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第二話 王との謁見


 朝は、容赦なくやって来た。

 鳥のさえずりが聞こえる。

 窓から差し込む春の日差しは穏やかで、昨日までと何も変わらない。

 世界は、私一人の出来事では止まってくれないらしい。


 私は寝台から起き上がり、静かにカーテンを開けた。

 王都の屋根が朝日に染まっている。

 煙突からは白い煙が立ち上り、パン屋の窯に火が入ったのだろう、焼きたての香りが風に乗って届いた。

 昨日と同じ朝。

 違うのは、私だけだった。

 身支度を整え、部屋を出る。


 廊下には侍女のアンナが待っていた。

「おはようございます、お嬢様。」

「おはようございます。」

 彼女も昨日のことを知っているはずだ。

 それでも何も聞かない。

 少しだけ目が赤いことにも、私は気付かないふりをした。


 食堂へ向かうと、父と母、それに兄がすでに席についていた。

 いつもの朝食。

 黒パン。

 卵料理。

 燻製肉。

 温かなスープ。

 けれど食卓は驚くほど静かだった。


 父はスープを口に運び、母はパンを小さくちぎっている。

 兄だけが、まだ何も食べていなかった。


「座りなさい。」

 父が言う。

「はい。」

 私は席に着く。

 給仕が紅茶を注いでくれた。

 湯気の向こうで、母が微笑む。


「よく眠れましたか。」

「……少しだけ。」

「それで十分ですよ。」

 母の言葉は、いつも少しだけ肩の力を抜いてくれる。


 兄は相変わらず難しい顔をしていた。

 私と目が合うと、少しだけ視線を逸らす。

 昨夜、自分を止められたことをまだ悔やんでいるのだろう。

 そんな兄を見て、少しだけ可笑しくなった。


「お兄様。」

「……何だ。」

「今日はちゃんと召し上がってください。」

「食欲がない。」

「それではお母様に叱られます。」

 兄は母を見る。

 母はにっこりと微笑んだ。


「ええ、叱ります。」

 兄は小さくため息をつき、ようやくスープへ手を伸ばした。

 その時。

 玄関の方から馬のいななきが聞こえた。

 続いて、控えめなノック。

 執事が食堂へ入ってくる。


「旦那様。」

「何だ。」

「王宮より使者がお見えです。」

 食堂の空気が変わる。

 父は静かに食器を置いた。


「……通せ。」

 ほどなくして、一人の王宮侍従が食堂へ案内されてきた。

 深い青の制服。

 胸には王家の紋章。

 彼は一礼し、封蝋の押された書簡を父へ差し出す。


「国王陛下より、ローゼンベルク辺境伯閣下へ。」

 父は封を切る。

 短い文面らしく、すぐに読み終えた。

 そして、私を見る。


「オフィーリア。」

「はい。」

「陛下がお呼びだ。」

 その一言だけだった。

 私は静かに頷く。


「承知いたしました。」

 昨日とは違う。

 今度は夜会ではない。

 正式な謁見だ。


 私は紅茶を飲み干し、膝の上で手を重ねた。

 春の日差しは暖かい。

 それでも胸の奥だけは、まだ少し冷えたままだった。



◇◇◇


 王宮へ向かう馬車の中は静かだった。

 車輪が石畳を叩く音だけが、小さく揺れている。


 父は窓の外を見ていた。

 母は私の向かいに座り、何も言わずに微笑んでいる。

 兄は腕を組んだまま、ずっと黙っていた。

 私も口を開かなかった。

 何を話しても、答えは出ない気がした。


 やがて馬車は王宮の正門をくぐる。

 昨日と同じ門。

 昨日と同じ中庭。

 けれど今日は、花も噴水も目に入らなかった。


 侍従の案内で、私たちは謁見の間ではなく、小さな応接室へ通された。

 壁一面に本棚が並び、大きな窓から春の庭園が見える。

 王の私室に近い応接室だろうか。

 思っていたより、ずっと質素だった。


「少々お待ちください。」

 侍従が頭を下げ、扉を閉める。

 しばらくして。

 静かに扉が開いた。


 入ってきたのは、国王アルフレッド三世ただ一人だった。

 王冠はない。

 豪奢な外套も羽織っていない。

 昨日よりもずっと、一人の老人に見えた。


「待たせたな。」

 王はそう言うと、自ら椅子を引いた。


「どうか座ってくれ。」

 私たちも一礼し、席に着く。

 少しの沈黙。

 庭から、小鳥の鳴き声だけが聞こえてくる。

