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近代日本の戦争のあれこれ(1/2)

 近代日本が明治維新を成し遂げ、国際社会と向き合った19世紀は帝国主義の時代でした。

 帝国主義は産業革命の結果生まれたものです。

 産業革命が進展し、イギリスのファラデーが1831年に電磁誘導を発見し、発電機の基礎理論を生み出しました。翌1832年にはフランスのピクシーが手回し発電機を作り、そこから様々な電気に関する技術が生まれます。1838年にはアメリカ合衆国のモールスが電気通信を行い、1844年に実用化されます。そして1876年にはアメリカ合衆国のベルが電話を発明します。

 1856年にはイギリスのベッセマーがベッセマー法という製鉄技術を生み出します。これは鋳鉄に空気を送り込む事で炭素を除去し、鋼鉄にする方法です。『ドイツ騎士、モンゴル騎兵、鎌倉武士』の所で触れましたが、ヨーロッパでは鋼鉄はウルフバートを例外に作る技術がありませんでした。しかしスウェーデンでは不純物の少ない上質な鉄鉱石を産出していたので、これをるつぼで浸炭させて鋼鉄を生み出していました。ウルフバートの技術の後裔でしょう。それをイギリスのベンジャミン・ハンツマンが1740年にコークスを使ったるつぼ法で鋼鉄を生み出します。そして生まれたのが鉄鋼の町シェフィールドです。シェフィールドの場合ベンジャミン・ハンツマン以前は年間200トンの鋼鉄を作るので精一杯でした。しかし100年後には年間80,000トンに急上昇します。これは当時の全ヨーロッパの鋼鉄生産量の半分近くに達していました。逆に言うとヨーロッパ全体でその程度の生産量でした。参考までに2024年の世界の粗鋼生産量は18億8260万トンです。

 ベッセマー法により粗鋼生産量は増加し続け、1900年には世界合計で2800万トンに達します。19世紀に粗鋼生産を行う事のできる国はいわゆる列強に限られていました。その中でもアメリカ合衆国は1900年で35%を占め、1945年には61.1%に達します。

 安価で大量の鋼鉄の供給によりそれ以前の鋳鉄レールは鋼鉄レールに置き換えられ、鉄道の発展を生み出しました。

 『ヴァイキング、馬車、騎士』でヨーロッパでは11世紀辺りから石の橋が造られるようになったという話をしましたが、1779年に初めて鉄の橋が造られます。世界遺産にもなっているアイアンブリッジです。但し鉄でも鋳鉄製でした。そして19世紀後半には錬鉄が使われるようになります。錬鉄はリベットで鉄を組み合わせる事を可能にしました。更に19世紀末から鋼鉄が構造材として使われるようになります。


 1885年にドイツのダイムラーがガソリンエンジンを、1892年に同じくドイツのディーゼルがディーゼルエンジンを発明します。

 こうして発展した産業は小規模な工業では足りなくなり、資本や労働力の集中が必要になります。カルテル、トラスト、コンツェルンといった形で企業がまとまり、大資本が誕生します。大資本は国家とも結びつき、原材料の確保や市場の独占を求めて植民地を奪い合うようになります。輸出するものも単に商品というだけではなく、例えば鉄道システムを輸出する為に資金を貸し出し、資本自体を輸出するようになります。


 こうして世界は列強と植民地という二つの立場に分かれる事になりました。

 明治政府は当然列強の側になろうと努力し、周辺の琉球、朝鮮半島、台湾、満洲と勢力を拡げます。



資源問題



 大砲というと鋼鉄を連想するかもしれませんが、プロイセンのクルップが鋼鉄で大砲を造ったのが1851年です。これはるつぼ鋼で作ったものでした。1854年のイギリスのアームストロング砲は世界初の実用的鋼鉄砲であり、前装式から後装式へ、滑腔砲からライフル砲の変更という点でも画期的なものでした。

 ではそれ以前の大砲はというと、14世紀に製造された大砲は鋳鉄の鋳造砲でしたが、15世紀から16世紀に青銅砲に置き換えられ、19世紀前半までは青銅砲が使われてきました。実は鋳鉄より青銅の方が大砲を造るには優れた金属なのです。1861年から1865年に起きたアメリカ合衆国の南北戦争でも多数の青銅砲が使われ、戦争が終わって余った大砲が幕末の日本に安価に輸出されました。こうした経緯で明治日本は大量の青銅砲を装備することになりました。

