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第三話 家族との別れ


 王都邸の朝は、少しだけ慌ただしかった。

 廊下を行き交う使用人たちの足音。

 木箱を運ぶ音。

 玄関では馬車の準備が進み、庭では御者が馬へ声を掛けている。

 屋敷そのものは昨日と変わらない。

 けれど、人の動きだけが違っていた。


 父たちは今日、辺境へ戻る。

 私はもう一度、自分の部屋を見回した。

 本棚。

 机。

 窓辺の花。

 幼い頃から使っている文箱。

 どれも王都で暮らすために整えられた部屋だった。

 けれど、不思議と名残惜しさはなかった。


 私は机の引き出しを開ける。

 そこには数冊の帳簿と、父から譲られた小さな方位磁針。

 そして昨夜受け取った紹介状。

 藍色の封蝋は、まだ固く閉じられたままだ。

 私は紹介状を革の書類入れへ丁寧にしまう。


 その横へ、愛用の万年筆と、小さな手帳も入れた。

 辺境では何か気付くたび、よく書き留めていたものだ。

 癖になっている。

「……何を書きましょう。」

 思わず独り言が漏れた。

 昨日までなら。

 夜会の予定。

 王妃教育。

 社交界の日程。

 そんなことを書いていただろう。


 今日からは違う。

 何を書くことになるのか、自分でも分からない。

 その時、小さく扉が叩かれた。

「お嬢様。」

 アンナだった。


「お時間でございます。」

「ありがとう。」

 私は頷き、書類入れを手に取る。

 思っていたより軽い。

 ドレスばかりが並んでいた衣装棚も、今日は半分ほど空になっていた。


 仕事着が必要になるかもしれない。

 そう思って、動きやすそうな服だけを数着残した。

 侍女たちは少し不思議そうな顔をしていたが、何も聞かなかった。

 部屋を出る前に、もう一度だけ振り返る。


 陽の光が机を照らしている。

 昨日まで毎日見ていた景色だった。

「……お世話になりました。」

 誰へ向けた言葉でもなく、小さく呟く。

 そして私は静かに扉を閉めた。


 廊下では、父の笑い声が聞こえてくる。

 どうやら兄が荷物を持ちすぎて、父に「遠征じゃないんだぞ」と笑われているらしい。

 私は思わず口元を緩めた。

 昨日までと変わらない笑い声。

 それだけで、少しだけ安心した。



◇◇◇


 食堂では、朝食の片付けが始まっていた。

 昨夜までとは違い、今日は旅支度が優先らしい。

 使用人たちが慌ただしく木箱を運び、玄関では荷馬車へ荷物が積み込まれている。

 私は庭へ出た。

 父なら、きっとここにいる。


 案の定だった。

 父は腕を組み、馬車へ荷物を積む家臣たちを眺めている。

 手伝わないのですか、と一瞬思ったが、すぐに考え直した。


 父は全部見ている。

 誰が重い荷を持っているか。

 誰が疲れているか。

 誰が困っているか。

 だから最後に一番重い仕事だけ、自分で持っていく。

 辺境では、いつものことだった。


「父上。」

 私が声を掛けると、父は振り返った。

「支度は終わったか。」

「はい。」

「そうか。」

 それだけだった。


 二人並んで庭を見る。

 春の風が吹き抜け、植え込みの若葉が小さく揺れている。

 しばらく誰も口を開かなかった。

 沈黙が苦にならないのは、父といる時くらいかもしれない。


「怖いか。」

 不意に父が尋ねた。

 私は少しだけ考えた。

「……少し。」

「そうだろうな。」

 父は笑わない。

 茶化さない。

 ただ頷く。


「私も初めて辺境へ赴任した日は怖かった。」

「父上でもですか。」

「当たり前だ。」

 父は肩をすくめた。


「熊は出るし、雪は降るし、橋は落ちる。」

「最後は父上のお仕事ではありませんか。」

「だから怖かった。」

 思わず笑ってしまう。

 父も少しだけ笑った。

 それだけで、庭の空気が少し柔らかくなる。


「オフィーリア。」

「はい。」

