞬きを一つした。
断られるとは思っていなかった顔だった。記憶を失くしても、そこは変わらないらしい。
「そうか」
「はい」
「理由を」
「閣下は今朝、わたしの夫ではなくなりました。わたしが閣下の求婚をお受けする理由も、同じだけなくなりました」
わたしは踏み台に残していた片足を上げて、馬車に乗り込んだ。御者が扉を閉める。窓の外で、元夫はまだ裸足のまま砂利の上に立っていた。
「ベルンハルト」
わたしは窓を少しだけ下ろして、門のところまで追いかけてきた家令に声をかけた。
「閣下に、お履き物を」
馬車が動き出した。
ハースト商会の帳場は、王都の西の河岸にある。
小麦と塩と薪を扱う店だ。父の代で、子爵位を買った。買った、という言い方を、公爵家の人たちは好んで使った。
わたしの机は、帳場の奥の窓際。嫁ぐ前に使っていた机を、父が物置から出してきてくれた。引き出しを開けると、十七のときに書きかけた仕入れの覚え書きがそのまま入っていた。
その机に、翌朝から一枚ずつカードが届くようになる。
ヴェルナー公爵家の紋の入った、白いカード。
ハースト嬢へ。本日午後二時に伺ってもよろしいか。
三年間、この人の字は書類の署名欄でしか見たことがない。署名はいつも殴り書きだった。カードの字は、一字ずつ丁寧に書いてある。
一日目は、使いの少年にお断りしますと伝えてもらった。
午後二時ちょうどに、元夫は店の前に来た。番頭が断ると、そうかと言って帰っていった。
二日目も、同じカード。同じように断った。元夫は二時ちょうどに来て、番頭に断られて、明日も断られに来てもいいだろうかと言って帰った。番頭はどう返事をしたらいいのか分からず、はあ、と言ったそうだ。
三日目、番頭がわたしの机まで来て、困った顔で言った。
「お嬢様、あの方は明日も来ますよ」
「来るでしょうね」
「店の前に立たれると、お客が入りにくいんですが」
「では、裏口の前にしていただくよう伝えてください」
四日目から、元夫は裏口の前に立つようになった。
五日目のカードの隅には、小さな字が一行増えている。
額の傷は、もう塞がった。
わたしはそのカードを、それまでの四枚と一緒に帳場の屑籠へ入れた。
先代の奥様が店に来たのは、その日の昼だった。
侯爵家の夜会から戻って三日、屋敷の有様に耐えかねて、馬車を回してきたらしい。帳場の土間に立って、扇で口元を隠したまま、店の中をぐるりと見回した。父が、荷車を数えていた手を止める。
「ずいぶん、埃っぽいところね」
「小麦粉を扱っておりますので」
わたしは机から立って、頭を下げた。
「ご用件を伺います」
「分かっているでしょう。屋敷に戻りなさい。今なら、なかったことにしてあげます」
「離縁はもう、大聖堂の台帳に載っております」
「あんなもの、ユリウスが正気に戻れば取り消せます。あの子は頭を打って、自分が何に名前を書いたかも分かっていなかったのよ。記憶のない息子を、あなたは見捨てるつもり」
扇の陰で、先代の奥様の声が高くなる。土間にいた荷運びの男たちが、手を止めてこちらを見た。
「署名なさったのは、ご子息ご本人です」
わたしは言った。
「医師の書付もございます。お疑いでしたら、大聖堂でお確かめください」
「使用人の給金はどうするの。今月の分が払えないと、家令が言っているのよ」
「そのことでしたら、家令がいちばんよく存じております。帳簿はすべて、書斎の棚の二段目にございますので」
先代の奥様が、扇を閉じる。
閉じた扇で何か言おうとして、周りの荷運びたちの目に気づいたらしく、そのまま踵を返した。
父が、数えかけの荷車のほうへ戻りながら言った。
「あれが、お姑さんか」
「元、です」
「そうか。元か」
父はそれ以上、何も聞かない。
騎士団の副団長がハースト商会を訪ねてきたのは、七日目の朝だった。
レーン卿は店の戸口で帽子を取って、帳場の土間には上がらずに、番頭にわたしの名前を告げた。
出ていくと、彼は脇に抱えていた書類の束を差し出す。
「騎士団の冬の糧食について、ご相談に参りました」
わたしは椅子を勧めたけれど、レーン卿は首を振って、土間に立ったまま話を続けた。
「糧食でしたら、公爵家とのお取り決めがあったはずですが」
「公爵家を通しての契約でした。団長の家が、騎士団の代わりに商会と契約を結ぶ形です。その公爵家とハースト商会の取引が、先日、終わりましたので」
わたしが三年間、代筆してきた契約。
「先日から詰所で配られているパンが、石のように固いのです。兵たちが、いつもの小麦はどうしたのかと聞いてきました」
「それで、騎士団から直接」
「はい。団長の許しは得ております。それと、これまでの契約書の写しをお持ちしました。条件は同じで構わないかと思ったのですが」
レーン卿は書類をめくって、ある一行のところで手を止めた。
代金の支払いは、公爵家の都合により翌春まで延期することができる。遅延の利息は付さない。
「これは、公爵家が入れた一文ですね」
「先代の奥様のご希望でした」
わたしはこの一文のせいで、毎年、冬の小麦の代金を商会に立て替えさせてきた。父は笑って立て替えてくれた。
レーン卿は胸の隠しからペンを出すと、その一行に、定規で引いたようにまっすぐな線を引いた。
線の脇に、小さく頭文字を書き添える。角ばった字だった。
「騎士団の契約には要りません」
「よろしいのですか。騎士団の予算も、楽ではないと伺っていますが」
「楽ではありません。ですが、兵に食わせる小麦を値切る理由にはなりません」
彼は書類を揃え直して、わたしに渡してくる。
「あなたの仕事に、値切る理由がありません」
それだけ言うと、レーン卿は帽子をかぶり直した。
戸口を出かけて、彼は一度だけ振り返った。
「団長が、毎日こちらに伺っていると聞きました。ご迷惑でしたら、副団長として止めますが」
「毎日お断りしておりますので、ご心配なく」
「そうですか」
レーン卿が、少しだけ笑う。
帽子の庇の下で見えたその笑い方を、わたしは夕方になっても覚えていた。
その日の午後二時にも、元夫は裏口の前に来た。
番頭が断りに出ると、元夫は、明日も断られに来ると言って帰っていったそうだ。
夕方から雨になった。
店を閉める時間になって、番頭が表の戸に閂をかけようとしたとき、戸を叩く音がした。
番頭が細く戸を開けて、それから慌ててわたしを呼んだ。
戸口に、ベルンハルトが立っていた。
外套の肩が雨で黒く濡れている。白髪から滴が落ちていた。
「こんな雨の中を」
「お嬢様」
ベルンハルトは帽子を胸に当てて、わたしを見た。
「今朝、侍女が三人、暇を取りました。厨房の者も、明日には出ていくと申しております」
「そう」
「先代の奥様は、クラリス様のお部屋にこもっておいでです。閣下は、午後のお出かけのほかは、帳簿の部屋からお出になりません」
外套の合わせ目から、封をした白い封筒の端がのぞいている。宛名は見えない。けれど、四十年勤めた家令が、封筒を懐に入れて主家を出てくる理由は、そう多くない。
ベルンハルトは深く頭を下げた。
「……雇っていただけますか、お嬢様」




