↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
旦那様が記憶喪失になったので、ちょうどいいから離縁します  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/10

置物の妻

「きれいな人だ。……すまない、名前を教えてくれないか」


寝台の上で、夫がわたしを見ていた。


包帯の巻かれた額の下で、灰色の目が困ったように動いている。


三年。


この人の妻になって三年、わたしは一度も名前で呼ばれたことがない。


「閣下」


医師が慌てて寝台に身をかがめた。


「こちらは奥方様でございます。お分かりになりませんか」


「奥方」


夫は医師の顔を見て、それからもう一度わたしを見た。


「俺は、結婚しているのか」


部屋の隅で、侍女が二人、顔を見合わせた。


わたしは寝台の脇に立っている。袖口のインクの染みを拭くのも忘れて。


知らせが屋敷に届いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。


北の谷で魔獣討伐にあたっていた騎士団長が、落馬して頭を打った。命に別状はないが、目を覚まさない。


使いの騎士が玄関でそう告げると、侍女たちはその知らせを抱えて東棟へ走った。クラリス様のお部屋がある方へ。


わたしがそれを聞いたのは、担架が屋敷に運び込まれたあとだった。


帳簿の部屋で冬の薪の見積もりを見ていたわたしのところへ、泥のついた外套のまま来てくれたのは、副団長のレーン卿だった。


「奥様。お怪我は団長お一人です。部下は全員、無事に戻りました」


騎士団の人間で、わたしを奥様と呼ぶのはこの人だけだ。


玄関広間に下りると、担架はもう階段の下に置かれていた。


夫の顔は土気色で、額に巻いた布には血がにじんでいる。レーン卿は担架の脇に膝をついて、夫の手首に指を当てていた。そのあいだ、誰も夫の手を握ろうとはしなかったし、わたしも握らなかった。


握ったことが、一度もなかったので。


「閣下は頭を強く打っておられます」


医師が言った。


「こうしたことは、ままございます。ここ数年のことが、すっぽり抜け落ちてしまう」


「数年」


「閣下、お歳を伺っても」


夫は少し考えた。


「二十だ。違うのか」


医師がわたしを見た。わたしは首を横に振る。


夫は二十五になる。爵位を継いで五年、わたしと結婚して三年。その五年分が、きれいに消えたらしい。


「戻りますか」


自分の声が思っていたより平らだったので、医師のほうが戸惑った顔をした。


「分かりません。明日戻る方もいれば、生涯そのままの方もおられます」


「そうですか」


わたしが頷くと、夫が寝台の上で身じろぎした。


「すまない」


「何がでしょう」


「妻の顔を忘れるなんて、どう詫びればいいのか分からない。君はきっと、ずいぶん心配してくれたんだろう」


心配。


わたしは寝台の脇の小卓に目を落とした。水差しと、医師の置いた薬包と、夫の指輪。


討伐に出るとき、この人はいつも結婚指輪を外していく。剣の柄に当たって邪魔だから、と言っていた。


指輪の内側には、わたしの名前が彫ってある。この人がそれを読んだことは、たぶんない。


「旦那様が、お詫びになる必要はありません」


「しかし」


「お疲れでしょう。今日はお休みください」


扉のほうへ下がろうとしたわたしを、夫の声が引き止めた。


「待ってくれ。君の名前を、まだ聞いていない」


侍女たちがまたわたしを見た。医師も。戸口に控えていたレーン卿だけが、目を伏せていた。


わたしは寝台に向き直って、膝を折った。


「公爵夫人、とお呼びください」


「……え」


「この三年、旦那様はずっとそうお呼びでしたから」


夫は何か言いかけて、やめた。


廊下に出たところで、侍女の一人に呼び止められる。


「奥様、クラリス様にも、閣下がお目覚めになったとお知らせしますか」


「あなたたちの好きになさい」


侍女は困った顔のまま頭を下げた。わたしに聞くまでもなく、もう誰かが走っているはずだ。


階段の下で、レーン卿が待っていた。外套は脱いでいたが、長靴にはまだ谷の泥がこびりついている。


「私がついていながら、申し訳ありません」


「レーン卿が連れて帰ってくださったのでしょう。お礼を言うのはこちらです」


「何か、お手伝いできることはありますか」


「いいえ。大丈夫です」


彼はそれ以上何も言わずに、踵を返した。泥の跡が玄関まで点々と続いていた。


わたしの部屋は北棟の端にある。


嫁いできた最初の晩、案内してくれた侍女長は申し訳なさそうに、閣下のご指示ですと言った。


東棟の南向きの部屋には、そのときからクラリス様が住んでいる。閣下の幼馴染で、ご主人を亡くされたお気の毒な方で、先代の奥様のお話し相手。そういうことになっている。


婚礼の晩、わたしはその部屋で蝋燭を一本立てて、夫を待った。


蝋燭が燃え尽きても、扉は叩かれなかった。


翌朝、髪を結いに来た侍女が教えてくれた。閣下は東棟で朝食を召し上がっておいでです、と。わたしに教えたというより、知らないのはわたしだけだったので、仕方なく口にしたという顔だった。


