置物の妻
「きれいな人だ。……すまない、名前を教えてくれないか」
寝台の上で、夫がわたしを見ていた。
包帯の巻かれた額の下で、灰色の目が困ったように動いている。
三年。
この人の妻になって三年、わたしは一度も名前で呼ばれたことがない。
「閣下」
医師が慌てて寝台に身をかがめた。
「こちらは奥方様でございます。お分かりになりませんか」
「奥方」
夫は医師の顔を見て、それからもう一度わたしを見た。
「俺は、結婚しているのか」
部屋の隅で、侍女が二人、顔を見合わせた。
わたしは寝台の脇に立っている。袖口のインクの染みを拭くのも忘れて。
知らせが屋敷に届いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
北の谷で魔獣討伐にあたっていた騎士団長が、落馬して頭を打った。命に別状はないが、目を覚まさない。
使いの騎士が玄関でそう告げると、侍女たちはその知らせを抱えて東棟へ走った。クラリス様のお部屋がある方へ。
わたしがそれを聞いたのは、担架が屋敷に運び込まれたあとだった。
帳簿の部屋で冬の薪の見積もりを見ていたわたしのところへ、泥のついた外套のまま来てくれたのは、副団長のレーン卿だった。
「奥様。お怪我は団長お一人です。部下は全員、無事に戻りました」
騎士団の人間で、わたしを奥様と呼ぶのはこの人だけだ。
玄関広間に下りると、担架はもう階段の下に置かれていた。
夫の顔は土気色で、額に巻いた布には血がにじんでいる。レーン卿は担架の脇に膝をついて、夫の手首に指を当てていた。そのあいだ、誰も夫の手を握ろうとはしなかったし、わたしも握らなかった。
握ったことが、一度もなかったので。
「閣下は頭を強く打っておられます」
医師が言った。
「こうしたことは、ままございます。ここ数年のことが、すっぽり抜け落ちてしまう」
「数年」
「閣下、お歳を伺っても」
夫は少し考えた。
「二十だ。違うのか」
医師がわたしを見た。わたしは首を横に振る。
夫は二十五になる。爵位を継いで五年、わたしと結婚して三年。その五年分が、きれいに消えたらしい。
「戻りますか」
自分の声が思っていたより平らだったので、医師のほうが戸惑った顔をした。
「分かりません。明日戻る方もいれば、生涯そのままの方もおられます」
「そうですか」
わたしが頷くと、夫が寝台の上で身じろぎした。
「すまない」
「何がでしょう」
「妻の顔を忘れるなんて、どう詫びればいいのか分からない。君はきっと、ずいぶん心配してくれたんだろう」
心配。
わたしは寝台の脇の小卓に目を落とした。水差しと、医師の置いた薬包と、夫の指輪。
討伐に出るとき、この人はいつも結婚指輪を外していく。剣の柄に当たって邪魔だから、と言っていた。
指輪の内側には、わたしの名前が彫ってある。この人がそれを読んだことは、たぶんない。
「旦那様が、お詫びになる必要はありません」
「しかし」
「お疲れでしょう。今日はお休みください」
扉のほうへ下がろうとしたわたしを、夫の声が引き止めた。
「待ってくれ。君の名前を、まだ聞いていない」
侍女たちがまたわたしを見た。医師も。戸口に控えていたレーン卿だけが、目を伏せていた。
わたしは寝台に向き直って、膝を折った。
「公爵夫人、とお呼びください」
「……え」
「この三年、旦那様はずっとそうお呼びでしたから」
夫は何か言いかけて、やめた。
廊下に出たところで、侍女の一人に呼び止められる。
「奥様、クラリス様にも、閣下がお目覚めになったとお知らせしますか」
「あなたたちの好きになさい」
侍女は困った顔のまま頭を下げた。わたしに聞くまでもなく、もう誰かが走っているはずだ。
階段の下で、レーン卿が待っていた。外套は脱いでいたが、長靴にはまだ谷の泥がこびりついている。
「私がついていながら、申し訳ありません」
「レーン卿が連れて帰ってくださったのでしょう。お礼を言うのはこちらです」
「何か、お手伝いできることはありますか」
「いいえ。大丈夫です」
彼はそれ以上何も言わずに、踵を返した。泥の跡が玄関まで点々と続いていた。
わたしの部屋は北棟の端にある。
嫁いできた最初の晩、案内してくれた侍女長は申し訳なさそうに、閣下のご指示ですと言った。
