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第四話 鉄の塔へ向かう


 馬車はゆっくりと王都の大通りを進んでいた。


 昨日までは、何度も通った道だ。

 王宮へ向かう時も。

 夜会へ出席する時も。

 買い物へ出る時も。

 見慣れた景色だった。

 ……そのはずなのに。

 今日は少し違って見える。


 私は窓を少しだけ開けた。

 春の風が頬を撫でる。

 遠くから焼きたてのパンの香りが流れてきた。

「いい匂い……。」

 思わず小さく呟く。


 通り沿いのパン屋では、大きな窯から次々と黒パンが運び出されていた。

 店先へ並べられる前から、人が列を作っている。

 子どもを抱えた母親。

 仕事帰りらしい夜勤明けの衛兵。

 荷車を押す青年。

 皆、それぞれの一日を始めようとしていた。

 私はそんな人たちを、ゆっくり目で追う。


 昨日までなら。

 馬車の窓から町を見ることなど、ほとんどなかった。

 見ていたのは建物だった。

 王宮。

 劇場。

 貴族街。

 けれど今日は違う。

 目に入るのは、人だった。


 荷車へ袋を積む青年。

 店先を掃く少女。

 水桶を抱えて走る少年。

 鍛冶屋の親方へ頭を下げる見習い。

 皆、朝から働いている。

 その姿が、不思議と眩しく見えた。


 馬車は市場の前を通り過ぎる。

 野菜を積んだ荷車が何台も並び、威勢のいい声が飛び交っていた。

「採れたてだよ!」

「今日は甘いぞ!」

「ほら、味見していきな!」

 あちこちから笑い声が聞こえる。

 私は少しだけ頬を緩めた。

 辺境の朝市も賑やかだった。

 でも王都は、人の数がまるで違う。


 その時。

 馬車が少しだけ速度を落とした。

 道の真ん中で、一台の荷車が止まっている。

 車輪が石畳の隙間へはまり込んでしまったらしい。

「よいしょ!」

「もう少し右だ!」

「押せ押せ!」

 近くにいた人たちが、誰ともなく集まって荷車を押し始める。

 パン屋の主人も。

 魚屋の青年も。

 衛兵まで一緒になって。

 やがて車輪が石畳を乗り越えると、

「おお!」

 と拍手が起こった。


 荷車の主人は何度も頭を下げる。

「助かりました!」

「気にするな!」

「次は気を付けろよ!」

 皆、それぞれの仕事へ戻っていく。

 ほんの一分ほどの出来事だった。

 私はその光景を見つめたまま、小さく息を吐く。

 ……辺境でも、同じでしたね。


 困っている人がいれば、誰かが手を貸す。

 終われば何事もなかったように仕事へ戻る。

 父が言っていた。

 「働くってのは、案外そういうもんだ。」

 その意味が、少しだけ分かった気がした。

 馬車は再び動き出す。


 私は窓から吹き込む風を受けながら、静かに王都の朝を眺め続けた。



◇◇◇


 市場を抜けると、王都の景色が少しずつ変わっていった。

 建物が低くなる。

 空が広くなる。

 私は自然と窓の外へ身を乗り出していた。

 その時だった。

 遠くに、一つの塔が見えた。


 白く輝く石造り。

 朝日を受け、まるで空そのものへ届きそうな高さだった。

「……白金の塔。」

 思わず声が漏れる。

 王国でもっとも高い塔。

 国家魔法と術式研究を担う、七塔の象徴。

 子どもの頃は、あの塔の頂上には雲がかかるものだと思っていた。

 もちろん、そんなことはなかったけれど。


 馬車はさらに進む。

 今度は黄金色の屋根を持つ塔が姿を現した。

 陽光を受けて、きらりと眩しく光る。

 金の塔。

 新しい魔導具や素材を生み出す、発明家たちの塔。


 昨日の夜会で見た塔主の姿が浮かぶ。

 軽口ばかり叩いていた人だったけれど、仕事になると空気が変わるのだろう。

 そんな気がした。


 その隣には、銀灰色の細身の塔。

 窓が多く、光をよく取り込む造りになっている。

 銀の塔。

 医療と精密加工の塔。

 どこか病院のような静けさを感じさせる建物だった。

 さらに視線を巡らせる。


 銅色の尖塔。

 青銅のどっしりとした建物。

 控えめな高さの錫の塔。

 七つの塔は、王都のあちこちへ点在していた。

 けれど。

