呼んでもいいですか
「契約の相手方のお名前は、閣下がご自分でお書きになりました」
ベルンハルトはそう言って、騎士団の詰所から戻ってきた契約書を、わたしの机に置いた。
冬の糧食の、正式な契約書だった。騎士団と、ハースト商会との。一番下に、騎士団長の署名がある。それから、本文の最初の行。契約の相手方、と書かれた欄。
ハースト商会代表、ミレイユ・ハースト。
書記官の字ではなかった。
一字ずつ、ゆっくり書いてある。三年間、書類の署名欄でしか見たことのなかった、あの殴り書きの字ではない。
「書記官が空けておいた欄に、閣下がご自分で書き入れられたそうです。書き損じて、二枚、紙を無駄にされたと」
「そう」
「それから、閣下は年明けに団長の職を辞されるそうです。王都のお屋敷も手放して、領地へ移られると」
「北棟の端の部屋は」
「壁を塗り直して、物置に戻したそうです。取り壊すのは、おやめになったと」
ベルンハルトは、そこで少しだけ言葉を切った。
「ご伝言は、ございません。お尋ねしましたが、何もないとおっしゃいました」
わたしは契約書をもう一度見た。
自分の名前が、元夫の字で書いてある。元夫がわたしの名前を書くことは、たぶん、これが最初で最後になる。
「ありがとう、ベルンハルト」
わたしは契約書を畳んで、ほかの商会との契約書と同じ棚に、同じようにしまった。
その晩、店を閉めてから、帳場の机の引き出しを開けた。
麻紐でくくった束を、机の上に出す。
結び目は固くなっていた。爪を立てて、少しずつゆるめた。
一番下にあるのが、一通目だった。
封筒の紙は少し黄ばんでいる。嫁いで最初の冬、北の砦から届いたものだ。
今冬の小麦は、兵のあいだで評判です。石のようなパンを食わずに済んでおります。どなたが手配してくださったのか存じませんが、公爵家の奥様に御礼を申し上げます。
その下に、角ばった字の署名。
二通目も、三通目も、読んだ。遠征から戻るたびに届いた短い手紙。砦の井戸が凍ったこと。見張りの兵が蜂蜜菓子を取り合って喧嘩をしたこと。雪の中で、誰かが歌を歌ったこと。十二通目には、砦で生まれた栗毛の仔馬に、兵たちが勝手に小麦と名前をつけたと書いてあった。どれも、糧食の礼のついでのように書いてあった。
わたしの返事は、いつも短かった。お役に立てて何よりです。次の遠征も、どうぞご無事で。二十三回、ほとんど同じ文句を書いた。公爵家の奥様らしい、角の立たない文句を。
それを、あの人は砦で読むのが楽しみだったと言った。
二十三通目は、北の谷へ発つ五日前に届いたものだった。次の遠征は北の谷です。戻りましたら、今年の蜂蜜菓子の御礼を、兵に代わって申し上げます。そう書いてあった。あの人が元夫を担いで戻ってきたのは、それから半月ほど後のことだった。蜂蜜菓子の礼は、まだ聞いていない。
二十三通を読み終えると、夜はずいぶん更けている。
わたしは二十四通目の封筒を束の一番上に置いて、麻紐を結ばずに、そのまま引き出しに戻した。
帳場の奥から、父が出てきた。
手に、火を入れた角灯を提げている。
「夜明け前は、西門まで馬車で四半刻だ。御者には言ってある」
「まだ、何も申しておりません」
「独り言だ」
父は角灯を机の端に置いて、奥へ戻りかけてから、足を止めた。
「外套は、厚いほうにしなさい」
それも独り言だ、とは言わずに、父は今度こそ奥へ戻っていった。
夜明け前の馬車の窓は、わたしの息ですぐに曇った。指で拭くと、また曇る。西門に着くまで、何度もそれを繰り返した。
西門の石畳には、霜が降りていた。
空の端が、ようやく白くなり始めたところだった。門の前には騎士たちが二十人ほど集まって、馬の腹帯を締めたり、荷を確かめたりしている。吐く息が、人も馬も白い。
わたしは馬車を降りて、外套の前をかき合わせた。
冬は、昔から苦手だ。
レーン卿は、列の一番後ろで自分の馬の蹄を見ていた。まだ若い、栗毛の馬だった。
顔を上げて、わたしに気づいて、それから、しばらく動かない。
「ハースト嬢」
「おはようございます、レーン卿」
「どうして」
「お手紙をいただきましたので」
「お返事は要らないと」
「はい。ですから、お返事は持ってきておりません」
「砦は、寒いのでしょうね」
「冬は、井戸が凍ります」
「存じております。三通目に、そう書いてありました」
レーン卿が、わたしの顔を見た。
「全部、読んでくださっていたのですか」
「二十三通とも。ゆうべ、もう一度」
彼は何か言おうとして、白い息だけを吐いた。
栗毛の馬が、鼻先でレーン卿の肩を押した。
「その子が、小麦ですか」
「……はい。十二通目の」
そばにいた若い従士が、わたしとレーン卿の顔を見比べて、口の端を持ち上げる。年嵩の騎士が、その従士の頭を後ろから軽くはたいて、向こうを向かせた。
風が吹いて、わたしは外套の襟を押さえる。レーン卿は何も言わずに、風の来るほうへ半歩だけ動いた。
「転属は、ご自分で願い出られたのですか」
「はい。団長は、何もおっしゃらずに判を押してくださいました」
「どうして、と伺ってもよろしいですか」
レーン卿は、門の上の空を見上げる。
「団長の下にいるあいだは、団長の奥様だった方に、会いに行くわけにはいきませんでした」
それだけ言って、彼はわたしに目を戻した。
「砦へ行けば、団長の部下ではなくなります。そのあとで、手紙を書くつもりでした。三年、そうしてきましたので。お返事をいただけるなら、何年でも待てると思っていました。今日、ここへ来てくださるとは思っていませんでした」
門の鎖が、音を立てて巻き上げられ始める。騎士たちが、次々に馬にまたがっていく。
レーン卿は手綱を取ったまま、まだ馬に乗らなかった。
「一つだけ、お尋ねしてもいいですか」
「はい」
「二十三通、あなたに手紙を書きました。宛名はいつも、公爵家の奥様でした。二十四通目は、ハースト嬢と書きました」
東の空に、日の縁がのぞいた。霜の上に、門の影が長く伸びる。
「三年間、一度もお呼びしたことのない呼び方があります」
レーン卿は、手袋をはめた手で手綱を握り直した。
「お名前で、お呼びしてもいいですか」
前の列から、レーン、出るぞ、と呼ぶ声がした。彼は振り返らない。
門の鎖が、最後まで巻き上がって止まった。
騎士たちの馬が、白い息を吐いている。わたしは外套の襟から手を離して、まっすぐに彼を見た。
名前を教えてくれと言われたことは、ある。呼んでもいいかと訊かれたのは、はじめてだった。
「はい。ミレイユと呼んでください。オスカー」