東棟の南向きの部屋には、そのときからクラリス様が住んでいる。閣下の幼馴染で、ご主人を亡くされたお気の毒な方で、先代の奥様のお話し相手。そういうことになっている。
婚礼の晩、わたしはその部屋で蝋燭を一本立てて、夫を待った。
蝋燭が燃え尽きても、扉は叩かれなかった。
翌朝、髪を結いに来た侍女が教えてくれた。閣下は東棟で朝食を召し上がっておいでです、と。わたしに教えたというより、知らないのはわたしだけだったので、仕方なく口にしたという顔だった。
部屋に入って、暖炉に火を入れた。
薪はこの冬の分をもう数えてある。屋敷の予算を組んでいるのはわたしなので、どこを削れば誰が困るかもよく知っている。自分の部屋の分から削るのが、いちばん揉めない。
机の一番下の引き出しには鍵がかかっている。
鍵を回すと、紙の束が二つ出てきた。
上にあるのは離縁届だった。教会の書式で、わたしの署名も、立会人の欄も、日付も埋めてある。日付は一年前のものだ。空いているのは、夫の署名欄だけ。
一年前、わたしはこれを持って夫の書斎へ行った。
夫は書類から目も上げずに言った。
「離縁? 公爵家の名に泥を塗る気か」
それから、ようやく顔を上げて、こう続けた。
「置物は置物らしく、黙って飾られていろ。金はもう払ってもらった。君の役目はそれで終わっている」
あの日の書斎の、インクと煙草の匂いまで覚えている。
離縁届の下には、麻紐でくくった手紙の束がある。一番上の封筒には、角ばった字で「騎士団より 糧食の御礼」と書いてあった。
わたしは手紙の束には触れずに、離縁届だけを抜き出した。
医師の言葉を、頭の中でもう一度なぞる。
明日戻るかもしれない。生涯そのままかもしれない。
どちらにしても、今あの寝台にいるのは、わたしを置物だと言ったことを覚えていない人だ。わたしの持参金で埋めた借金のことも、クラリス様がこの三年、夫の耳に何を吹き込んできたのかも、覚えていない人。
ちょうどいい、と思った。
思ってから、少しだけ自分に驚いた。三年前のわたしなら、あの枕元で泣いていたと思う。
夜になってから、わたしはもう一度夫の部屋を訪ねた。
廊下の角で、燭台を持った家令のベルンハルトとすれ違った。
白髪の家令は、わたしの手の中の紙に目を留めた。教会の書式は、遠目にもそれと分かる。
彼は何も言わなかった。黙って先に立ち、夫の部屋の扉を開けて、わたしが通るまで押さえていてくれた。
先代の奥様は侯爵家の夜会に出ていて、戻るのは明後日になる。クラリス様は知らせを聞いて寝込んでしまわれたそうで、東棟には医師がもう一人呼ばれていた。
夫の部屋には、灯りがひとつだけ。
夫は起きていて、わたしが入ると慌てて背中を起こそうとした。
「そのままで」
「いや、起きる。さっきは悪かった。名前を聞くなんて、失礼だった」
「お気になさらず」
「気にする」
夫は膝の上の上掛けを握った。二十歳の頃のこの人は、こういう顔をしたのか。わたしの知っている夫は、何かを握りしめるような仕草をしない人だった。
「医師から聞いた。君がこの三年、屋敷のことをほとんど見てくれていたと」
「使用人たちがよく働いてくれますので」
「母上は」
「夜会においでです」
小卓の上の指輪に、夫が手を伸ばした。灯りにかざして、しばらく眺めている。
「これは、俺のか」
「旦那様のものです。討伐のときは、いつもお外しになります」
「どうして」
「剣の柄に当たるから、と」
夫は指輪を左手の薬指にはめて、右手で空の柄を握る形をつくった。
「当たらないな」
わたしは何も言わなかった。
夫は黙った。何かを数えているような沈黙。
「俺は、君にとって、いい夫だったか」
わたしは答えなかった。
答えずに、持ってきた紙を小卓に置いた。さっきまで指輪のあった場所に。それから、ペン先をインク壺に浸した。
「覚えていないのに、こんなことを言うのはおかしいかもしれない」
夫が言った。
「でも、君が妻なら、俺は何かしなければならないと思う。俺にできることは、何かあるだろうか」
インクが一滴、ペン先から壺の縁へ落ちる。
わたしはペンの向きを変えて、夫に差し出した。
「では旦那様、まずはこちらにご署名を」