 父は私をまっすぐ見た。

「昨日、お前は王へ何と言った。」


「働く場所をください、と。」

「そうだ。」

 父は大きく頷く。

「立派だった。」

 私は目を瞬かせた。


「……立派、でしょうか。」

「立派だ。」

 父は迷わなかった。


「帰って来いと言えば、お前は帰ってきた。」

「新しい縁談を受けろと言えば、受けただろう。」

 私は何も言えない。

 たぶん、その通りだった。


「だが。」

 父は空を見上げる。

「お前は自分で道を選んだ。」

「それが一番難しい。」

 春の風が吹く。

 父の髪が少しだけ揺れた。


「覚えているか。」

「家訓だ。」

 私は自然と答えていた。


「誇りは働きで示せ。」

「うむ。」

 父は嬉しそうに頷く。

「爵位じゃない。」

「王妃になることでもない。」

「肩書きでもない。」

 一歩だけ私の方へ向き直る。


「ちゃんと働く人間は、どこへ行っても誇りを失わん。」

 その言葉は、辺境伯としてではなく。

 一人の父親としての言葉だった。

 私は胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。


 婚約は失った。

 未来も変わった。

 それでも。

 父が信じてくれている。

 それだけで、前を向ける気がした。


「行ってこい。」

 父は短く言う。

「はい。」

「そして。」

 父はいつもの笑顔に戻った。

「働いてこい。」

 私は笑って頷いた。


「はい、父上。」

 その返事は。

 昨日より少しだけ、力強くなっていた。



◇◇◇


 庭から屋敷へ戻ると、玄関では出発の支度がほとんど整っていた。

 木箱は荷馬車へ積み込まれ、使用人たちは最後の確認に追われている。

 そんな中で、母だけが少し離れた窓辺に立っていた。

 窓から庭を眺めながら、小さな旅行鞄を抱えている。


「お母様。」

 私が声を掛けると、母は振り返って微笑んだ。

「ちょうど良かった。」

「こちらへいらっしゃい。」

 私は母の隣へ立つ。


 窓の外では庭師が花壇へ水を撒いていた。

 春の日差しを受けて、水滴が小さく光る。


「昔。」

 母がぽつりと話し始めた。

「あなたが五つくらいの頃でしたか。」

「お庭へ出て、泥だらけになって帰ってきたことがありましたね。」

 思わず笑ってしまう。


「ありました。」

「侍女たちに、とても叱られました。」

「ええ。」

 母も笑う。

「でも、お父様だけは違いました。」

 二人で顔を見合わせる。


 父なら何と言ったか、すぐに思い出せた。

『ちゃんと転んだか。』

 それが第一声だった。


「転ばない子より。」

 母は懐かしそうに目を細める。

「転んでも立ち上がる子になりなさい、と。」


「よく言われました。」

「覚えていたのですね。」

「はい。」

 母は少しだけ嬉しそうだった。

 しばらく沈黙が流れる。


 玄関の向こうでは、兄がまた何か運ぼうとして父に止められている。

 聞こえてくる声だけで、その光景が目に浮かんだ。

 母は腕に抱えていた小さな鞄を開く。


「これを。」

 差し出されたのは、一つの裁縫箱だった。

 手のひらに乗るくらいの、小さな木箱。

 蓋には、辺境伯家の紋章ではなく、小さな野の花が彫られている。


「これは……。」

「私が嫁ぐ時に、祖母からいただいたものです。」

 私は驚いて母を見る。

「そんな大切なものを。」

「だから、あなたへ。」

 母は静かに私の手へ裁縫箱を乗せた。


「針は、布を繕います。」

「糸は、人との縁をつなぎます。」

 そっと蓋を撫でる。


「壊れた服も。」

「ほつれた袖も。」

「時間をかければ、また使えるようになる。」

 その言葉に、私は少しだけ息を呑んだ。


 母は続ける。

「人も同じですよ。」

「傷付いても。」

「少し休めばいい。」

「泣きたければ泣けばいい。」

「また歩けるようになります。」


 私は裁縫箱を胸へ抱く。

 温かい。