 王は深く息を吸い、私をまっすぐ見た。


「……オフィーリア。」

「はい、陛下。」

 その瞬間。

 王はゆっくりと頭を下げた。


 私は息を呑んだ。

 父も。

 母も。

 兄も。

 誰も動けなかった。


「すまなかった。」

 たった一言。

 王としてではない。

 心からの謝罪だった。


 私は思わず立ち上がりそうになる。

「へ、陛下、お顔をお上げください。」

「いや。」

 王は静かに首を振る。

「王である前に、一人の大人として謝らねばならぬ。」

 部屋に沈黙が落ちる。


 私は何と返せばよいのか分からなかった。

 怒ることも。

 責めることも。

 慰めることも違う気がした。

 ただ。

 目の前にいる老人が、本当に苦しんでいることだけは伝わってきた。


 やがて王はゆっくりと顔を上げる。

 その表情には、昨夜より深い疲れが刻まれていた。

「本来であれば。」

 王は静かに続ける。


「昨日のような形で終わらせるつもりはなかった。」

 そこで言葉を切る。

 それ以上は語らない。

 語れないのだろう。


 私は膝の上で指を重ねた。

 聞きたいことは、たくさんある。

 なぜ。

 どうして。

 いつから。

 でも。

 そのどれも口にはならなかった。


 代わりに浮かんだのは、一つだけ。

 ――この方も、眠れなかったのだろう。

 そんなことだった。


 王は窓の外へ一度だけ目を向ける。

 庭では庭師が花壇の手入れをしている。

 春は、誰を待つこともなく訪れる。

 王はもう一度私を見た。


「今日は、弁明をするために呼んだのではない。」

 その声は穏やかだった。

「償うために、来てもらった。」

 私は静かに背筋を伸ばえた。

 ようやく、この場の本当の話が始まろうとしていた。



◇◇◇


 王は机の上へ一枚の書状を置いた。

 封は切られていない。

 白い紙だけが静かに光を受けていた。


「オフィーリア。」

「はい。」

「償わせてほしい。」

 私は静かに王を見つめる。

 王は続けた。


「望みを申してくれ。」

 部屋が静まり返る。

 庭から小鳥の声が聞こえた。

 私は少しだけ目を伏せる。

 望み。

 そう言われても、昨日までなら答えは決まっていた。


 レオポルト殿下の隣に立つこと。

 未来の王妃として、この国を支えること。

 それが私の役目だった。

 でも。

 その役目は、もう終わった。

 王は静かに口を開く。


「望むなら、新たな縁談を用意しよう。」

 父が何も言わず私を見る。

 母も黙っている。

 答えるのは私だから。

 私はゆっくりと首を横へ振った。


「いいえ。」

 王は頷く。

 驚いた様子はない。


「では、辺境伯領へ戻るか。」

 私は少しだけ考える。

 帰れば、家族は迎えてくれるだろう。

 父は笑い。

 母は抱きしめ。

 兄は二度と王都へ行かせまいとするかもしれない。

 それは、とても温かい場所だ。

 でも。

 私はまた首を横へ振った。


「それも望みません。」

 兄が小さく息を呑む。

 父だけは、少しだけ口元を緩めていた。

 王は両手を組む。


「……では。」

 その声は、とても静かだった。


「何を望む。」

 私は答えようとして。

 言葉が出なかった。

 昨日の夜。

 窓辺で考えた。

 私は何になればいいのだろう。

 その答えを。

 今、自分で探す。


 貴族。

 婚約者。

 王妃。

 そのどれでもない。

 私自身が望むもの。


 父の言葉が浮かぶ。

 『誇りは働きで示せ。』

 辺境伯家で、何度も聞いた言葉だった。


 働く。

 私は。

 働くことが好きだった。


 領地では帳簿をつけ。

 兵站を学び。

 現場を歩き。

 農具を見て。

 橋を渡り。

 父や家臣たちの話を聞くのが好きだった。


 王妃教育より。

 ずっと。


 私はゆっくり顔を上げる。

「陛下。」

「うむ。」

「新しい婚約者は必要ございません。」

 王は黙って聞いている。


「辺境へ帰ることも望みません。」

 私は一度だけ深呼吸をした。

 そして。


「……働く場所を、ください。」

 その一言で。

 部屋の空気が変わった。


 兄が目を見開く。

 母は静かに微笑んだ。

 父は腕を組んだまま、小さく頷く。