 1931年に中村草田男という俳人が「降る雪や 明治は遠く なりにけり」という句を詠みますが、明治の青銅砲は第二次世界大戦中にも使われていました。現在のロシアがそうであるように、戦争が長引いたり拡大して武器が足りなくなると、骨董品を持ち出すものです。


 青銅に限らず銅は重要物資です。鉄は火花が散る金属なので、火気を嫌う場所ではパイプなどに銅合金を使います。銅は戦国時代の日本では輸出品の一つでしたが、近代日本では不足していました。空母大鳳の沈没の原因は要因が多すぎて特定できていませんが、後期に建造した艦船では銅合金を使うべき場所で鉄を使っていた為、艦内部での火花がガソリンに着火した事が原因の可能性も考えられています。

 銃弾は鉛玉ともいわれるように鉛が主な金属です。この鉛も戦国時代でさえ不足して輸入していましたが、近代でも当然不足します。その鉛玉ですが、鉛は柔らかく体内で変形して飛び散ったりして被害が大きくなります。そこで1910年に発効したいわゆる「ハーグ陸戦条約」で鉛を銅などで表面を覆うようになります。「フルメタル・ジャケット」と呼ばれる銃弾です。ここでも銅が必要です。

 大砲の弾も砲弾に回転を与える為に弾帯という銅製の部品を使います。

 戦争中に銅像やお寺の梵鐘等銅製品を回収した話は有名です。

 この様に鉄や石油以外にも多くの物資が必要で、それらもアメリカの何十分の一の生産力でした。


 満州事変時17個師団だった帝国陸軍は終戦時172個師団に10倍に増やされました。ところが弾薬の生産量は殆ど増えず、非戦時の17個師団の弾薬しか生産できませんでした。

 総兵力で言うともっと酷くて、1936年から1945年に掛けての10年で20倍以上に増えるのです。

 1941年の陸軍は51個師団でしたが、蓄積された弾薬は105個師団が1会戦行える量しかありませんでした。1会戦分の弾薬とは小銃1丁当たりだと300発、軽機関銃用が1機辺り8,000発、重機関銃用で25,000発等です。この数字は野戦兵器廠に保管されている分も含んだもので、前線部隊が持っている量はそれぞれ120発、2,120発、5,400発です。

 しかし生産量が乏しい為弾薬は減る一方で、小銃弾は1937年以降年間5億発程の生産量でしたが、1944年には4億弱、1945年には終戦までの約半年で5908万発と本来小銃を持つ兵士一人に24クリップ120発の弾薬が支給される筈のところ、末期には1クリップ5発しか支給されなかったという話もあります。

 200ミリ以上の大口径砲弾は1943年5万6千発(ピークの数値)、1944年5千発、1945年0発でしたから、1943年で戦闘能力は尽きたようなものです。

 何年も戦えるような生産体制ではなかったのです。


 無計画に占領地を拡げ、その維持の為に兵を増やし、必要な補給は行えない。その挙句が銃剣突撃というのが陸軍の実情でした。


 一方アメリカはと言うと、弾薬の生産が全軍需生産の1割でした。と言うと少なく感じるかもしれませんが、戦車・車両の生産とほぼ同額、艦船生産の約半分という額です。

 序(ついで)に言うと、米国は太平洋戦線3割弱、ヨーロッパ戦線7割強の割合で予算を振り分けていました。アメリカからすると重要なのはヨーロッパで日本はアメリカが参戦する為の口実作りの為に利用した程度の相手でした。それが予想より被害を出したという点は問題ですが、日本を優先して叩く程とも思わなかったという事です。

 仮に日本がハワイを占領でもしていたら2倍3倍に増えていたでしょう。万が一西海岸に上陸でもすれば全力で対日戦になり、数は4倍かそれ以上になったでしょう。税率などでもまだ余裕がありましたから。