 木のぬくもりが、手のひらへ伝わってくる。

「お母様。」

「何でしょう。」

「もし……。」

 言葉が止まる。


 母は急かさない。

 私はゆっくりと続けた。

「もし、うまく働けなかったら。」


 母はすぐには答えなかった。

 少しだけ考えてから、私の頬へそっと手を添える。

「その時は。」

 優しく笑った。


「帰っていらっしゃい。」

 私は目を見開く。


「辺境へ。」

「王都へ。」

「どこでもいいの。」

「あなたが帰りたいと思った場所が、あなたの帰る場所です。」


 母は首を横に振る。

「でも。」

「できれば。」

 少しだけ悪戯っぽく笑った。

「帰る理由が、『会いに来ました』だと嬉しいですね。」


 その一言で、胸の奥にあった何かがほどけた。

 婚約は失った。

 未来も変わった。

 それでも。

 帰る場所は、なくなっていなかった。


 私は裁縫箱を大切に抱きしめ、一礼する。

「……行ってまいります、お母様。」

 母は、いつものように穏やかに頷いた。


「ええ。」

「行ってらっしゃい。」


 その声は、子どもの頃に初めて一人で街へ買い物に出た日の朝と、まったく同じだった。



◇◇◇


 玄関では、兄がまだ荷物と格闘していた。


「だから、それは私が持つ。」

「ですが若様。」

「妹の荷物だぞ。」

「だからです。」

 使用人と真剣に押し問答している。

 どう見ても旅行ではない。

 遠征である。


「お兄様。」

 私が声を掛けると、兄は勢いよく振り返った。

「オフィーリア。」

「ちょうどいい。」

 兄は足元に積まれた木箱を指差した。


「これも持って行け。」

「……何ですか。」

「干し肉。」

「多くありませんか。」

「二週間分だ。」

「そんなに食べません。」

「では一か月分にする。」

「増えています。」

 兄は真顔だった。

 冗談ではないらしい。


 私は木箱を開ける。

 干し肉。

 燻製肉。

 保存パン。

 乾燥果物。

 チーズ。

 蜂蜜。

 途中から非常食になっている。

「お兄様。」

「何だ。」

「私は冒険へ行くわけではありません。」


「分からんぞ。」

「働きに行くだけです。」

「それでも腹は減る。」

 ……確かに。

 反論できない。

 そこへ父が通りかかった。


「クラウス。」

「はい。」

「妹を熊か何かだと思っているのか。」

「違います。」

「違うのか。」

「熊ならもっと持たせます。」


 父が笑う。

 私も笑う。

 兄だけが少し不満そうだった。

「笑い事ではありません。」

「父上。」

「もし妹が困ったらどうするのです。」

「働く。」

 父は即答した。


「え?」


「困ったら働く。」

「腹が減ったら食べる。」

「眠ければ寝る。」

「それで大体何とかなる。」


 兄は難しい顔をしている。

「そんなものですか。」

「そんなものだ。」

 父は豪快に笑って去って行った。


 兄は納得していない。

 でも、それ以上言い返さなかった。


 私は木箱の中から、小さな包みを一つ見つける。

「これは?」

「あ。」

 兄が少しだけ慌てた。


「それは。」

 布を開く。

 中には、小さな折り畳み式の作業用ナイフが入っていた。

 柄には、ローゼンベルク家の紋章。

 でも装飾は控えめで、実用品だとすぐ分かる。


「兄上の……。」

「昔使っていたやつだ。」

 兄は少し照れくさそうに頭をかく。

「辺境では、一人一つ持たされる。」


「枝を削る。」

「縄を切る。」

「荷をほどく。」

「パンも切れる。」

「便利だ。」

 最後だけ少し嬉しそうだった。


 私は両手で受け取る。

 鞘には細かな傷がいくつも残っていた。

 ちゃんと使われてきた道具だ。


「ありがとう、ございます。」

「礼はいらん。」

 兄は少しだけ視線を逸らす。


「その代わり。」

「はい。」

「怪我だけはするな。」

 短い言葉だった。


 兄らしい。

