プロローグ 春の夜会
王宮の夜会は、花の香りが強い。
春を祝うためだというが、これほど多くの花を一堂に集められると、何を祝っているのか分からなくなる。薔薇、百合、沈丁花。甘い香りの向こうから、蜂蜜酒と焼き菓子の匂いまで漂ってきた。
私は扇の陰で、小さく息を吐く。
ローゼンベルク辺境伯家の娘として、疲れた顔は見せられない。
父なら「疲れたなら食え」と言うだろうし、兄なら「立っているだけなら私でもできる」と笑うだろう。
残念ながら、王宮の夜会ではどちらも正解ではなかった。
大広間には色とりどりの礼装が咲き乱れていた。
魔導灯の柔らかな光を受けて、宝石が揺れる。弦楽器の音色は天井へ吸い込まれ、磨き上げられた床には踊る人々が映っていた。
春の夜会。
王国中の貴族が集う、一年で最も華やかな催しである。
もっとも、今日ここへ集まっているのは貴族だけではない。
壁際へ視線を向ける。
白金。
金。
銀。
鉄。
銅。
青銅。
錫。
七つの賢者の塔から、それぞれ代表者が招かれていた。
それぞれ胸元には、所属する塔を示す金属の紋章。
貴族のような豪華さはない。
けれど、誰もがよく手入れされた仕事着か、それを少しだけ改めた礼装をまとっていた。
不思議と、その人たちだけ空気が違う。
姿勢は礼儀正しいのに、目がどこか現場を見ている。
何かが壊れていないか。
誰かが困っていないか。
そんなことを考えているような目だった。
私は、あの目が少し好きだった。
王宮の貴族たちが肩書きを見るように、塔の人たちは道具や人の手を見ている。
辺境の領地で現場を歩いていた頃に出会った職人たちも、似たような目をしていたことを思い出す。
「オフィーリア様。」
名前を呼ばれ、私は振り向いた。
銀盆を持った給仕が、果実水の入った硝子杯を差し出している。
「ありがとうございます。」
一礼して受け取る。
冷えた硝子が心地よかった。
隣では、第一王子レオポルト殿下が、誰かと言葉を交わしている。
今日も凛々しい立ち姿だった。
王族らしく、誰に対しても穏やかで、誠実で。
だからこそ、多くの人が殿下を慕っている。
私も、その一人だった。
ふと視線を上げると、天井近くを小さな光が舞っていた。
白金の塔が調整した祝祭用の光精霊だろう。
蝶の形をした淡い光が、春風に乗る花びらのように大広間を巡っている。
綺麗だ。
そう思った次の瞬間、その一匹が私の縦ロールへ止まろうとした。
「……いけません。」
扇でそっと追い払う。
危ないところだった。
もし髪へ入り込まれたら、侍女たちが泣く。
少しだけ肩の力が抜け、私は小さく笑った。
その時だった。
広間の入口が静かに開き、新たな招待客が姿を現す。
華やかな貴婦人でも、高位の貴族でもない。
質素な、それでいて丁寧に仕立てられた淡い青色のドレスを着た、一人の少女。
年は、私とそう変わらないだろう。
その姿を見て、何人かの貴族が小さく囁き合う。
けれど私は、その少女ではなく、少女を迎えに歩み寄った殿下の横顔を見ていた。
――あれ。
胸の奥で、小さな違和感が鳴った。
ほんのわずかな、歯車が噛み合わないような感覚。
その時の私は、まだ知らなかった。
それが、私の人生を大きく変える最初の音だった。
◇◇◇
夜会は続いていた。
楽団が新しい曲を奏で始めると、広間の中央では次々と組が入れ替わる。
笑顔。
拍手。
グラスが触れ合う小さな音。
どこを見ても、春を祝う夜会だった。
けれど。
「……」
私は果実水を口に運びながら、もう一度だけ入口へ視線を向けた。
先ほど現れた少女は、王宮侍女に案内され、人の少ない壁際へ立っていた。
貴族ではない。
少なくとも、見覚えがない。
それでも礼儀作法はきちんとしている。
