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叙任権闘争・1

 叙任権闘争というのをどこから始めるべきか。そもそもそこに至る流れを知らないで話せるのか。そう思って「叙任権闘争前夜」と「カトリックとオーソドックス」を書いたので、そちらを読んでいる前提で書かせて頂きます。


 登場人物の紹介からです。

 先ずは皇帝ハインリッヒ4世です。


 彼の父ハインリッヒ3世は先代皇帝コンラート2世とシュヴァーベン公の娘ギセラの息子でした。後にレオ9世がシュヴァーベン傭兵を連れて行ったのはこの縁です。

 ハインリッヒ3世は教会勢力に領地を寄進する事で諸侯の経済力を削った皇帝です。その事でロートリンゲン公と争い勝利し、ロートリンゲンを領地を上下二つに分割する事にも成功します。他にも各地で反抗勢力を叩き、権力を強化しました。

 そして教皇の混乱を鎮める為イタリアに2度も遠征します。

 その多忙の間、1050年にハインリッヒ4世は生まれました。ハインリッヒ3世33歳の事です。名付け親は第6代クリュニー修道院長フーゴでした。

 母親アグネスは実はハインリッヒ3世の2番目の妻で、最初の妻グンヒルドはベアトリクスという娘を産んだ後半年でマラリアで亡くなります。ベアトリクスは奉献され3つの女子修道院の院長になります。

 アグネスの父親はアキテーヌ公ギョーム5世ですが、アキテーヌ公ギョーム1世がクリュニー修道院を建てました。そういう家の出身です。


 ハインリッヒ3世は幼い頃から英才教育を受けていました。その為か我が子ハインリッヒ4世にも1054年、3歳でローマ王(ドイツ王の事)に就けます。しかし英才教育を施す間もなく、1056年ハインリッヒ3世は38歳で病死します。鹿の肝臓を食べて重病になったとも言われています。


 ハインリッヒ4世はこの時5才であり、ローマ王(ドイツ王)とは言え政治は無理です。そこで母親のアグネス皇后が摂政に就きます。アグネスはハインリッヒ3世が獲得した公爵領を自分が公爵夫人として領有しようとしましたが、上手くいきませんでした。結局アクネス皇后は有力者を味方につける為公爵領を手放す事になります。

 先ず10656年のクリスマスにロタリンギアの宮中伯エッツォの甥コンラートにケルンテン公国を譲ります。翌1057年ルドルフ・フォン・ラインフェルデンにシュヴァーベン公国を譲ります。


 アグネスは家族愛が強い人物だったのかもしれません。

 ルドルフ・フォン・ラインフェルデンはハインリッヒ4世の姉である9歳又は11歳のマティルデを、コンスタンツ司教ルモルトの修道院から誘拐し、アグネス皇后を脅迫してシュヴァーベン公爵位を奪います。マティルデは婚約という名目で人質にされ、1059年に10歳又は12歳で結婚しますが、1060年5月12日、11歳又は13歳で亡くなります。

 これは当時の年代記作者フルトルフ・フォン・ミヒェルスベルクによる記録です。

 ルドルフ・フォン・ラインフェルデンには1060年生まれの息子ベルトルトが居ますが、彼がマティルデの息子であるかは不明です。


 シュヴァーベンは本来ベルトルト・フォン・ゼールンゲンに譲るとハインリッヒ3世が約束していた領地でした。それを横からルドルフに奪われた為、ベルトルトは1061年にケルンテン公コンラートの死後改めてケルンテン公に封じられます。


 更にノルトハイム伯オットーにバイエルン公国を譲る事になります。


 アグネス皇后は夫の領地を守れませんでした。しかし諸侯の支持は受けており、仮にハインリッヒ4世が若くして亡くなった場合に次の皇帝を選ぶ権利があると認められていました。