 私は思わず笑ってしまう。

「それは難しいかもしれません。」

「え?」

「働けば、小さな擦り傷くらいはします。」


 兄は困ったような顔になる。

「……それもそうか。」

「では。」

 少し考えてから言い直した。


「大怪我はするな。」

「はい。」

「約束します。」

 兄はようやく安心したように笑った。


 その笑顔は。

 婚約破棄の夜から、初めて見る兄らしい笑顔だった。



◇◇◇


 馬車の準備が整った。

 玄関前には、辺境へ向かう父たちの馬車と、私を鉄の塔へ送るための王宮の馬車が並んでいる。

 目的地は違う。

 けれど、どちらも新しい道だった。


 執事が静かに頭を下げる。

「旦那様、ご準備が整いました。」

「うむ。」

 父は頷くと、最後にもう一度だけ屋敷を見回した。


「世話になった。」

 それだけ言う。

 使用人たちは一斉に頭を下げた。

 長く王都で暮らした屋敷だ。

 別れの挨拶は、それだけで十分だった。


 父は私の方を見る。

「では行くぞ。」

「はい。」

 私は一歩前へ出る。

 王宮の馬車の御者が帽子へ手を添え、一礼した。


「鉄の塔までご案内いたします。」

 その言葉を聞いた瞬間。

 胸が少しだけ高鳴る。

 鉄の塔。

 まだ見たこともない場所。

 どんな人たちがいて。

 どんな仕事をして。

 どんな毎日を送っているのだろう。


 昨日までなら、不安しか浮かばなかった。

 でも今は違う。

 少しだけ。

 本当に少しだけ。

 楽しみだと思っている自分がいた。


 父は私の肩を軽く叩く。

「迷ったら。」

「はい。」

「困ってる奴を探せ。」

 私は父を見る。

「困ってる奴がいるなら、お前の仕事がある。」

 父らしい言葉だった。


「はい。」

 私は力強く頷いた。

 母は私の髪をそっと整える。

 縦ロールが少しだけ崩れていたらしい。

「風が強いですから。」

「ありがとうございます。」


 兄は腕を組んだまま、少し照れくさそうに咳払いをした。

「……手紙を書け。」

「はい。」

「返事がなくても書け。」

「はい。」

「月に一度は書け。」

「はい。」

 私は思わず笑う。


「月に二度でも構いませんよ。」

「……それなら、なお良い。」

 兄もつられて笑った。

 父が豪快に声を上げる。

「まったく、お前たちは。」

「離れて暮らすわけでもあるまいに。」


「あります。」

 兄が真顔で返す。

 父はまた笑う。

 その笑いにつられて、母も、使用人たちも笑った。

 私も笑った。

 婚約破棄から初めて。

 心の底から笑えた気がした。


 御者が馬へ合図を送る。

 馬が小さく鼻を鳴らした。

 私は馬車へ乗り込む。

 窓を開けると、家族が並んで立っている。

 父は片手を上げる。

 母は静かに手を振る。

 兄は照れくさそうに一度だけ頷いた。


「行ってまいります。」

 自然に口をついて出た。

 三人が同時に答える。

「行ってらっしゃい。」

 馬車がゆっくりと動き始める。

 屋敷が少しずつ遠ざかる。


 私は窓からその姿が見えなくなるまで、ずっと手を振っていた。

 やがて屋敷は角の向こうへ消える。

 王都の街並みが目の前へ広がった。


 私は膝の上の書類入れへそっと手を置く。

 その中には、王から預かった紹介状。

 そして母の裁縫箱。

 兄の作業用ナイフ。

 父の言葉。

 ――全部持ってきた。


 私は小さく息を吸う。

 窓の外では、王都の朝が本格的に動き始めていた。

 パン屋の煙。

 市場へ向かう荷車。

 鍛冶場から響く、鉄を打つ乾いた音。

 その音に、私はふと耳を澄ませる。


 まだ見ぬ鉄の塔も、きっと同じ音がしているのだろう。

 そう思うと、不思議と足取りが軽くなる気がした。

 馬車は春の王都を抜け、新しい職場へ向かって走り始めた。


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