ヴァイキング、馬車、騎士
ヴァイキングは海賊という一面だけではなく、交易商という一面もありました。倭寇などでもそうですが、簡単に奪える相手からは奪い、そうでない場合は取引を行うというのが珍しくありませんでした。それは商業という物が一度きりの機会主義的行動だからです。
交易が何度も行われるものであれば、機会主義的行動は双方に不利益となりますが、一度きりの可能性が高ければ機会主義的行動の方が利益が上がります。つまりローマ帝国時代の定期的な商業活動が、アルプス以北では失われた事を示しています。
ヴァイキングというと海賊ですが、実際には海だけではなく大きな河川も利用していました。例えばセーヌ川を遡ってパリを何度も襲っていたロロというヴァイキングは、フランス王とうか当時の西フランク王からセーヌ川河口のノルマンディー一帯を奪い取り、911年にノルマンディー公国を造ります。また、それより前、862年頃にはヴァイキング、スラブ語ではヴァリャーグの一派と言われるルーシ族(Rus)によりノブゴロド国を造り、更に20年後にはキエフに移ります。バルト沿岸から黒海まで大河を通じた交易路ができていたのです。
このルーシ(Rus)がロシア(Russia)の由来となっています。その為スラブ系の歴史学者からはルーシはノルマン人ではなくスラブ人だったという学説が出され、西欧のノルマン人説と議論になっていますが、私はノルマン人説を支持します。
その理由は鋼鉄にあります。
『ドイツ騎士、モンゴル騎兵、鎌倉武士』の所でウルフバートについて少し触れましたが、実はこのウルフバートは鋼鉄を造れないヨーロッパで使われた鋼鉄の剣の鍛冶師グループでした。その製法は坩堝による製鉄です。この時代坩堝による製鉄として有名な鉄がもう一つあります。イスラム圏で使われたダマスカス鋼です。
ダマスカスはファンタジーでも割とよく聞きますが、800年頃からイスラムで知られた技術です。従ってイスラム教と敵対していたヨーロッパには入ってきませんでした。一方ヴァイキングはキリスト教徒ではありませんでした。12世紀末に北方十字軍という十字軍運動があり、カトリックがバルト沿岸やスラブ圏に入っていきますが、それ以前のヴァイキングはイスラム教徒とも普通に交易を行いました。従って野蛮人のはずのヴァイキングにイスラムの優れた技術が伝わっていた事になります。
ウルフバートの銘が刻まれた剣はロシアのヴァリャーグや北欧のノルマン人に使われていた武器です。つまり鋼鉄の武器がダマスカスからヴァイキングに伝わったと考えるのが自然です。
ロシアで使っていたのはヴァリャーグ、つまりロシアに住み着いたヴァイキングであり、一般のスラブ人ではなかった事も、ルーシがスラブではなかった事を意味していたと思われます。
このようにヴァイキングは野蛮人である事は否定できないものの、その技術は意外と高かったのです。
そういえば某ヴァイキングのアニメでも、奴隷になった主人公が仕えていた農場主が持っていた剣にウルフバートの銘が入っていましたが、実はその銘が実在の偽物の銘だったという落ちが着ていました。お気づきの方はいらっしゃいましたでしょうか。
鋼鉄と同様にノルマン人がヨーロッパで最初に使い始めたものがあります。それは馬具の頸環です。馬が馬車や犂等を牽く為に使うものです。それ以前は頸木等を使っていた為馬の呼吸を阻害し、馬の能力を万全に発揮できませんでした。それ故農業に使われる動物として馬より牛が使われていました。
頸環は中国で5世紀には発明されていましたが、ヨーロッパでは920年頃にスカンジナビアで使われ始めました。ヨーロッパ全土に広まるのは12世紀まで掛かります。そればかりかイギリスで農業用の動物として牛より馬が多くなるのは15世紀まで掛かりました。
この頸環は馬の呼吸を阻害しない為、馬は漸く実力を発揮できるようになり、それ以前は馬より牛が優れていると考えられていたのが、馬の方が牛の5割増しの能力を発揮するようになります。そればかりか頸木では2頭立てしかできない構造だったものが、多頭立てが可能になり、馬車一台の積載量が上限400kgだったのが2.5tに大幅増大しました。
馬車そのものも発展します。それ以前の馬車というのは大八車のように二輪か三輪の荷馬車でした。そもそも初期中世は道が小道しかなく曲がりくねっているので四輪などでは道に沿って曲がるのも一苦労です。しかし前輪を車軸を中央で旋回できるようにした四輪馬車が使われるようになります。