 どれも不思議なくらい同じ方向を向いている。

 まるで、それぞれが違う仕事をしながら、一つの街を見守っているようだった。


「見慣れた景色ですが。」

 御者が前を向いたまま話しかけてきた。

「こうして全部眺める機会は、案外ありません。」

「ええ。」

 私は素直に頷く。

「私も初めて、こんなふうに見ています。」


 御者は小さく笑った。

「皆さん、王都へ来ると一番高い塔ばかりご覧になります。」

「白金や金ばかり。」

「ですが。」

 一拍置いて続ける。

「どの塔も、王都には欠かせません。」


 私はもう一度、窓の外を見た。

 白金が空を見つめる塔なら。

 青銅は地面を支える塔。

 銅は街へ声を届ける塔。

 錫は人を育てる塔。

 銀は命を守る塔。

 金は未来を作る塔。


 では。

 鉄は。


 私は膝の上の紹介状へそっと手を置く。

 封筒の中には、まだ見ぬ未来が入っている。

「鉄の塔は。」

 気付けば、独り言のように呟いていた。

「どんな塔なのでしょう。」


 御者は少しだけ考える。

 それから、小さく笑った。

「そうですね。」

「一言で言うなら。」

 馬車はちょうど石橋を渡っていた。


 橋の欄干には新しい鉄の留め具が打たれ、街灯には磨き直された金具が朝日に光っている。

 井戸では揚水機が静かに動き、荷車は滑らかに橋を渡っていく。

 御者はその景色を顎で示した。


「今、お嬢様が何事もなく渡った橋。」

「朝、水を汲めた井戸。」

「昨夜、帰り道を照らしていた街灯。」

「誰かが毎日使っていて、壊れたら初めて困るもの。」

 そこで一度言葉を切り、穏やかに続けた。


「それを守っているのが、鉄の塔です。」

 私はもう一度、橋を振り返る。

 今まで何度も渡った橋だった。

 でも。

 誰が直しているのかを考えたことは、一度もなかった。

 その瞬間。

 遠くから、低く腹へ響くような鐘の音が聞こえた。


 ごおん――。

 澄んだ白金の鐘とも。

 軽やかな錫の鐘とも違う。

 どこか土の匂いがするような、力強い音だった。


「鉄の塔の鐘ですよ。」

 御者が笑う。

「ちょうど朝礼が始まる頃です。」

 私は音のする方角へ目を向けた。

 まだ塔の姿は見えない。

 けれど。

 その鐘の音だけは、不思議と胸の奥へまっすぐ届いた。



◇◇◇


 馬車はゆるやかに坂を下っていく。

 石畳の幅が少し狭くなった。

 行き交う馬車も豪華なものではなく、大きな荷車が増えていく。

 木材。

 石材。

 樽。

 鉄材。

 積み荷まで少しずつ変わっていた。


 風も変わる。

 花の香りは薄れ、代わりに炭と木の匂いが混じり始めた。

「……あ。」

 私は思わず声を漏らした。


 煙だ。

 一本。

 また一本。

 煙突から白い煙が空へ昇っている。

 王都の煙突とは違う。

 暖炉の煙ではない。

 工房の煙だ。


 馬車が角を曲がる。

 その途端、景色が一変した。

 かん。

 かん。

 かん。

 乾いた音が街へ響く。

 鉄を打つ音だった。

 どこか一軒ではない。

 右からも。

 左からも。

 少し離れた路地からも。

 違う音が重なって聞こえてくる。


 私は窓を大きく開けた。

 熱気が流れ込む。

 春なのに少し暖かい。

 工房の炉が街全体を温めているのだ。

 道端では、大工が木材を削っている。

 その隣では鍛冶師が真っ赤な鉄を叩く。

 荷車を押す青年が、

「通るぞ!」

と声を張り上げれば、

「おう!」

と誰かが答える。

 どこを見ても、人が動いている。

 誰も急いでいる。

 でも、不思議と慌ただしさは感じない。

 皆、自分の仕事が分かっている。

 そんな街だった。


「こちらが鉄地区です。」

 御者が教えてくれる。

「鉄地区……。」

 私はその名を口の中で転がした。


 貴族街には季節の花が咲いていた。

 こちらには煤が舞っている。

 貴族街では馬車が静かに走る。

 こちらでは荷車が土埃を上げて駆け抜ける。

 貴族街では香水の匂いがした。

 こちらでは炭火と鉄の匂いがする。

 まるで違う街だ。


 それなのに。

 嫌ではなかった。