緊張しているのか、両手を前で重ねた指先だけが少し強く握られていた。
男爵家のお嬢様かしら。
そんなことを考えていると、不意に隣のレオポルト殿下が口を開いた。
「少し失礼する。」
「はい。」
私は自然に頷く。
王族である以上、夜会の途中で席を外すことなど珍しくない。
来賓への挨拶。
王の呼び出し。
七豪族との会談。
理由はいくらでもある。
だから、その時は気にも留めなかった。
殿下は私ではなく、その少女の方へ歩いていく。
少女は慌てて一礼した。
殿下は何か優しく声をかけている。
二人とも表情までは見えない。
ただ。
殿下が、少しだけ笑った。
私は目を細める。
珍しい。
夜会での殿下は、いつも穏やかではあるが、どこか王子としての笑顔を崩さない。
今の笑みは、それとは少し違って見えた。
「オフィーリア様。」
今度は侯爵夫人に声をかけられ、私はそちらへ向き直る。
「ごきげんよう。」
「ええ、ごきげんよう。」
世間話。
今年の春は暖かい。
王都の花は見頃。
辺境はまだ雪が残るのでしょう。
はい、朝晩は冷え込みます。
そんな会話を交わしながらも、意識のどこかでは殿下を探していた。
気付けば、姿が見えない。
少女もいなかった。
広間を見回しても、二人ともいない。
少しだけ胸がざわつく。
――どちらへ?
その疑問は、すぐに打ち消した。
考えすぎね。
王子には王子のお務めがある。
婚約者だからといって、何もかも知っている必要はない。
そう、自分へ言い聞かせる。
その時だった。
「鉄の塔も来ていたのね。」
侯爵夫人の言葉に、私は視線を移した。
広間の隅で、作業着の上にだけ簡素な礼装を羽織った一団が、小さく杯を掲げている。
豪華な刺繍も。
宝石も。
金糸もない。
それでも誰より楽しそうだった。
年配の女性が大きく笑い、隣の髭面の職人が肩を叩かれている。
何を話しているのかは聞こえない。
でも、一人だけよく聞こえた。
「マーサの飯が恋しいな!」
途端に、周囲が吹き出した。
「まだ始まって一刻も経ってないだろ。」
「王宮の料理もうまいが、量が足りん。」
「それが本音だろ。」
また笑いが起きる。
私は思わず口元を緩めた。
不思議な人たち。
王宮の夜会でさえ、工房の食堂の話をしている。
けれど。
その笑い声が少しだけ羨ましかった。
誰かに見られる笑顔ではなく。
誰かと働いた人たちだけが浮かべる笑顔。
あんな笑い方を、私はまだ知らない。
その時、大広間の奥で鐘が一つ鳴った。
控えめな、澄んだ音だった。
王の入場を知らせる鐘。
広間の空気が静かに張り詰める。
私は背筋を伸ばえ、ゆっくりと王座の方へ視線を向けた。
春の夜会は、まだ始まったばかりだった。
◇◇◇
王の入場とともに、広間は静まり返った。
アルトハイム連合王国国王、アルフレッド三世。
七豪族の盟主。
そして、この国でもっとも忙しい老人である。
父がよく言っていた。
――王とは、一番偉い人ではない。一番忙しい人だ。
王は玉座へ着くと、ゆっくりと広間を見渡した。
その眼差しは厳しくもあり、どこか疲れているようにも見える。
建国から八百年。
七豪族をまとめ続けるというのは、それほど重い仕事なのだろう。
「皆、本日はよく参った。」
祝いの言葉。
春への感謝。
王国の平穏。
短い挨拶のあと、夜会は再び華やかさを取り戻していく。
楽団が演奏を始める。
給仕が料理を運ぶ。
貴族たちは笑顔を浮かべ、再び談笑へ戻っていった。
その時だった。
「レオポルト。」
王が、静かに名を呼ぶ。
「はい、父上。」
殿下はすぐに歩み寄った。
国王の隣には、王妃殿下も立っている。
二人とも穏やかな表情だ。
……そう見えた。
でも。
私は王妃殿下の手元を見てしまった。
扇を持つ指先だけが、少しだけ力んでいた。