 そんなアグネス皇后に衝撃的な事件が起こります。

 1062年4月初旬、ハインリッヒ4世とアグネス皇后はライン川の中州にあるヴェルト離宮に滞在していました。宴会が終わった後、1059年に皇帝により、つまりアグネス皇后によりケルン大司教に任じられたアンノはハインリヒ4世をライン川に係留した豪華な船に招待しました。ハインリッヒ4世が船に乗り込むと、一味は船を押し出し川に出ます。初めは茫然としていたハインリッヒ4世ですが、川に飛び込みます。しかし一味のブランズヴィック伯爵エグベルトにより引き上げられます。


 このシーンを年代記作者ハースフェルトのランペルトの記述で見てみましょう。


 しかし、大司教に雇われた者に囲まれて船に入るやいなや、漕ぎ手はすぐに集まり、全力でオールに飛び付くと、船を川の真ん中に急いで押し出しました。王は、これらの予期せぬ出来事に唖然とし、何が起こっているのかわかりませんでしたが、彼らが王を殺害したいのだとしか思えなかったので、真っ逆さまに川に飛び込みました。そのままだと彼は荒れ狂う海で溺死する筈でした。しかしエグベルト伯爵は、彼が身の大きな危険にもかかわらず、彼の後に飛び込みました、 そして致命的なの危機に瀕している王を困難を乗り越え溺死から救い出し、船に戻ったのです。


 舟に乗っていたものの記述という時点で怪しいですが、ランペルトの記述は全体的に反皇帝色で溢れています。しかし19世紀まではこの記述が信じられて来ました。20世紀になって文章の比較研究による信憑性の検討が行われるようになって、ランペルトの年代記は信憑性が低いと見做される様になりました。


 逃げおおせたアンノ一味はアグネス皇后から帝国レガリアを奪います。帝国レガリアとは日本の三種の神器のような権威の象徴となる物の事です。アグネス皇后は修道院に引退しようと考えますが、そうするとハインリッヒ4世を守る者が居なくなると説得され止まります。


 こうして権力を奪取したアンノ一味は、アンノが嫉妬する副摂政のマグデブルク司教ハインリッヒを引きずり下ろし、全ての権限を剥ぎ取り、代わりにアンノの弟をその座に就けます。マグデブルク司教ハインリッヒは平民の出自であったので、王の教育には相応しくないと考える者も多かったようです。また、マグデブルク司教ハインリッヒの性格が傲慢であった為とも言われます。更にマグデブルク司教ハインリッヒとアグネス皇后が不道徳な関係だからだという噂が流されました。しかし、平民出の司教という事と、アンノのその後の行動を見れば実態は想像できます。

 現代の研究者はアンノ一味の欲望だけではなく、アグネス皇后の教育方針である「成熟、知恵、厳格な道徳」を恐れたのではないかと主張する人もいます。

 アンノはハインリッヒ4世の教育権と教師の称号を得ますが、ハインリッヒ4世に教育を施しませんでした。


 アンノは1063年7月14日に王国と王の収入の9分の1をケルン教会、即ち自分に移す事を布告します。年代記作者ランペルトはアンノ支配の時代を帝国の黄金時代と呼びました。ランペルトは反皇帝派であり反教会改革派です。ハンブルク教会史を書いたブレーメンのアダムも「権力に飢え支配に執着するハインリッヒ4世」のイメージを喧伝しました。そしてその一方で一味は帝国の財産を自分の懐に入れ続けました。

 面白い事にアンノは教会改革派に繋がる人脈の人物でした。


 しかし教皇アレクサンデル2世と対立教皇ホノリウス2世の対立でアンノがイタリアに行っている間に、クーデターグループの一員でもあるハンブルク=ブレーメン大司教のアダルベルトが権力を奪取します。


