表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
2/5

第一話 婚約破棄


 静寂だった。

 楽団は演奏を止めていた。

 さきほどまで春を祝っていた弦の音は消え、広間には誰かが息を呑む音だけが残っている。


 どうして演奏が止まったのだろう。

 そんな場違いなことを考えた。

 私は王の前に立っている。

 右には王妃殿下。

 左にはレオポルト殿下。

 そして少し離れた場所には、名も知らぬ少女。

 誰も私を見ていない。

 いや。

 見ようとして、見られないのだ。


 王はゆっくりと息を吐いた。

「レオポルト。」

「……はい。」

 殿下の返事は、小さかった。


 王は目を閉じる。

 一瞬だけ。

 そして。

「話しなさい。」

 その一言だけだった。


 長い沈黙が落ちる。

 殿下は拳を握っていた。

 白くなるほど。

 何度も言葉を飲み込み、ようやく私を見る。

 その青い瞳は、今まで見たことがない感情を湛えていた。


「オフィーリア。」

「はい、殿下。」

 私は微笑んだ。

 婚約者として。

 未来の王妃候補として。

 最後まで礼を失してはいけない。

 殿下は唇を結ぶ。

 何かを決意するように。

 そして。


「オフィーリア・フォン・ローゼンベルク。」

 呼び方が変わった。

 いつもなら。

 オフィーリア、とだけ呼ぶ人だった。

 その瞬間。

 胸の奥で、小さな音がした。

 歯車が外れる音。


「君との婚約を──」

 広間中が息を止める。

 誰も動かない。

 私は、ただ静かにその続きを待った。

「ここに、解消する。」

 ……そう。

 終わったのだ。


 不思議だった。

 泣くものだと思っていた。

 怒るものだと思っていた。

 問い質すものだと思っていた。

 けれど。

 何も浮かばない。

 まるで。


 長い長い冬のあと、雪が静かに落ちるのを見ているようだった。

 私はドレスの裾を整え、静かに膝を折る。

「承りました。」

 広間から音が消えた。

 今度こそ、本当に。



◇◇◇


 誰かが息を吸う音がした。

 それを合図にしたように、広間へざわめきが広がっていく。


「婚約破棄……?」

「まさか。」

「ローゼンベルク家では。」

「いや、あのお二人は……。」


 小さな囁きは波のようだった。

 誰も大声では話さない。

 それでも、広間中へ一瞬で広がっていく。


 私は立ち上がる。

 足は震えていない。

 よかった、と少しだけ思った。

 こんなところで転んだら、あとで兄に一生笑われる。


「オフィーリア。」

 父だった。

 いつの間にか私の隣まで来ている。

 ローゼンベルク辺境伯、アーノルト。

 普段なら豪快に笑う父の顔から、笑みは消えていた。


「父上。」

「こっちへ来い。」

 短い言葉だった。

 けれど、その声には娘を守ろうとする強さがあった。

 私は一歩だけ父の方へ寄る。


 その反対側へ、母が静かに立った。

 エレノアは何も言わない。

 ただ、そっと私の手へ触れる。

 温かい。

 その温もりで、自分の指先が少し冷えていたことに初めて気付いた。


「……お兄様。」

 今度は思わず声が漏れた。

 兄、クラウスが今にも前へ出そうになっている。

 父が腕を掴まえていなければ、本当に王子の前まで歩いて行っていただろう。


「離してください、父上。」

「離さん。」

「しかし!」

「離さん。」

 短い応酬だった。

 父は一歩も譲らない。

 兄は悔しそうに拳を握り締めた。


「殿下。」

 兄が低い声で言う。

「妹は、あなたを信じておりました。」

 広間がまた静かになる。

 レオポルトは目を閉じた。

 何も言い返さない。

 言い返せない。

 その沈黙だけが返事だった。

 私は兄の袖をそっと引く。


「お兄様。」

「……オフィーリア。」

「大丈夫です。」

 大丈夫ではない。

 たぶん。

 でも、それしか言えなかった。


 兄は私を見つめる。

 それから、大きく息を吐いた。

「……分かった。」

 分かってはいない顔だった。

 それでも、私のために一歩だけ下がってくれた。

 その時。


 広間の隅で、小さくすすり泣く声が聞こえた。

 私は視線を向ける。

 あの少女だった。

 肩を震わせ、今にも泣き出しそうな顔で立っている。

 誰より苦しそうなのは、彼女だった。

 ……どうして。

 私は、その理由が分からなかった。

 ただ。

 そのことだけが、不思議と胸に残った。



◇◇◇


「本日の夜会は、このまま続ける。」

 王の声が広間へ響いた。

 低く。

 静かに。

 それだけで、ざわめきは少しずつ収まっていく。


 誰も納得したわけではない。

 けれど、王がそう告げた以上、夜会は続く。


 音楽が戻る。

 恐る恐る弦を鳴らし始めた楽団は、どこか先ほどより小さく演奏しているように聞こえた。

 給仕たちも動き出す。

 料理が運ばれ、杯が満たされる。

 春の夜会は終わらない。

 終われない。