 アメリカ国民は基本的にヨーロッパでの戦争を望んでいませんでした。

 想像してみてください。第一次世界大戦に参戦したアメリカの兵士達は西部戦線で悲惨な経験をし、もううんざりだと思ったでしょう。それが1918年の事です。そして21年後の1939年。戦場帰りのアメリカ兵が帰国して子供を作り、その子供達が成人した頃にまたヨーロッパで戦争が起こり、今度は息子達が戦場に送られるとなったらその戦争に賛成するでしょうか?その国民を何とかして参戦させるにはどうするか。

 織田信長が勢力を拡げて包囲網を敷かれたように、日清戦争でもやり過ぎて三国干渉を受けます。そして仏印に手を出しABCD包囲網です。勝った後の第三国の反応という物を考えないで失敗する。明治以降の日本は対華二十一箇条要求とか満州事変とか仏印進駐とかちょっと機会が有りそうだと思うと手を出し嫌われて行く行動が多すぎました。

 戦場で日本が勝ち続けても意味がないのです。戦術と戦略の問題で、戦略的に勝利が無い以上戦術でどれ程勝っても最後は負けるという戦争です。

 戦う程資源は減り、勝ち続けてもじり貧。それなら大量の資源があれば勝てるかと言うと、そんな資源があればそもそも戦争をする理由がありません。



満洲とペスト



 清という国は漢民族の国ではなく、満洲族の国です。いわゆるチャイナドレスや辮髪などは満洲族の風俗です。満洲族は満洲を故地とする騎馬民族で、本拠地の満洲は清にとっては聖地でした。従って満洲には満洲人以外は入れない決まりでした。1850年の満洲の総人口は320万人程、現在の日本の面積が37万8000平方キロメートル、満洲の面積は130万平方キロメートルですから非常に人口が少ない過疎地です。しかしその満洲にロシア人が入ってくるようになり、1860年頃から満洲人以外の人の移住を認めるようになります。

 1900年に義和団の乱が起き、清国政府も列強諸国も北京に気を取られている間にロシアが満洲を占領してしまいます。1900年の満洲の人口は1200万人を越えていました。1910年には1800万人程まで増えます。


 余談ですが、満洲に流入してきた諸族の多くは流民、難民の類で、勝手放題の犯罪者集団も少なくありません。しかし清朝には治安を維持する能力は最早無く、元々の住民は自分達で身を守る必要があります。そうした自衛組織が満州特有の馬賊になって行くのです。

 馬賊は水滸伝の梁山泊の精神を受け継いでいるとし、強姦や虐待等を禁止し、地元の道路や橋の普請を行い、貧民に施しを行う等自治組織としての活動も行います。が、規模が拡大するにつれ規律は低下し、犯罪者の集団になって行きます。

 日本人は満州に流入した側であり、満洲人から見れば勝手に満蒙開拓団等と言って住み着いたのですから追い出そうと襲撃します。日本人側は馬賊を犯罪者集団と見做します。しかし日本とロシア・ソ連が敵対すると、どちらも馬賊を味方に付けようと支援するようになります。こうして馬賊を巡る複雑な関係が生まれるようになります。


 話を戻します。

 満洲には弱っているネズミには近付くなという内容の民話がありました。しかし急激に増えた満洲人以外の人々にとっては地元の民話など気にする話には思えませんでした。

 ペスト菌はネズミノミが保菌している細菌です。媒介者はノミであってネズミではありません。従ってネズミもペストに感染し、発病します。満洲の森林地帯はペスト菌常在地域でしたから、感染したネズミに不用意に近付いた誰彼がペストに罹患しました。1910年に満洲でペストが流行し、翌年までに6万人の死者が出る事態になります。


 遡る1855年、ペスト菌常在地域の一つである雲南省で発生したペストは徐々に拡大し、1894年に広東省に達し、そこで大流行し、10万人近い死者を出しました。広東省は香港(ホンコン)や澳門(マカオ)があり、列強の進出が盛んな土地です。被害者は列強の人間にも拡がり、インドやオーストラリア、北アメリカにまで達します。1899年には日本にも拡がり、40人の死者が出ています。

 なお1894年には香港に派遣された北里柴三郎博士がペスト菌を発見しています。


 こうした前例から、南でペストが落ち着いたと思えば今度は北かと世界中が注目します。

 1911年、清国政府が「万国鼠疫研究会」または「奉天国際鼠疫会議」という国際会議を主宰します。これは清国が初めて開いた国際会議であると同時に、国際的に協力して疫病と戦った事例です。