 むしろ。

 少しだけ胸が高鳴る。

 鉄を打つ音は、どこか規則正しかった。

 かん。

 かん。

 ごう。

 しゅう。

 炉が息をする音。

 ふいごを踏む音。

 水へ鉄を浸ける音。

 耳を澄ませば、それぞれ違う。

 でも全部合わせると、一つの音楽みたいだった。


「面白いでしょう。」

 御者が笑う。

「え?」

「初めて来た方は、大抵うるさいとおっしゃいます。」

 私はもう一度、窓の外を見る。

 鍛冶場から笑い声が聞こえた。

 若い見習いが何か失敗したらしい。

 親方らしき男性が頭を軽く小突く。

 見習いは頭を押さえながら笑っている。

 怒鳴り声なのに、怒っているようには聞こえなかった。


「……いいえ。」

 私は静かに首を振る。

「うるさくありません。」

「そうですか?」

「はい。」

 私はもう一度、耳を澄ませた。

 鉄を打つ音。

 車輪の軋む音。

 人が呼び合う声。

 荷車が進む音。

 どれも違う。

 でも。

「皆さん、働いている音なんですね。」


 御者は少し驚いたようにこちらを見て、それから穏やかに笑った。

「ええ。」

「その通りです。」

 その言葉を聞いた瞬間。

 私は胸の中の不安が、ほんの少しだけ軽くなるのを感じた。

 働く音。

 昨日までの私には、聞こえなかった音だった。

 そして、その音は次第に一つだけ、ほかよりも大きく、深く響く音へと近づいていく。

 ごおん――。

 腹の底まで届くような鐘の音。


 御者は手綱を少しだけ引きながら、前方を見た。

「見えてきましたよ。」

 私は思わず身を乗り出す。

 煙の向こうに、大きな煙突がゆっくりと姿を現し始めていた。



◇◇◇


 煙突は一本ではなかった。

 二本。

 三本。

 少し離れた場所にも、もう一本。

 白い煙が春空へ真っすぐ伸びている。


 やがて馬車が最後の角を曲がる。

 私は思わず息を呑んだ。

「……大きい。」

 鉄の塔は、思っていたよりずっと質実剛健だった。


 白金の塔のような華やかさはない。

 金の塔のような眩しさもない。

 石と煉瓦を積み上げた、どっしりとした建物。

 高くそびえるというより、

 地面へしっかり根を張っている。

 そんな塔だった。


 塔の外壁には、長い年月を経た煤の跡が残っている。

 決して汚れているわけではない。

 何度も洗い、磨かれ、それでも落ちない仕事の跡だった。

 入口の大きな木扉は開け放たれ、

 中から絶え間なく人が出入りしている。


 荷車が一台。

 また一台。

 修理を終えたらしい荷車が出ていき、

 今度は車輪の外れた農車が運び込まれる。

 肩へ鍬を担いだ老人。

 井戸のポンプらしき部品を抱えた青年。

 鍋を大事そうに胸へ抱えた女性。

 誰もが急いでいる。

 でも、怒鳴ってはいない。

 自然と道が空き、

 自然と荷が運ばれ、

 自然と人が動いていく。

 まるで長年使い込まれた歯車のようだった。


 入口の上には、鉄を象った紋章。

 その下へ、小さな文字が彫られている。

 私は目を細めた。

 少し離れていて読みづらい。

 馬車が近付くにつれ、文字がはっきり見えてきた。


 『今日も誰かが待っている。』


 私はその言葉を小さく読み上げる。

「今日も……誰かが待っている。」

 御者が頷いた。

「鉄の塔の塔訓です。」


 私はもう一度、その文字を見上げた。

 貴族の家訓とは少し違う。

 立派な理想でも。

 難しい教えでもない。

 たった一言。

 でも、その一言だけで。

 ここが何を大切にしている場所なのか、少しだけ分かった気がした。


 その時だった。

「道を空けてくれ!」

 勢いよく声が飛ぶ。

 皆が慣れた様子で左右へ分かれる。

 一台の荷車が、入口から飛び出してきた。


 荷台へ積まれているのは、大きな橋桁の金具。

 御者が手綱を引き、私たちの馬車も道を譲る。

 荷車は土煙を上げながら街道へ走り去っていった。

 そのあとを見送りながら、私はぽつりと呟く。


「急ぎのお仕事だったのでしょうか。」

「ええ。」

 御者は当たり前のように答える。

「橋でも壊れたのでしょう。」

「橋……。」

