本日をもって
「受理の前に、一通お預かりしている書状がございます」
大聖堂の婚姻登記所は、朝の鐘が鳴ってすぐに窓口を開ける。
わたしは一番に並んだ。すぐ後ろには、婚姻の届けを出しに来たらしい若い二人が並んでいて、どちらの名前を先に書くかで小声で揉めていた。
わたしの番が来て、離縁届を差し出した。灰色の法衣を着た登記官は、書式に目を通してから、机の引き出しを開ける。
出てきたのは、見覚えのある封筒だった。公爵家の紋の入った、薄紫の封筒。封蝋には、先代の奥様の私印が押してある。
「今朝早く、ヴェルナー公爵家の使いの方がお持ちになりました。閣下は昨日頭を打たれて、ご記憶が混乱しておいでである。昨夜の署名は正気のものではないので、受理を差し止めていただきたい、と」
「差出人は」
「先代公爵夫人のお名前になっております。ただ」
登記官は封筒を裏返して、宛名の筆跡を指でなぞった。
「使いの方は、東棟のご婦人からだとおっしゃっていました」
先代の奥様は、まだ侯爵家の夜会から戻っていない。夜のうちに使いを出して、明け方に返事をもらって、ここへ届けさせた。そういう段取りには、ずいぶん手際がいい人たちだと思う。屋敷の支払いの段取りには、三年間一度も手を出さなかったけれど。
「ご心配には及びません」
わたしは手提げから、もう一枚紙を出した。
「昨夜、閣下を診た医師の書付です。頭の傷によって、直近五年ほどの記憶を失っておいでである。ただし、ものの道理を判じる力には障りがない。署名は本人の意思によるものと認める」
登記官は書付を読み、医師の署名と印を確かめる。
「念のため伺いますが、この書付はいつ」
「昨夜、閣下が署名なさった直後に。医師がまだ屋敷におりましたので、お願いしました」
東棟に呼ばれていた二人目の医師だった。クラリス様の枕元から、わたしが呼び戻した。
登記官は薄紫の封筒を、もう一度だけ見た。
「先代の公爵夫人は、当代の閣下の婚姻について、差し止めを申し立てるお立場にありません。東棟のご婦人も、同様です」
それから、机の上の判を取る。
判が紙に押される音は、思っていたより小さかった。
「本日をもって、ヴェルナー公爵ユリウス閣下と、ご夫人の婚姻は解消されました。旧姓にお戻りになりますね」
「はい」
登記官は台帳に何かを書き込み、顔を上げた。
「では、ミレイユ・ハースト様。こちらに受領の署名を」
三年ぶりだった。人の口から、自分の名前を聞くのは。
後ろに並んでいた若い二人の片方が、きれいな名前、と小さく言うのが聞こえた。
ペンを受け取る手が、少しだけもたついた。
屋敷に戻ると、玄関広間に使用人たちが集まっていた。
誰が知らせたのかは分からない。侍女たちは壁際に並んで、わたしの顔を見ないようにしている。家令のベルンハルトだけが、広間の真ん中に立っていた。
「お帰りなさいませ」
「ただいま戻りました。荷物をまとめたら、すぐに出ます」
「馬車は、ハースト家から迎えが来ております。門の外に」
夜明け前に実家へ出した手紙が、もう届いたらしい。父は昔から、娘の手紙にだけは返事が早い。
「ベルンハルト。いくつか、お伝えしておくことがあります」
「伺います」
わたしは手提げから鍵束を出した。帳簿の部屋と、金庫と、食料庫の鍵。三年間、わたしの腰から離れたことのない重さだった。
「帳簿はすべて、書斎の棚の二段目にあります。今月の分まで締めてあります」
「承知いたしました」
「それから、皆さんのお給金のことですが」
壁際の侍女たちが、そろって顔を上げた。
「この三年、お給金はわたしの持参金から出しておりました。公爵家の金庫は、借金の返済で空でしたので。それも今日で終わりです。来月からは、公爵家の金庫からお受け取りください」
広間が静まり返る。
侍女の一人が、隣の侍女の袖をつかむのが見えた。昨日、クラリス様のお部屋へ真っ先に走っていった子だった。
「金庫には」
ベルンハルトが、声を落として言った。
「今月分の、三分の一もございません」
「存じております。わたしが数えましたので」
「薪と小麦は」
「ハースト商会との取引は、今日の日付で終わります。明日からの分は、市場でお求めください。冬の相場は、秋の倍になります」
それだけ言うと、わたしは鍵束をベルンハルトの手のひらに載せる。
年老いた家令は、鍵の重さを確かめるように一度だけ手を握って、深く頭を下げた。
「三年間、お世話になりました。奥様」
「もう奥様ではありませんよ」
「存じております。ですが、今日までは」
わたしはそれ以上何も言わずに、北棟へ上がった。
階段の途中で、侍女長に呼び止められる。
嫁いできた最初の晩、わたしを北棟の端へ案内した人だった。
「奥様、せめて先代の奥様がお戻りになるまで、お待ちいただけませんか。お給金のことも、そのときに改めて」
「お給金のことでしたら、先代の奥様にご相談ください」
「ですが」
「わたしにはもう、この家のことを決める立場がありませんので」
侍女長はそれ以上言えずに、階段の手すりをつかんだまま立っていた。三年前、この人はわたしの顔を見ずに、閣下のご指示ですと言った。今日は、わたしの顔から目を離さない。
荷物は嫁いできたときの長持ちが一つと、鞄が一つだけだった。三年いても、増えたものはほとんどない。机の引き出しから手紙の束を出して、鞄の一番上に入れた。麻紐は、ほどかないまま。
それから、左手の指輪を外した。
三年間、一度も外さなかった指輪だった。夫のほうは討伐のたびに外していたけれど。机の上に置くと、小さな音がした。拾いに来る人がいるかどうかは、知らない。
玄関を出るとき、東棟の二階の窓で、カーテンが揺れた。
わたしは振り返らなかった。
門までの道は、砂利が敷いてある。
ハースト家の馬車の前で、御者が帽子を取った。お嬢様、と呼ばれた。わたしは頷いて、踏み台に足をかけた。
そのとき、背後で扉が乱暴に開く音。続いて、侍女たちの悲鳴と、ベルンハルトの呼ぶ声。
「閣下、お履き物を」
振り返ると、元夫が砂利の上を走ってくるところだった。
寝間着のまま、額に包帯を巻いたまま。裸足だった。
わたしは踏み台に片足をかけたまま、動けなかった。
元夫はわたしの前で止まった。息が上がっている。ゆうべは寝台から起き上がるのもやっとだった人が、屋敷の端から門まで走ってきたのだ。
「間に合った」
「閣下」
「ベルンハルトに聞いた。もう、受理されたんだろう」
「はい。今朝」
「そうか」
元夫は膝に手をついて、息を整えた。
砂利の上の足に、細い血の筋が見える。
「目が覚めたら、屋敷がやけに静かだった。ベルンハルトが、鍵束を持ったまま窓の外を見ていて。それで」
「閣下、足が」
「足」
元夫は自分の足を見下ろして、初めて血に気づいた顔をした。それから、どうでもいいというように首を振った。
「いい。それより、聞きたいことがある」
元夫が顔を上げる。
包帯の下の灰色の目が、昨夜よりずっとはっきりしていた。
「離縁したなら、俺はいま君の夫じゃない。ただの男として、求婚してもいいだろうか」