 とか言うと格好良いのですが、昨今のコロナでもあったように、伝染病の政治問題化が起きたという事です。日露戦争で勝って満洲に影響力を増した日本は、ロシアと共に列強各国から責められる側です。日本は満鉄を通して南満医学堂(後の満洲医科大学)を作り、関東軍防疫給水部を設置します。後に生物兵器や人体実験で問題にされる通称731部隊などの創設経緯です。

 731部隊の真実には触れませんが、2011年に金子論文という医学論文が見つかりました。731部隊の金子順一という学者が博士論文として提出したもので、昭和19年防疫研究報告に載っている論文です。細菌散布実験について書かれた論文ですが、医学論文として歴史学者が研究していなかった為2011年まで見つかる事がありませんでした。この様に資料と言うのは後からでも出てくるもので、何が真実かは中々わからないものです。


 余談ですが、この頃極東に移住したロシア人達の多くはウクライナ人でした。

 ロシアでも19世紀に工業化が始まり、ウクライナにロシア人が入り込み、追われたウクライナ人たちはアメリカ合衆国やカナダに移住したり、極東に移り住んだりしました。満洲の沿岸部は昔は清の一部でしたが、後述するアロー戦争でロシアが自国に組み込んだのです。後に第一次世界大戦でロシア帝国が滅んだ後、極東ウクライナ共和国乃至緑ウクライナという国が短期間ですが生まれます。

 更にユダヤ人嫌いのスターリンの頃にユダヤ人自治区がつくられ、ユダヤ人が送られてきます。



阿片



 中国における阿片の蔓延は阿片戦争とそれに先んじるイギリスの阿片輸出に始まります。それ以前にも漢方薬として知られてはいましたが、阿芙蓉と呼ばれていました。しかしそれを煙草のように吸入する習慣はありませんでした。イギリスが新商品として売り込み流行らせたのです。

 阿片戦争は1840年から1842年の事件ですが、その後1856年から1860年にかけて第二次阿片戦争、あるいはアロー戦争と呼ばれる戦争が起きます。イギリスとフランスが清と戦った戦争ですが、アメリカとロシアも介入します。

 この結果賠償金や各種の権利に加え、阿片取引を合法化され、満洲の東の海沿い、後に沿海州と呼ばれる土地等がロシアに割譲され、ウラジオストクが誕生することになります。更にイギリスの船が年季奉公の中国人をアメリカに運ぶ権利が与えられます。これは苦力(クーリー)と呼ばれる実質奴隷の様な労働者です。この条約が結ばれたのが1860年であり、彼らはリンカーンの業績でもある大陸横断鉄道に駆り出されます。1861年から南北戦争が始まる事を考えると、現代の学校教育でのリンカーンの評価が作られたものである事がわかります。

 しかしこの結果アメリカに下層労働者としての中国人が増え、清の混乱もありアメリカだけではなく海外に移民する中国人が増えていく事になります。そして世界各地に中国人街ができますが、その中国人は阿片中毒であり、結果として阿片がどういう物かが世界中に知られていくようになります。


 アロー戦争でフランスも中国に利権を得ましたが、イギリスが香港(ホンコン)を中心としたように、フランスは上海(シャンハイ)を中心とします。上海(シャンハイ)は列強が租借地を得ていた国際都市ですが、フランスの影響が強かったのです。そのフランスが租借地の警官として雇った巡査に黄金栄(こうきんえい)という人物がいます。彼は青幇(チンパン)と呼ばれる秘密結社に属していました。青幇(チンパン)はヤクザの親分の集まりの様な集団で、黄金栄(こうきんえい)は親分の一人でしたが、フランスは中国人を抑えつける為に中国人警官に武器を与えます。それにより黄金栄(こうきんえい)は上海(シャンハイ)の暴力を支配するようになります。

 20世紀に入り、アメリカ人の宣教師が阿片を禁止すべきだと訴え始めます。世界中に広がった中国人とその阿片の影響を見た多くの人が阿片の害を感じるようになっていました。1909年に上海国際阿片会議、1911年にハーグ国際阿片会議が開かれますが、批准する国は有りませんでした。