「橋は待ってくれませんから。」

 その一言が胸へ残る。


 橋は待ってくれない。

 井戸も。

 街灯も。

 農具も。

 壊れたものは、人の暮らしを止めてしまう。

 だから。

 ここで働く人たちは、今日も急ぐのだ。


 私は胸元の紹介状へそっと触れた。

 王から託された、一通の封書。

 その向こうには。

 きっと、私の知らない毎日が待っている。

 ごおん――。

 再び、深く響く鐘が鳴る。

 工房の中では、朝礼が始まったのだろう。

 人々の足取りが少しだけ速くなる。

 私の胸も、それにつられるように少しだけ高鳴った。


 馬車はゆっくりと速度を落とし、鉄の塔の正門へ向かって進んでいった。



◇◇◇


 馬車はゆっくりと鉄の塔の正門前で止まった。

 御者が軽く手綱を引く。

 馬が一度だけ鼻を鳴らした。

「着きました。」


 私は紹介状の入った書類入れを抱え直す。

 革越しにも、封筒の存在が分かる。

 王から託された、一通の紹介状。

 その重みを確かめるように、小さく息を吸った。

 御者が扉を開ける。

「どうぞ。」

「ありがとうございます。」

 石畳へ降り立つ。

 靴底から、小さな振動が伝わってきた。


 かん。

 かん。

 かん。

 工房から響く槌音は、塔の外まで震わせているらしい。

 私は思わず塔を見上げた。

 近くで見ると、さらに大きい。

 壁の煉瓦は一つひとつ色が違う。

 新しいものもあれば、長い年月で角が丸くなったものもある。

 修理した跡が、隠されることなく残っていた。

 継ぎ足した石。

 補強された梁。

 磨き直された金具。

 どれも「古い」のではない。

 使われ続けてきたのだ。


 私は無意識に、その壁へ手を伸ばした。

 ひんやりとした石の感触。

 その奥から、かすかに炉の熱が伝わってくるような気がした。


「失礼いたします。」

 小さく呟いてから、入口へ向かう。

 中へ入ると、外より少しだけ涼しかった。

 正面には広い土間。

 左右へ廊下が伸び、その奥では荷物を運ぶ人たちが忙しく行き交っている。


 受付らしき窓口には、一人の女性が座っていた。

 年は三十前後だろうか。

 濃紺の仕事着に眼鏡を掛け、目の前の帳簿へ流れるような速さで文字を書いている。


「失礼いたします。」

 私が声を掛けると、女性は顔を上げた。

 切れ長の目が一瞬だけ私を見る。

 ドレス。

 書類入れ。

 靴。

 そして顔。

 ほんの一息で全部見終える。

 仕事の人の目だった。


「はい。」

 落ち着いた声だった。

「本日はどのようなご用件でしょう。」

 私は書類入れから紹介状を取り出す。

「王宮より参りました。」

「国王陛下からの紹介状を、お預かりしております。」

 女性は眼鏡を少し押し上げる。

「……陛下から。」

 初めて少しだけ表情が動いた。


 私は紹介状を差し出す。

 女性は封蝋を見る。

 王家の紋章を確認すると、小さく頷いた。

「少々、お待ちください。」

 封を開くことなく立ち上がる。

 王家の封蝋は、宛名の本人しか開けてはならない。

 そのまま紹介状を大切そうに抱え、廊下の奥へ歩き出した。

 二、三歩進んだところで振り返る。

「賢者様は工房にいらっしゃいます。」

「ご案内いたしますので、こちらへ。」


 工房。

 その言葉だけで、胸が少しだけ高鳴る。

 私は一礼した。

「よろしくお願いいたします。」

 女性は小さく微笑む。

「私はクララと申します。」

「受付と現場の取りまとめをしております。」

「オフィーリア・フォン・ローゼンベルクです。」

 私が名乗ると、クララは軽く頷いた。

「ようこそ。」

 その一言だけだった。

 歓迎の宴も。

 仰々しい挨拶もない。

 ただ自然に迎え入れる声。

 私はその後ろについて歩き始める。


 廊下の奥から、さっきより大きく鉄を打つ音が聞こえてきた。

 熱気も少しずつ強くなる。

 炉の匂い。

 炭の匂い。

 鉄の匂い。

 そして。

 誰かの大きな笑い声。

 工房は、すぐそこだった。

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