それは、ひどい男だな
「離縁届」
夫は紙の一番上の文字を、声に出して読んだ。
差し出したペンは、受け取られないまま宙に浮いている。わたしはそれを引っ込めて、インク壺の縁に置いた。急がせるつもりはない。一年待ったのだから、あと少しくらいは待てる。
「君の署名が、もう入っている」
「はい」
「日付が、去年だ」
「はい」
「去年、これを俺に見せたのか」
「はい」
「俺は、何と」
「それも、お尋ねになるならお話しします」
夫は紙から目を上げた。灯りがひとつしかないので、顔の半分が暗い。
「理由を、聞いてもいいだろうか。覚えていない男に言っても仕方がないのは分かっている。でも、何も知らずに名前を書くのは、君に失礼な気がする」
失礼。
この人の口からその言葉を聞くのは初めてだった。
「では、お尋ねになったことにだけお答えします」
「俺は、君に何をした」
「婚礼の晩、わたしの部屋にお越しになりませんでした」
夫の眉が動いた。
「それは、何か事情が」
「翌朝は、東棟で朝食を召し上がっていたそうです」
「東棟」
「クラリス様のお部屋がございます」
「君の部屋は」
「北棟の端です」
夫は眉を寄せて、しばらく考えている。
「北棟の端は、昔、乳母が使っていた部屋だ。俺が子どもの頃に、もう物置になっていた」
「今は、わたしが使っております」
夫は今度こそ黙った。黙ったまま、目で続きを促した。
「半年ほどして、王宮の夜会に一度だけ連れて行っていただきました。旦那様はわたしを、皆さまに、金で買った妻だとご紹介になりました」
あの晩のことは、よく覚えていない。渡された葡萄酒の杯を、ぬるくなるまで持っていたことだけ覚えている。
「俺が」
「一年前、この離縁届をお持ちしたときには、置物は置物らしく黙って飾られていろ、と」
「……」
「婚礼の晩にお渡しした手紙のお返事は、まだいただいておりません」
便箋三枚の手紙だった。どうぞよろしくお願いします、と書いた。好きな食べ物と、冬が苦手なことも書いた。今思い出しても、顔から火が出る。
わたしが口をつぐむと、部屋の中は暖炉のはぜる音だけになった。
並べてみると、どれも短い。三年分を話しても、一分もかからなかった。
夫は上掛けの上で、はめたばかりの指輪を親指でなぞっている。
「それは」
しばらくして、夫が言った。
「それは、ひどい男だな」
他人の噂を聞いたような声。
わたしもそう思います、とは言わなかった。
それから、自分の言ったことに遅れて気づいた顔になって、夫は指輪から手を離した。
「俺か」
「はい」
「いや、待ってくれ。疑うわけじゃない。ただ、俺は」
夫は言葉を探して、見つからないまま首を振る。
「俺がそこまでするとは、どうしても思えない。何か行き違いがあったんじゃないか。君の言うことが大げさだと言いたいわけじゃなくて」
「事実です、団長」
扉のほうから声がした。
戸口に、レーン卿が立っていた。片手に鞘ごとの剣を提げている。討伐の場に残された夫の剣を、届けに来たのだろう。
「立ち聞きをするつもりはありませんでした。お詫びします」
レーン卿はわたしに向かって一度頭を下げ、それから寝台の夫を見た。
「金で買った妻だと紹介なさった夜会に、私もおりました。団長のすぐ後ろに」
「お前は、止めなかったのか」
「お止めしました。二度」
レーン卿は、それ以上のことを言わなかった。二度目に何と言われたのかも。
「レーン」
夫は副団長の名を呼んで、それきり何も言えなくなった。二十歳の記憶の中にも、この人はいるらしい。
「奥様はあの晩、最後まで笑っておいででした。私が申し上げられるのは、それだけです」
レーン卿は剣を壁に立てかけると、もう一歩も部屋に入らずに下がった。
笑っていたのなら、笑うしかなかったのだと思う。
廊下の向こうで、足音が近づいてきた。
軽い足音。走っている。
「ユリウス」
レーン卿と入れ違いに、クラリス様が部屋に飛び込んできた。
寝間着の上にショールを羽織って、金色の髪を下ろしたまま。
「目が覚めたのね。よかった。本当によかった」
クラリス様は寝台に駆け寄ると、わたしの前に割り込むようにして夫の手を取った。
「こんな夜更けに、何のご用かしら。怪我人を休ませてあげて」
それだけは、わたしに言った。
小卓の上の紙に、クラリス様の目が落ちた。
教会の書式は、遠目にもそれと分かる。表題を読んだとき、クラリス様の口元がほんの少しゆるんだのを、わたしは見た。すぐに消えたけれど、見た。
夫はクラリス様の顔を、じっと見上げている。
「クラリス」
「ええ、わたしよ」
「君は、ダントン家に嫁いだはずだろう。去年の春に」
クラリス様の手が止まった。
「……ユリウス、それはもう六年も前のことよ。夫は亡くなったの。あなたが、ここにいていいって言ってくれたんじゃない」
「俺が」
今夜、この人はその言葉を何度口にしただろう。
夫の目が、クラリス様の胸元で止まった。
ショールの合わせ目を、銀の台に青い石を嵌めたブローチが留めている。
「そのブローチ」
「これ? あなたがくれたのよ。似合うって」
「祖母の形見だ」
夫の声が、低くなる。
「この家の公爵夫人が、代々つけてきたものだ。母上も婚礼の日につけていた。どうして君が持っている」
クラリス様は答えなかった。答える代わりに、ショールの前をかき合わせた。
夫が、わたしを見た。
わたしの襟元には何もない。そのブローチを、わたしはクラリス様の胸でしか見たことがない。嫁いだ最初の冬に、侍女長にそっと聞いたことがある。あれはどういう品なのかと。侍女長は答えてくれなかった。今夜、知った。
「ユリウス、聞いて」
クラリス様が夫の腕にすがる。
「この人に何を吹き込まれたのか知らないけれど、全部でたらめよ。この人はね、お金で公爵家を」
「クラリス」
夫は腕を引いた。乱暴ではなかったけれど、はっきりと。
「少し、黙っていてくれないか」
クラリス様の顔から、表情が抜け落ちた。
わたしはそれを見ても、何も感じない。
クラリス様はショールを握りしめて寝台を離れ、わたしの横を通り過ぎるとき、足を止めた。
「満足?」
「お休みなさいませ、クラリス様」
わたしは膝を折って見送った。この三年、朝夕に何百回もしてきたのと同じ礼で。
扉が閉まると、部屋にはまた暖炉の音だけが戻った。
「ひとつだけ、聞いてもいいか」
夫が言った。
「君は、そんな扱いを受けて、どうして三年もこの家にいてくれたんだ」
「借金の証文が、まだ半分残っておりましたので」
「借金」
「公爵家の借金です。わたしの持参金と、実家の商会からの融資で、少しずつお返ししてきました。先月、最後の一枚が戻ってまいりました」
だから、ちょうどよかったのだ。今夜でなくても、わたしは来月にはこの紙を持って、もう一度書斎の扉を叩くつもりでいた。
夫はインク壺の縁からペンを取り上げた。
左手の指輪が、灯りを弾いた。
「署名する。そんな男の妻でいさせるわけにはいかない」