 第一次世界大戦が始まると、鎮痛剤としてモルヒネが大量に使われ、ヨーロッパ中で多くの中毒者が発生します。それによって戦争後は各国が真剣に考え始めるようになりました。

 しかしそう簡単には止められない事情がありました。1918年の香港政庁の総収入の内、阿片専売収入が46.4%、シンガポールは55%、フランス領インドシナは42.7%と植民地経営の予算に阿片は止められないものだったのです。


 表向きの国際条約として1920年に阿片は禁止されます。ところで1920年というともう一つアメリカで禁止された物があります。禁酒法です。禁止されると闇で売られるのは常識の様なものです。アメリカでアル・カポネが酒を売って儲けたように、中国で大儲けしたのが黄金栄(こうきんえい)の子分の杜月笙(とげつしょう)でした。杜月笙(とげつしょう)もフランスと手を結び、フランスの武器で上海(シャンハイ)の裏社会を支配します。フランスにとっても邪魔な上海(シャンハイ)での共産党の活動を潰すのも青幇(チンパン)の仕事です。

 孫文は1920年からソ連に接近し、1924年に国共合作が成立します。そして反帝国主義運動として共産党の扇動で各地でストライキや暴動が起きるようになります。1925年5月15日に上海の日本の工場で起きた暴動に工場の監督官が発砲し共産党員が射殺されました。それに対する30日に行われたストライキに対して、租界の警察官である青幇(チンパン)が鎮圧します。五・三〇事件と言われる事件です。こうして上海(シャンハイ)や香港(ホンコン)で混乱が広がります。1927年3月21日には周恩来率いる共産党が上海(シャンハイ)を占領します。

 1927年4月12日蒋介石が反共産党クーデターを起こします。

 蒋介石は黄金栄(こうきんえい)の義弟でした。師弟関係の義弟、弟子です。従って青幇(チンパン)が協力するのは当然ですが、この時暴れたのが杜月笙(とげつしょう)で、列強、蒋介石、上海財閥と手を組んで上海の暗黒面を牛耳って行きます。そればかりか表向きも「陸海空軍総司令部顧問」「軍事委員会少将参議」「行政院参議」といった肩書を得て権力中枢に近付いて行きます。

 蒋介石が金と権力を得る為宋美齢と結婚した時に、妻の陳潔如を別れさせアメリカに送ったのも杜月笙(とげつしょう)でした。中華民国の裏にはかなり密接に青幇(チンパン)が居た訳です。

 アンドレ=マルローというフランスの作家が居ますが、五・三〇事件後の五・三〇運動と呼ばれる反帝国主義運動の起きる香港を舞台にした『征服者』、蒋介石のクーデターを舞台にした『人間の条件』という本を書いています。興味がある方は是非流し読みでも。当時の雰囲気が伝わります。


 1912年に辛亥革命が起こり清朝は滅びます。清の領土は名目上中華民国の領土になりましたが、実際は孫文が中国の南端で革命を始め、そこから孫文、袁世凱、蒋介石と権力争いをしつつ、北伐や寧漢戦争、蔣桂戦争といった地方軍閥との戦いを続け、独立した国を吸収し、1928年にようやく北京に入城し、1930年の中原大戦でほぼ統一がなされ、残った最大勢力として共産党との戦いが続きます。

 第一次世界大戦の勃発により欧米列強は中国どころではなくなります。その間に日本は満州に勢力を根付かせようと画策します。関東軍が1931年に満州事変を起こし1932年に満州国が建国されますが、実はこの頃1931年の中華ソビエト共和国、1933年には福建の中華共和国と東トルキスタン共和国、1935年の冀東防共自治政府など各地で独立国が誕生していました。

 最後の冀東防共自治政府は日本政府の意向に反して帝国陸軍が勝手に工作した結果です。冀東というのはその当時の河北省が昔の冀州に当たる場所なのでつけた名前です。日本でも越の国とか甲州とかの旧国名を使うようなものです。尤も冀東防共自治政府のできた場所は三国時代のイメージで言うなら幽州西部に当たる場所ですが。