 王だけが、しばらく何も言わなかった。


 驚いているのではない。

 考えている。

 私の望みを、真正面から受け止めて。


 やがて王は、小さく笑った。

 それは昨日の夜会で、一度も見せなかった笑顔だった。


「……そう来たか。」

 王は椅子へ深く腰掛ける。

 窓の外へ一度だけ目を向け、どこか懐かしそうに目を細めた。


「実はな。」

 ぽつり、と呟く。

「それを聞いて、思い浮かぶ場所が一つだけある。」

 私は首を傾げる。


 王は机の引き出しを静かに開いた。

 そこには、一通の紹介状が用意されていた。



◇◇◇


 王は引き出しから、一通の封書を取り出した。

 厚手の羊皮紙。

 深い藍色の封蝋には、王家の紋章が押されている。

 大切な紹介状なのだと、一目で分かった。


 王はその封書をしばらく眺めてから、静かに私へ差し出した。

「これを持って行きなさい。」

 私は両手で受け取る。

 思っていたより少しだけ重い。


「紹介状……でしょうか。」

「そうだ。」

 王は頷いた。


「お前が望んだ働く場所への紹介状だ。」

 私は封筒へ目を落とす。

 宛名だけが、美しい筆跡で記されていた。

 鉄の塔賢者 グレーテ・アイゼン殿

 ……鉄の塔。

 私は思わず、その文字をもう一度読んだ。


 七つの賢者の塔。

 もちろん名前くらいは知っている。

 白金の塔。

 金の塔。

 銀の塔。

 どれも王都では名高い塔だ。


 けれど。

 鉄の塔。

 その名は知っていても、何をしている塔なのかまでは知らなかった。

 昨日の夜会で、豪快に笑っていた職人たち。

 工房の食堂が恋しいと話していた人たち。

 あの人たちがいた塔。

 それくらいしか思い浮かばない。


「陛下。」

「何だ。」

「鉄の塔とは、どのような場所なのでしょう。」

 王は少しだけ考えた。

 そして、ゆっくり笑う。


「そうだな。」

「説明は難しい。」

 父が小さく笑った。


「珍しいですね。」

「うむ。」

 王も苦笑する。


「王都で暮らす者には、あまり縁のない場所だからな。」

 そこで父が口を開いた。

「いや。」

「辺境では、ずいぶん世話になっております。」

 王は頷く。


「その通りだ。」


「橋が壊れれば来る。」

「井戸が止まれば来る。」

「街灯が消えれば来る。」

「農具が折れれば来る。」

「魔導炉が止まれば来る。」

 一つ一つ数えながら、王は穏やかに続けた。


「派手な仕事ではない。」

「だが。」

「誰かが困れば、一番最初に向かう者たちだ。」

 私は紹介状を見つめる。

 鉄の塔。

 その名前が、少しだけ近く感じられた。


「……仕事のためにある塔、なのですね。」

 王は静かに笑った。

「そうだ。」

「そして、お前は昨日。」

「働く場所が欲しい、と言った。」


 私は頷く。

「はい。」


 王は椅子へ深く腰掛ける。

「だから、あそこしか思い浮かばなかった。」


 父が腕を組む。

「グレーテ殿か。」

「知っておられるのですか。」

 私が尋ねると、父は豪快に笑った。

「一度だけ橋の修理で世話になった。」


「三日かかると言われた橋を、一日で直して帰っていった。」

「しかも帰り際に、『次は壊れる前に呼べ』と怒られた。」

 母がくすりと笑う。

「相変わらずなのですね。」


「知っているのですか、お母様。」

「ええ。」

「とても怖い方、と聞いています。」

 王も思わず吹き出した。


「怖い。」

「まあ、間違ってはおらん。」

「だが。」

 王は少しだけ真顔になる。

「人を見る目は、この国でも指折りだ。」

 その一言だけが、静かな部屋へ残った。


 私は紹介状を胸の前で抱える。

 封蝋はまだ閉じられたまま。

 この一通が、私の未来を決める。

 そう思うと、不思議と怖さはなかった。


 知らない場所。

 知らない仕事。

 知らない人たち。

 それでも。

 昨日の夜会で見た、あの笑い声だけは覚えている。

 工房の食堂が恋しい、と笑っていた人たち。


 あんなふうに笑える場所なら。

 一度くらい、行ってみたい。

 そんなことを思った。

 まだ。

 その塔が、私の人生そのものになるとは知らずに。

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