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旦那様が記憶喪失になったので、ちょうどいいから離縁します  作者: 九葉(くずは)


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3/10

本日をもって

「受理の前に、一通お預かりしている書状がございます」


大聖堂の婚姻登記所は、朝の鐘が鳴ってすぐに窓口を開ける。


わたしは一番に並んだ。すぐ後ろには、婚姻の届けを出しに来たらしい若い二人が並んでいて、どちらの名前を先に書くかで小声で揉めていた。


わたしの番が来て、離縁届を差し出した。灰色の法衣を着た登記官は、書式に目を通してから、机の引き出しを開ける。


出てきたのは、見覚えのある封筒だった。公爵家の紋の入った、薄紫の封筒。封蝋には、先代の奥様の私印が押してある。


「今朝早く、ヴェルナー公爵家の使いの方がお持ちになりました。閣下は昨日頭を打たれて、ご記憶が混乱しておいでである。昨夜の署名は正気のものではないので、受理を差し止めていただきたい、と」


「差出人は」


「先代公爵夫人のお名前になっております。ただ」


登記官は封筒を裏返して、宛名の筆跡を指でなぞった。


「使いの方は、東棟のご婦人からだとおっしゃっていました」


先代の奥様は、まだ侯爵家の夜会から戻っていない。夜のうちに使いを出して、明け方に返事をもらって、ここへ届けさせた。そういう段取りには、ずいぶん手際がいい人たちだと思う。屋敷の支払いの段取りには、三年間一度も手を出さなかったけれど。


「ご心配には及びません」


わたしは手提げから、もう一枚紙を出した。


「昨夜、閣下を診た医師の書付です。頭の傷によって、直近五年ほどの記憶を失っておいでである。ただし、ものの道理を判じる力には障りがない。署名は本人の意思によるものと認める」


登記官は書付を読み、医師の署名と印を確かめる。


「念のため伺いますが、この書付はいつ」


「昨夜、閣下が署名なさった直後に。医師がまだ屋敷におりましたので、お願いしました」


東棟に呼ばれていた二人目の医師だった。クラリス様の枕元から、わたしが呼び戻した。


登記官は薄紫の封筒を、もう一度だけ見た。


「先代の公爵夫人は、当代の閣下の婚姻について、差し止めを申し立てるお立場にありません。東棟のご婦人も、同様です」


それから、机の上の判を取る。


判が紙に押される音は、思っていたより小さかった。


「本日をもって、ヴェルナー公爵ユリウス閣下と、ご夫人の婚姻は解消されました。旧姓にお戻りになりますね」


「はい」


登記官は台帳に何かを書き込み、顔を上げた。


「では、ミレイユ・ハースト様。こちらに受領の署名を」


三年ぶりだった。人の口から、自分の名前を聞くのは。


後ろに並んでいた若い二人の片方が、きれいな名前、と小さく言うのが聞こえた。


ペンを受け取る手が、少しだけもたついた。


屋敷に戻ると、玄関広間に使用人たちが集まっていた。


誰が知らせたのかは分からない。侍女たちは壁際に並んで、わたしの顔を見ないようにしている。家令のベルンハルトだけが、広間の真ん中に立っていた。


「お帰りなさいませ」


「ただいま戻りました。荷物をまとめたら、すぐに出ます」


「馬車は、ハースト家から迎えが来ております。門の外に」


夜明け前に実家へ出した手紙が、もう届いたらしい。父は昔から、娘の手紙にだけは返事が早い。


「ベルンハルト。いくつか、お伝えしておくことがあります」


「伺います」


わたしは手提げから鍵束を出した。帳簿の部屋と、金庫と、食料庫の鍵。三年間、わたしの腰から離れたことのない重さだった。


「帳簿はすべて、書斎の棚の二段目にあります。今月の分まで締めてあります」


「承知いたしました」


「それから、皆さんのお給金のことですが」


壁際の侍女たちが、そろって顔を上げた。


「この三年、お給金はわたしの持参金から出しておりました。公爵家の金庫は、借金の返済で空でしたので。それも今日で終わりです。来月からは、公爵家の金庫からお受け取りください」


広間が静まり返る。


侍女の一人が、隣の侍女の袖をつかむのが見えた。昨日、クラリス様のお部屋へ真っ先に走っていった子だった。


「金庫には」


ベルンハルトが、声を落として言った。


「今月分の、三分の一もございません」


「存じております。わたしが数えましたので」


「薪と小麦は」


「ハースト商会との取引は、今日の日付で終わります。明日からの分は、市場でお求めください。冬の相場は、秋の倍になります」


それだけ言うと、わたしは鍵束をベルンハルトの手のひらに載せる。


年老いた家令は、鍵の重さを確かめるように一度だけ手を握って、深く頭を下げた。


「三年間、お世話になりました。奥様」


「もう奥様ではありませんよ」


「存じております。ですが、今日までは」


わたしはそれ以上何も言わずに、北棟へ上がった。


階段の途中で、侍女長に呼び止められる。


嫁いできた最初の晩、わたしを北棟の端へ案内した人だった。


「奥様、せめて先代の奥様がお戻りになるまで、お待ちいただけませんか。お給金のことも、そのときに改めて」


「お給金のことでしたら、先代の奥様にご相談ください」


「ですが」


「わたしにはもう、この家のことを決める立場がありませんので」


侍女長はそれ以上言えずに、階段の手すりをつかんだまま立っていた。三年前、この人はわたしの顔を見ずに、閣下のご指示ですと言った。今日は、わたしの顔から目を離さない。


荷物は嫁いできたときの長持ちが一つと、鞄が一つだけだった。三年いても、増えたものはほとんどない。机の引き出しから手紙の束を出して、鞄の一番上に入れた。麻紐は、ほどかないまま。


それから、左手の指輪を外した。


三年間、一度も外さなかった指輪だった。夫のほうは討伐のたびに外していたけれど。机の上に置くと、小さな音がした。拾いに来る人がいるかどうかは、知らない。


玄関を出るとき、東棟の二階の窓で、カーテンが揺れた。


わたしは振り返らなかった。


門までの道は、砂利が敷いてある。


ハースト家の馬車の前で、御者が帽子を取った。お嬢様、と呼ばれた。わたしは頷いて、踏み台に足をかけた。


そのとき、背後で扉が乱暴に開く音。続いて、侍女たちの悲鳴と、ベルンハルトの呼ぶ声。


「閣下、お履き物を」


振り返ると、元夫が砂利の上を走ってくるところだった。


寝間着のまま、額に包帯を巻いたまま。裸足だった。


わたしは踏み台に片足をかけたまま、動けなかった。


元夫はわたしの前で止まった。息が上がっている。ゆうべは寝台から起き上がるのもやっとだった人が、屋敷の端から門まで走ってきたのだ。


「間に合った」


「閣下」


「ベルンハルトに聞いた。もう、受理されたんだろう」


「はい。今朝」


「そうか」


元夫は膝に手をついて、息を整えた。


砂利の上の足に、細い血の筋が見える。


「目が覚めたら、屋敷がやけに静かだった。ベルンハルトが、鍵束を持ったまま窓の外を見ていて。それで」


「閣下、足が」


「足」


元夫は自分の足を見下ろして、初めて血に気づいた顔をした。それから、どうでもいいというように首を振った。


「いい。それより、聞きたいことがある」


元夫が顔を上げる。


包帯の下の灰色の目が、昨夜よりずっとはっきりしていた。


「離縁したなら、俺はいま君の夫じゃない。ただの男として、求婚してもいいだろうか」

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