 実はアダルベルトはクーデター一味ではあるものの、皇帝と教皇では皇帝派でした。

 アンノは教皇派なのでその点で対立しているのですが、欲望が結び付けていたのでしょう。その様な仲なので割と簡単に内部争いが始まります。


 1065年3月29日、成人に達したとしてハインリッヒ4世が親政を始める事になります。

 ハインリッヒ4世は戴冠式の後アンノに斬り掛かり、母のアグネスが辛うじて止める事ができた、とランペルトは書き残しています。

 まあ嘘、大げさ、でっち上げを書いても、そうした記録を書くのは僧侶しかいない時代の記録なので。

 日本で言えば元寇の時日本の武士は役に立たず、祈禱により神風が吹いて追い返す事ができたという記録を昭和の半ばまで皆信じていたようなものですね。

 現代になってもっと細かい記録や物証を調べて最近になって嘘が判ってきているのです。


 ハインリッヒ4世は12か所の修道院を高位聖職者と世俗諸侯に与え、味方に引き入れようとします。しかし1066年1月、アンノは諸侯と手を結びアダルベルトから権力を取り戻します。この際ハインリッヒ4世の義兄だったシュヴァーベン公ルドルフはアンノと同盟を結びます。

 1066年5月中旬、ハインリッヒ4世は突然重病に倒れます。病状は2週間で回復しますが、一時は危ないと見られ諸侯が次の皇帝を探し始める程でした。

 ハインリッヒ4世は10年前からの婚約者で一つ下のサヴォイアのベルタと結婚します。6月に王妃の戴冠をし、7月に結婚式を行うという大急ぎの結婚でした。


 ハインリッヒ4世とサヴォイアのベルタの結婚にはけちが付きます。

 ハインリッヒ4世は1069年に諸侯に対し、仲が良さそうに騙してきたがそれは嘘で離婚を望んでいると告げたとランペルトは書きました。ランペルトによればハインリッヒ4世はベルタは処女のままだと証言しています。

 ランペルトと同じ反ハインリヒ4世であるメルセブルクのブルーノによればハインリッヒ4世は次のような事をしたと言います。

 ハインリッヒ4世が旅人をそそのかしてベルタに姦淫を強要させます。しかし、ベルタは陰謀を見抜いて、姦淫を目撃したかった夫を椅子の脚と棒で殴打し、ハインリッヒ4世は1か月間ベッドで寝込む事になりました。ハインリッヒは、ヴォルムスでの会議で、親密な関係はなく、ベルタが姦淫で告発されたと述べます。むしろ、彼は妻との結婚生活をもはや続けることができないことを強調しました。

 そしてその離婚騒動は、教皇アレクサンデル2世がハインリッヒ4世を破門すると脅したところハインリッヒ4世は屈して離婚を取り下げたという事になっています。

 なぜ突然と思うでしょうが、1069年にまたもアンノが追い出されアダルベルトが政権を握ります。


 整理するとこうなります。

 1062年、クーデターでアンノが権力を握る。(反アグネス宣伝開始)

 1064年、アダルベルトが権力奪取。(ハインリッヒ4世親政開始)

 1066年、アンノ権力再奪取。(突然の重病&ハインリッヒ4世結婚)

 1069年、アダルベルト権力奪取。(離婚騒動)


 ハインリッヒ4世とベルタの間には、以下の子供が生まれます。

 アーデルハイト(1070年 - 1079年)

 ハインリヒ(1071年8月1/2日 - 1071年8月2日)

 アグネス(1072年夏/1073年前半 - 1143年9月24日)

 コンラート(1074年2月12日 - 1101年7月27日)

 ハインリヒ5世(1081/86年8月11日 - 1125年5月23日)


 後に出てきますが、所謂カノッサの屈辱に際してベルタはハインリッヒ4世と共にカノッサに向かい、積極的に関わります。

 またハインリッヒ4世はベルタの仲介で67の勅許状を発行しています。これはハインリッヒ4世がその期間内に発行した勅許状の四分の一に当たる数です。

 傾向としてベルタは夫の政策を支持し、軍人への擁護を行いました。また交易に興味を持ち、個人的な物だけではなく国としての交易にも介入しました。

 ラウジッツ辺境伯デド1世との交易に力を入れました。

 デドは1069年に王領を含む領地を奪おうと戦争になりますが、ハインリッヒ4世に破れ捕虜になります。このデド1世との交易を勧めたのがベルタで、そのお陰かデドは穏健派になり、1073年に起きるザクセン貴族の反乱では宥めようとし、1075年にキエフ大公がザクセンに侵攻した際にハインリッヒ4世の代わりに防衛戦を引き受ける事になります。