 私はその様子を少しだけ眺めていた。

 人というのは、不思議だ。

 ほんの数刻前まで、あれほど美しかった景色なのに。

 今は同じ光景が、まるで知らない場所のように見える。


「オフィーリア。」

 王に呼ばれ、私は顔を上げた。

 王は玉座から降りてきていた。

 近くで見ると、少しだけ老け込んだように見える。


「……すまなかった。」

 その一言だった。


 私は首を横へ振る。

「陛下がお謝りになることではございません。」

 本心だった。

 まだ何が起きたのかも分からない。

 分からないまま、誰かを責めることはできなかった。


 王は少しだけ目を伏せる。

 何か言いかけて。

 結局、何も言わなかった。


「今日は戻りなさい。」

「……はい。」

 それ以上の言葉はない。


 私はもう一度礼をして、父と母の方へ戻る。

 父は何も聞かなかった。

 母も何も言わない。


 兄だけが、私の歩幅に合わせるように隣を歩いた。

 その優しさが、少しだけ苦しかった。


 広間の出口まで来た時。

「オフィーリア様。」

 小さな声が聞こえた。

 振り返る。

 あの少女だった。

 彼女は数歩こちらへ出ようとして、そこで足を止める。


 何か言いたい。

 でも言えない。

 そんな顔だった。

 私は静かに一礼した。

 少女は慌てて頭を下げる。

 それだけだった。


 名前も知らない。

 言葉も交わしていない。

 それでも。

 彼女の肩が震えていることだけは、よく分かった。


 私はそのまま大広間を後にする。

 重い扉が閉まる。

 春の音楽が、ゆっくりと遠ざかっていった。


 王宮の回廊は、夜会の喧騒が嘘のように静かだった。

 窓の外では、王都の灯が春の夜を照らしている。

 私は立ち止まり、夜空を見上げた。


 雲一つない空だった。

 けれど、星はあまり見えない。

 王都は明るすぎるのだ。

 辺境では、もっとたくさんの星が見えた。


「帰りましょう。」

 父の声に、私は小さく頷いた。

「はい。」

 その返事は、自分でも驚くほど穏やかだった。



◇◇◇


 王都邸へ戻った頃には、すっかり夜も更けていた。

 屋敷は静かだった。


 使用人たちは玄関で一礼し、それ以上何も尋ねない。

 誰もが、もう話を聞いているのだろう。


 父は執事へ短く告げる。

「今日は誰もオフィーリアの部屋へ近づけるな。」

「かしこまりました。」

 それだけだった。

 私は父と母へ一礼する。


「おやすみなさいませ。」

 母は何か言おうとして、小さく微笑んだ。

「ええ、おやすみなさい。」


 父は頷くだけ。

 兄は最後まで何か言いたそうだったが、結局何も言わなかった。

 部屋へ戻る。

 扉を閉める。

 ようやく、一人になった。


 私は背中を扉へ預けたまま、しばらく動かなかった。

 静かだった。

 あれほど賑やかだった夜会が、ずっと昔のことのように思える。

 部屋には見慣れた調度品が並んでいる。


 本棚。

 机。

 刺繍枠。

 窓辺の鉢植え。

 どれも昨日までと変わらない。

 変わったのは。

 私だけだった。


 私はゆっくりと耳飾りを外し、小箱へ戻す。

 首飾り。

 手袋。

 ひとつずつ丁寧に。

 侍女がいれば任せていた支度を、今日は自分で行った。


 最後に胸元へ手を添える。

 婚約の証として身につけていた小さなブローチ。

 王家の紋章が彫られた、白金細工。

 私はしばらくそれを見つめる。

 綺麗だ。


 今日まで、一度もそう思ったことはなかった。

 当たり前に身につけていたから。

 私は小箱を開け、そのブローチを静かに置いた。

 蓋を閉じる。


 小さく、かちり、と音がした。

 それだけで、何かが終わった気がした。


 窓を開ける。

 春の夜風が、部屋へ流れ込んできた。

 遠くで王宮の鐘が鳴る。


 夜半を告げる鐘。

 王宮では、まだ夜会が続いているのだろうか。

 それとも、もう終わったのだろうか。

 分からない。


 もう、私には関係のない夜会だった。

 私は窓辺へ腰掛ける。


 辺境なら、この時間は満天の星空だ。

 王都では灯りが多すぎて、星はまばらにしか見えない。

 それでも、一つだけ明るく光る星があった。

 私はその光をぼんやりと眺める。

 涙は出なかった。


 代わりに、胸の中へぽっかりと穴が開いたようだった。

 そこへ風だけが通り抜けていく。


 ……明日から、どうしましょう。

 初めて浮かんだのは、その考えだった。

 婚約者ではなくなった。

 未来の王妃でもなくなった。

 では。

 私は、何になればいいのだろう。

 答えはまだない。


 夜風は静かにカーテンを揺らし続けていた。

 私は窓を閉め、寝台へ入る。

 眠れるとは思わなかった。

 けれど、目を閉じる。


 明日は来る。

 来てしまう。

 だから今日は、眠ろう。

 そう思いながら。

 私は静かに、夜へ身を預けた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