部屋に入って、暖炉に火を入れた。


薪はこの冬の分をもう数えてある。屋敷の予算を組んでいるのはわたしなので、どこを削れば誰が困るかもよく知っている。自分の部屋の分から削るのが、いちばん揉めない。


机の一番下の引き出しには鍵がかかっている。


鍵を回すと、紙の束が二つ出てきた。


上にあるのは離縁届だった。教会の書式で、わたしの署名も、立会人の欄も、日付も埋めてある。日付は一年前のものだ。空いているのは、夫の署名欄だけ。


一年前、わたしはこれを持って夫の書斎へ行った。


夫は書類から目も上げずに言った。


「離縁? 公爵家の名に泥を塗る気か」


それから、ようやく顔を上げて、こう続けた。


「置物は置物らしく、黙って飾られていろ。金はもう払ってもらった。君の役目はそれで終わっている」


あの日の書斎の、インクと煙草の匂いまで覚えている。


離縁届の下には、麻紐でくくった手紙の束がある。一番上の封筒には、角ばった字で「騎士団より 糧食の御礼」と書いてあった。


わたしは手紙の束には触れずに、離縁届だけを抜き出した。


医師の言葉を、頭の中でもう一度なぞる。


明日戻るかもしれない。生涯そのままかもしれない。


どちらにしても、今あの寝台にいるのは、わたしを置物だと言ったことを覚えていない人だ。わたしの持参金で埋めた借金のことも、クラリス様がこの三年、夫の耳に何を吹き込んできたのかも、覚えていない人。


ちょうどいい、と思った。


思ってから、少しだけ自分に驚いた。三年前のわたしなら、あの枕元で泣いていたと思う。


夜になってから、わたしはもう一度夫の部屋を訪ねた。


廊下の角で、燭台を持った家令のベルンハルトとすれ違った。


白髪の家令は、わたしの手の中の紙に目を留めた。教会の書式は、遠目にもそれと分かる。


彼は何も言わなかった。黙って先に立ち、夫の部屋の扉を開けて、わたしが通るまで押さえていてくれた。


先代の奥様は侯爵家の夜会に出ていて、戻るのは明後日になる。クラリス様は知らせを聞いて寝込んでしまわれたそうで、東棟には医師がもう一人呼ばれていた。


夫の部屋には、灯りがひとつだけ。


夫は起きていて、わたしが入ると慌てて背中を起こそうとした。


「そのままで」


「いや、起きる。さっきは悪かった。名前を聞くなんて、失礼だった」


「お気になさらず」


「気にする」


夫は膝の上の上掛けを握った。二十歳の頃のこの人は、こういう顔をしたのか。わたしの知っている夫は、何かを握りしめるような仕草をしない人だった。


「医師から聞いた。君がこの三年、屋敷のことをほとんど見てくれていたと」


「使用人たちがよく働いてくれますので」


「母上は」


「夜会においでです」


小卓の上の指輪に、夫が手を伸ばした。灯りにかざして、しばらく眺めている。


「これは、俺のか」


「旦那様のものです。討伐のときは、いつもお外しになります」


「どうして」


「剣の柄に当たるから、と」


夫は指輪を左手の薬指にはめて、右手で空の柄を握る形をつくった。


「当たらないな」


わたしは何も言わなかった。


夫は黙った。何かを数えているような沈黙。


「俺は、君にとって、いい夫だったか」


わたしは答えなかった。


答えずに、持ってきた紙を小卓に置いた。さっきまで指輪のあった場所に。それから、ペン先をインク壺に浸した。


「覚えていないのに、こんなことを言うのはおかしいかもしれない」


夫が言った。


「でも、君が妻なら、俺は何かしなければならないと思う。俺にできることは、何かあるだろうか」


インクが一滴、ペン先から壺の縁へ落ちる。


わたしはペンの向きを変えて、夫に差し出した。


「では旦那様、まずはこちらにご署名を」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。