 この様に軍と交易に介入したベルタですが、教会には殆ど恩恵を与えませんでした。

 この様に皇后として生きたベルタですが、歴代の皇后としては大人しい方でした。


 ベルタは1087年12月27日に36歳で亡くなります。

 ハインリッヒ4世は1089年には次のアーデルハイト・フォン・キエフと結婚します。


 さて、ハインリッヒ4世とベルタの結婚。どのようなものだったと思いますか。


 1069年のラウジッツ辺境伯デド1世の反乱以来1075年迄ハインリッヒ4世はザクセン貴族の反乱に悩まされる事になります。しかしこの事は本題には関係ないので省きます。




 次の登場人物の紹介です。


 放蕩を尽くした教皇ベネディクトゥス9世から教皇位を買った挙句シルウェステル3世と返り咲こうとしたベネディクトゥス9世と教皇位を争ったグレゴリウス6世ですが、その助祭にイルデブランドという人物が居ました。貧農出身ですが頭が良く教皇の助祭にまでなったのです。しかしその教皇は座を追われ、ケルンに連れていかれました。1047年の事です。

 イルデブランドも共にケルンに行きました。グレゴリウス6世が1048年に亡くなると、イルデブランドはクリュニーに引っ越し、クリュニー修道院に入ります。


 教皇にドイツ人のレオ9世が即位する際イルデブランドも一緒にローマに行きます。そこで教会改革の為に働きますが、レオ9世は南イタリアでの戦争に敗れ、その翌年に亡くなります。

 イルデブランドは教皇庁の使者としてハインリッヒ3世に次の皇帝の推挙を求めてドイツに向かい、ウィクトル2世が選ばれるとその下で働きます。しかしハインリッヒ3世が崩御するとウィクトル2世はハインリッヒ4世の摂政であるアグネス皇后の補佐としてドイツに戻ります。


 やがてウィクトル2世が崩御するとその後継としてステファヌス9世が選ばれ、イルデブランドはその下で働きますが、ステファヌス9世は1057年から1058年の短期で崩御してしまいます。


 次の教皇として選挙をやる前にベネディクトゥス10世が即位します。彼はトゥスクルム伯アルベリック2世の孫でベネディクトゥス9世の甥というローマ系門閥貴族でした。つまりドイツの目が届かない今ローマ貴族の手に教皇を取り戻そうというクーデターでした。

 イルデブランド達は改革の灯を絶やすまいとフィレンツェ司教をニコラウス2世として擁立し、アグネス皇后の支持を得てイタリア貴族を引き込みます。ニコラウス2世はそれに加えノルマン人を認める代わりに手を組みます。そしてベネディクトゥス10世を倒し、幽閉します。


 ニコラウス2世は、遠くにいる、幼帝と軍事力の無い皇后の代わりにノルマン人を教皇の戦力としようとしたのです。

 そして更に教皇選挙を枢機卿だけによる選挙で決める制度、コンクラーベを制定します。1059年の事です。


 因みにこの結果ハインリッヒ4世と激しく対立なんて事はありません。9歳のハインリッヒ4世は勿論、アグネス皇后もそんな暇はありません。

 怒ったのはドイツの裁判所と司教達でした。ローマ教皇の任命権を勝手に廃止した事。元々ピピン3世やカール大帝が教皇に寄進した土地を勝手にノルマン人に分け与えた事等を怒り、ニコラウス2世の宣言の無効を決めます。一方ニコラウス2世も2度にわたって公会議を開き1059年の宣言の確認をします。


 1061年ニコラウス2世は崩御し、その際アレクサンデル2世を後継指名します。


 イルデブランドはアレクサンデル2世を擁立すると皇帝に承認を求める使者を送りました。

 アレクサンデル2世が擁立された28日後、アグネス皇后の名でバーゼルで集会が開かれます。アグネス皇后はどっちつかずの態度だったようですが、帝国宰相ウィルベルトによってニコラウス2世の選挙令を無効とします。