白い指先が、扇の骨を強く握っている。
私はその小さな違和感を覚えてしまう。
辺境では、人は嘘をつく前に口元より手が動く。
母に教わったことだった。
王は何事かを殿下へ告げる。
声は届かない。
けれど殿下は、一瞬だけ目を伏せた。
「……承知しました。」
それだけ聞こえた。
王は頷く。
殿下はもう一礼し、その場を離れた。
……こちらへ来る。
私は自然に姿勢を正した。
けれど殿下は私の前を通り過ぎ、そのまま広間の反対側へ歩いていった。
そこには、先ほどの少女が立っている。
少女は何が起きているのか分からないという顔で、小さく首を傾げた。
殿下は優しく何かを告げる。
少女は驚き、慌てて首を横へ振る。
何度も。
何度も。
それでも殿下は静かに言葉を重ね、最後に少女はうつむいたまま、小さく頷いた。
私は無意識に硝子杯を持ち直していた。
冷たいはずの果実水が、もうぬるくなっている。
「オフィーリア。」
柔らかな声。
振り向くと、母が立っていた。
「お母様。」
「少し顔色が良くありませんね。」
「……そうでしょうか。」
「ええ。」
母は私の頬へそっと手を添えた。
その手は、辺境の冬を知る人らしく少しだけ冷たかった。
「疲れたなら、お庭へ出て空気を吸っていらっしゃい。」
「ありがとうございます。」
私は微笑む。
母も微笑み返してくれる。
その笑顔は、いつもと変わらなかった。
だから安心した。
……安心してしまった。
「オフィーリア・フォン・ローゼンベルク様。」
不意に、王宮侍従が一礼する。
「陛下がお呼びです。」
その言葉に、広間の音が少しだけ遠くなった気がした。
私は杯を給仕へ預け、ドレスの裾を整える。
「承知いたしました。」
歩き始める。
赤い絨毯の先には、王と王妃、そしてレオポルト殿下。
もう一人。
先ほどの少女も、そこに立っていた。
春の花の香りが、急に遠く感じられた。
◇◇◇
王の前へ進む。
絨毯の赤が、やけに長く感じられた。
私は歩幅を変えない。
辺境伯家の娘として。
王太子妃教育を受けた者として。
視線はまっすぐ。
歩く速さも一定。
緊張している時ほど、姿勢を崩してはいけない。
そう教わってきた。
「オフィーリア。」
王は私の名を呼ぶ。
「はい、陛下。」
私は一礼した。
王妃殿下は、どこか悲しそうだった。
殿下は、私を見ない。
そして。
隣には、あの少女。
まだ名も知らない少女が、小さく肩を震わせて立っていた。
誰も口を開かない。
楽団の音だけが遠く聞こえる。
華やかな夜会は、ほんの数歩向こうで今も続いていた。
誰かが笑っている。
誰かが乾杯している。
銀の食器が触れ合う澄んだ音がした。
世界は何も変わらない。
そう見えた。
けれど。
私は知っている。
橋が落ちる時も。
魔導具が壊れる時も。
大きな音など、最初はしない。
最初に狂うのは、ほんの小さな違和感だ。
歯車が半分だけ噛み合わないような。
紙一枚ずれたような。
そんな、小さな違和感。
そして、それを放っておくと。
ある日突然、全部が止まる。
私はそんなことを考えてしまって、自分で少し可笑しくなった。
こんな場所でまで、辺境で父に教わったことを思い出すなんて。
「……失礼いたします。」
王が静かに言った。
それは誰へ向けた言葉だったのか。
私には分からなかった。
王妃殿下は目を閉じる。
殿下は拳を握り締める。
少女は今にも泣き出しそうだった。
私は。
ただ静かに、次の言葉を待っていた。
――その夜。
王宮では、春を祝う音楽が夜更けまで鳴り続けた。
誰もが笑い、
誰もが語り、
誰もが春の訪れを祝った。
けれど私には。
あの夜会で、本当に始まっていたものが何だったのか。
その時はまだ、分からなかった。