この頃の馬車は四輪でも前輪が小さくなっていますが、それは前輪が車軸の中央で旋回する構造だったからです。
少し後には六輪の大型馬車も登場します。
「Pageant wagon」という面白い馬車があります。興味のある方は画像検索で見て頂きたいですが、中世に生まれた動く劇場です。初期は神秘劇とか聖史劇と呼ばれる聖書の逸話を元にした劇を演じていました。
馬車で一度に運べる重量が増すという事は、それまでは船でなければ運べなかった量の輸送が道路を使って運べるようになるという事です。大量の穀物を運べる事で大量の穀物を一度に挽ける水車や風車が作られるようになります。そして重要な事は重いもの、つまり石を運べるようになったという事です。
1100年前後から石橋が作られるようになります。更に石造りの城も作られるようになります。
ローマ時代の大荘園の場合荘園主は都市に住み、郊外の、あるいは遠隔地の荘園を支配していました。荘園が盗賊やヴァイキングに襲われても都市から兵を派遣するのでは間に合わないのです。だからと言って各荘園に少数の兵を派遣しても守るには足りません。ところが石造りの城を造れるようになり、少数の兵でも荘園の民や貯蔵した穀物を守れるようになります。
こうして荘園のそれぞれに小さな城とそれを守る城主を派遣するようになります。そしてその城の防衛範囲をcastellanyという単位に分割して守らせます。これが唯の騎兵ではなく下級貴族としての騎士の始まりです。
貴族である荘園主とその下で各地の防衛を行う騎士という形が成立するには、騎士の拠点としての石造りの城が必要であり、頸環と馬車の発達がそれを河沿いではない内陸にも建設できるように成ったのです。
荘園の名目的な領主に代わって、騎士が実質的な領主になるのは、日本の中世の地頭と同じです。
大きな城の騎士は単なる騎士を越え、子爵級の貴族と見做されました。ドイツ語では城伯と呼ばれます。もちろんそうした騎士はほんの一部で、大半は10人くらいで守る程度の小さな城でしかありませんでしたが。
この頃造られた城はモットアンドベイリーと呼ばれる形式で、ノルマンディーから、即ちヴァイキングの造った城から始まっています。
モットは小山あるいは小丘を意味し、ベイリーは防壁を意味します。つまり小山に堀と壁で守った防御施設です。囲いの中の中心にはキープと呼ばれる高い防御用の建物が建てられました。日本語では天守と訳されます。この一連の建築物をモットアンドベイリーと呼ぶようになったのは後世の事で、当時はラテン語でcastellumと呼んでいました。英語のcastleの語源です。
キープの事をフランス語ではdonjonと呼びますが、これがイギリスでdungeonに変化し、意味も最初は天守として使われていましたが、やがてその地下施設を指す言葉に代わっていきました。天守の地下には、防御が一番硬いことから宝物庫とともに地下牢や拷問部屋があると考えられていました。
近世になり騎士階級が没落した後、主の居ない城の地下には恐ろしい拷問部屋や死者の霊と共に城主の隠し財産があるという伝説が生まれるようになります。これが皆大好きダンジョンの伝説です。
伝説はともかく、実際の中世初期の城に地下牢はありませんでした。基本的に騎士程度の小領主が長期に犯罪者を捕らえている必要がないからです。より大きな貴族なら牢獄である建物を造るという事はありました。カーナーヴォン城の刑務所の塔は王が建てた物ですし、そうした立場なら重要な囚人というのも解ります。しかし農村の犯罪などは罰金か、その場で幾つか杖や棍棒で叩いたり、追放したり、処刑したり、何にせよその場で終わるような刑罰なのが普通です。
日本の城でも隠し財産だとか隠し部屋とか色々な伝説が生まれるように、西洋の城だって噂が生まれるものです。特に既に城主の居ない城なら怒る人も居ません。厳重な扉の付いた窓の無い地下室とくれば秘密の囚人を閉じ込めていたと想像するのは理解できます。実際は氷室を兼ねた食糧貯蔵庫だから密閉性が高いのだとしても。
こうして見て来ると、ヴァイキングはフランスやイギリス、ドイツにとって、防衛すべき敵であると同時に、防衛の為の城の築き方を教え、封建制と騎士を生み出し、中世ヨーロッパを生み出すには無くてはならない存在だったとわかってきます。
歴史はこのように塞翁が馬としか言えないような皮肉な発展をする事が間々あるのです。