 ドイツ側の意見として「普遍的」な教皇を選ぶのにローマ人だけではなくローマ皇帝によっても選ばれるべきであると主張しました。そして対立教皇ホノリウス2世が選ばれます。

 漸く一般的なイメージでの叙任権の問題が出てきました。


 実はこの時東ローマ皇帝コンスタンティヌス 10 世がホノリウス側に付いてノルマンから領土を取り戻す計画を言って来たのですが、その話が進む前にケルン大司教アンノのクーデターが起き、ホノリウスは直ぐに舞台から降りる事になります。と言っても1年2か月程戦争が続くのですが。

 しかし1064年、アンノがマントヴァに行っている間に仲間割れが起きました。アンノは権力を失いますが、1066年に返り咲きます。しかしその時にはハインリッヒ4世が親政を開始しており、アンノが取り戻せたのは聖界だけでの権力でした。そして1069年にアンノはまたも権力を奪われます。


 こうしてアレクサンデル2世は安定した環境を手に入れる事に……失敗しました。

 始まったばかりの戦争が終わって残念なノルマン人は1066年にあっさり向きを変えます。ローマ貴族なんだから改革派は敵に決まってるよねと考えるローマ南部のローマ貴族達もノルマン側についてローマ周辺を荒らします。

 アレクサンデル2世はトスカーナ辺境伯のゴッドフリート3世に援軍を要請し、1067年に漸く物資不足等でノルマン人を撤退させ、ノルマン人はさらに強力になるのでした。


 アレクサンデル2世は聖職売買(シモニア)を中心に様々な改革を進めます。

 聖職売買(シモニア)はローマとドイツでは少し違うものでした。ローマでは現代的なイメージ通り地位を買ってその地位で権力や金を得るという収賄です。

 ドイツでは諸侯の権力基盤や財産を削る為の武器であり、その金は第二の国庫という扱いでした。

 しかもケルン大司教アンノ2世という僧侶が幼い王を人質にして国と王の財産を奪うという事件を起こしたばかりです。


 1071年ミラノ大司教が亡くなり、皇帝は次のミラノ大司教を指名します。しかし教皇はそれを否定し、翌年自分達で選んだ人物をミラノ大司教に就けます。皇帝は話し合いの為5人の使者を送りますが、教皇は話し合いを拒み使者を破門するという強硬な手段に出ます。

 しかしドイツの事で忙しい皇帝はこの場は引きます。


 アレクサンデル2世は活発というか、強硬というか、外交でも積極的に行動します。


 1072年頃、アレクサンデル2世はバルバストロ十字軍と呼ばれるスペインのレコンキスタの一環で協力するよう呼びかけます。正確には次の教皇が同じくレコンキスタへの参加を求める手紙を出したものが残っていて、そこにアレクサンデル2世が同様の手紙を出したと書かれているのですが、他の行動から見ても本当でしょう。


 1070年、アレクサンデル2世は3人の教皇特使をロンドンに派遣し、ウィリアム征服王を支持し、戴冠式を行いました。更にカンタベリー大司教にランフランクスを就けます。ランフランクスはアレクサンデル2世の知り合いであり、ウィリアム征服王の友人でもありました。


 1071年には東ローマ皇帝ミハエル6世に使者を送り友好を深めようとします。


 1072年、アレクサンデル2世はポーランドのクラクフ司教にスタニスラウスを任じますが、スタニスラウス司教は2年後国王と揉めて殺される事になります。


 アレクサンデル2世の改革のもう一つとして、教会法の中での親族の等親の数え方を従来のローマ式からゲルマン式に変更したというものがあります。そして結婚を新しい数え方で7等親以内の婚姻を禁止します。

 教会法を世俗に広げる意思の表れと言って良いでしょう。

 教会が俗世に積極的に関わる方向に進むと言うのは、当然対立を産む事でもあります。


 1073年4月21日、大きく変革を齎そうとした教皇は崩御します。


 アレクサンデル2世の次の教皇として選ばれたのがイルデブランドでした。

 彼はグレゴリウス7世を名乗ります。

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