 関東軍が好き勝手に行動できたのは、関東軍が天皇直隷の軍で、政府の指揮下になかったからです。関東軍は日露戦争で獲得した租借地関東州の軍です。ここで言う関東の関は函谷関です。

 政府を無視して好き勝手な関東軍ですが、政府を無視すれば予算がありません。関東軍が資金調達に使ったのが阿片です。阿片戦争で負けた清は阿片を取り締まれず、中国は阿片塗れでした。イギリスはベンガルなどイギリスの植民地で作った阿片を売っていましたが、中国国内でも阿片を作る阿片商人が生まれていました。その中心地が熱河省です。1933年に関東軍は熱河省を占領し、満洲国に組み込みます。更に阿片生産地である内蒙古にも侵出しますが、同じく阿片を狙っていた帝国陸軍と暗闘を繰り広げます。

 関東州は地方費予算の半分、特別予算を含めた全体なら四分の一が阿片による収入でした。ヨーロッパ列強と同じようなものですね。


 中国の各勢力も阿片の利益に頼っており、熱河の場合1921年に熱河都統が始めた事業で、1926年に張作霖の手に移り、その死後張学良に移ります。1929年に張学良は禁煙令を出し、表向きは阿片を禁止し取り締まる側になりますが、部下には阿片の増産を命じます。自分たち以外の売人を取り締まる為の禁止政策だったという訳です。



覚醒剤



 阿片に続いて覚醒剤かと言われるかもしれませんが、覚醒剤が生まれたのは1893年の事です。

 日本の長井長義教授が生薬である麻黄の研究を行い、1885年に分離した物質にエフェドリンがあります。これは喘息用の薬としての効能がありました。このエフェドリンから合成されたのがメタンフェタミンとアンフェタミンで、所謂覚醒剤です。

 最初は喘息用の薬として開発されたのですが、疲労回復や眠気解消、ダイエットに効果があるとして使われます。更に1936年のベルリンオリンピックでこれを使用した米国選手への効果に注目が集まったという話もありますが、これは詳細不明です。

 疲労回復や眠気解消などの効果を目的に最初に利用するのを考えたのはナチスドイツでしたが、直ぐに各国も追随します。


 始めは覚醒剤の危険性は軽視されていました。長時間の行動が必要なパイロットや潜水艦乗りには必要不可欠な物と考えられたのです。ドイツはペルビチン、米英はベンゼドリンという商標で兵士達に配りました。日本ではヒロポンです。ヒロポンと言うのは聞いた事があるかもしれません。戦後も軍需品のヒロポンが大量に流出し、その結果覚醒剤の危険性を国民に知らしめる事になりました。日本では1951年に覚醒剤取締法(初期は覚せい剤取締法)が施行され禁止薬物になりました。


 しかし第二次世界大戦当時では重要な軍需品として扱われました。特に、休みなしに移動する電撃戦には必要な薬でした。フランス戦の開始直前の1940年4月にはドイツ陸軍に1400万錠のペルビチンが配られ、その後も12月までに陸軍と空軍併せて2800万錠が配給されます。教科書には書かれない電撃戦を支えた薬というわけです。

 アルデンヌの森を昼夜を分かたず進んでフランス軍の防衛に先んじてフランス国境を越えるには眠らず運転を続ける超人兵士が必要になります。その超人兵士を作るのが覚醒剤だったのです。

 英国でも第二次世界大戦中にベンゼドリン7200万錠を使用するなど各国が使用しました。日本のヒロポンは10億錠作られたと言われています。


 原料の麻黄ですが、ドイツは内蒙古産の物を日本から輸入していました。


 第二次世界大戦後は多くの国で禁止され、1971年には向精神薬に関する条約という国際条約で世界的にも禁止されています。

 しかし米軍では現在まで戦争の度に兵士に支給されています。ベトナム戦争ではデキセドリン、湾岸戦争ではスピード、アフガニスタン紛争でもデキセドリンが配られ、日本でも米軍の横流し品が問題になります。


 実は自衛隊法、第百十五条の三で「麻薬及び向精神薬取締法等の特例」として現在の日本でも自衛隊は麻薬や覚醒剤を取り扱う事が認められています。


 教科書では取り上げられる事の無い戦争の一面です。

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