カトリックとオーソドックス
ローマカトリックとギリシャ正教。気軽に使ってきましたが、そもそも何時分かれたのでしょう。
8世紀、ローマは東ローマ帝国の一部でした。政治的にはローマではなくラヴェンナがイタリアの中心になっていました。より詳しく言うと4世紀の終わりにはローマの西の宮廷としてメディオラヌム、現在のミラノに政治の中心は移っており、402年にラヴェンナに遷都しました。そしてその後オドアケル、東ゴートと移り変わりますが、その辺りは「黄巾の乱、ラグナロク、そしてイスラーム」で触れました。その後東ローマがイタリアを再征服しますが、それも7世紀になると東ではイスラーム教徒の正統カリフ朝に押され、西ではゲルマン人のランゴバルド族に押されて居ました。
ローマ教会は政治的に不安定な状況が続き、東ローマ帝国の下安定していたコンスタンティノープルが力を付けて行きました。元々ペテロとパウロの逸話からローマは別格とされていましたが、コンスタンティノープル主教は自分も別格になる資格があると考えました。
751年、ラヴェンナが陥落するとローマ教会はフランク王国に助けを求めます。ランゴバルドはキリスト教ではありましたがアリウス派でローマ教会を重んじていなかったからです。ローマ主教はお礼の先払いというか、754年にピピン3世にフランク王位を授けます。
756年、フランク王国のピピン3世はランゴバルドを打ち破りラヴェンナを奪還しました。そして東ローマ帝国の領土であった場所を東ローマに返す代わりにローマ主教に寄進しました。この時ピピン3世はローマ主教からローマ貴族の称号を得ただけでした。
ピピン3世の息子のカール大帝の時代になると、770年にランゴバルド王は王女をカールに嫁がせた上で、774年ラヴェンナを攻めました。ランゴバルド王としては婚姻策で味方につけてから再征服という積りだったのですが、カール大帝は直ぐに出陣しランゴバルド王を破ります。そして自らがランゴバルド王となり、改めてローマ主教に寄進します。ローマ主教は今度はカールをローマ皇帝として戴冠し、東ローマ帝国と決別します。
まあこの時に作られたカール大帝の寄進状は偽書とされていますので、詳細は不明という話なのですが。
この時ランゴバルド王から奪った王冠は鉄の王冠と呼ばれ、イタリア王の象徴とされます。そしてカールの事例からドイツ王とイタリア王両方の王を兼ねてからローマ皇帝になるという習慣ができます。
ここから教皇と言っても良いでしょうが、実の所日本語の問題であって、教会ではずっとパパです。
ローマ教会が東ローマから独立したと言っても、キリスト教会として他の教会と決別したわけではありません。しかし東西の溝を深める次の問題がありました。
692年に開かれた公会議で議題に上がった偶像破壊と聖職者妻帯に関して対立が起きていました。ローマ主教は偶像破壊には反対で、聖職者妻帯には賛成でした。東ローマではその反対を主張していました。
結局ローマ主教はその公会議に署名しませんでした。聖職者妻帯は良いのかと思うかもしれませんが、この時にはローマ主教は許可していました。
その偶像破壊が東ローマ帝国では726年になって偶像禁止令が出されます。布教に絵や像が必要だと考えていたローマ教会では受け入れられず、敵意が上昇したという訳です。
偶像禁止令は843年に廃止されます。
しかし次の問題が直ぐに発生します。
キリスト教界では元々ギリシャ語が正でラテン語が従とされていました。聖書がそうですし、公会議で決まった信条と呼ばれる宗教上の解釈の決まりなどもそうでした。
その信条の一つで聖霊が父から来るというギリシャ語に対してラテン語の文を父と子から来ると変えていたのが9世紀になって見つかりそれに加えてそれを指摘したコンスタンティノープル総主教をローマ教皇が廃位を宣言し、コンスタンティノープル側はローマ教皇を破門するという騒ぎになりました。この問題をフィリオクェ問題と言います。「フィリオクェ」というのは「子から」という意味で、東が勝手にそれを削ったのだ、いや西が勝手に付け加えたのだと争っていた事から来ています。現在では偽造したのがローマ教皇だと判明しています。
更にその後もバルカン半島の国々がローマとコンスタンティノープルどちらに属するかで争い続けます。
そうして西と東で対立が増し、ついに決定的な事件が起こります。
始まりは南イタリアです。南イタリアにノルマン人が加わります。そしてノルマン人の領地となった土地にあったキリスト教会は元々コンスタンティノープル系の教会でした。しかし閉鎖の脅しを受けてローマ式の典礼に改めさせられます。1053年、コンスタンティノープル総主教ミハイル1世はそれについてローマ教皇に抗議の手紙を送ります。典礼に関しては特に使うパンが種なしか種ありかについて、それ以外に今まで問題になっていたあれこれを書き送りました。
ローマ教皇はハインリヒ3世の力で即位したレオ9世でしたが、当然反論します。その際「コンスタンティヌスの寄進状」と呼ばれる物を持ち出します。4世紀のコンスタンティヌス大帝が西ローマ帝国を全てローマ教皇に譲るという内容の書状です。レオ9世はこれを本物と信じていたようですが、8世紀半ばの偽書でした。しかし公式にこんな物があると持ち出したのはレオ9世が初めてでした。当然コンスタンティノープル側はそんな物を信じる訳がありません、
更に称号についてもレオ9世は怒ります。ミハイル1世は自分の称号を全地総主教とし、レオ9世に対して「兄弟」と呼びかけたのですが、ローマ教皇としては自分は「父」であり、全地総主教等という称号も受け入れられないという訳です。
聖職者妻帯についても揉めました。7世紀の時には妻帯賛成だったローマ側は、今回は厳禁を言い出します。コンスタンティノープルでは上位聖職者は妻帯を禁止していましたが、司祭以下の聖職者には認めていました。ローマでは全面禁止だと言い出したのです。
7世紀末から11世紀の間に起きた教会改革の成果とも言えます。
そしてローマからの使者としてフンベルト枢機卿がコンスタンティノープルにやって来ます。フンベルトは元々ベネディクト会の修道院長だった人物です。「叙任権闘争前夜」をご覧いただけば、ベネディクト系の修道院長というだけで堅物だと解って頂けるでしょう。
ローマからの返答にコンスタンティノープル側は腹を立て、公式な面会を拒否します。そうして数か月が過ぎました。その間にイタリアでは別の事態が発生していました。
南イタリアでノルマン人が勢力を拡大させるにつれ、周囲の東ローマ系の貴族達は撃退されたイスラーム勢力よりノルマン人を恐れるようになります。そして教皇にノルマン人をやっつけてくれと言い出します。尤もノルマン人は略奪など色々仕出かして南イタリアで嫌われ者になっていたのも事実のようです。
ノルマン征伐を受け入れたドイツ人教皇レオ9世はシュヴァーベン傭兵を率いて南イタリアに向かい、イタリアの諸侯と共にノルマン人と対峙します。ローマ教皇と敵対する気の無かったノルマン人は和平を求めますが、連合軍は数的にも有利であり、拒否して戦いになります。
教皇軍は6,000、ノルマン側は3.500、しかもノルマン側は栄養失調状態。
結果は……勿論ヘタリアが敗北しレオ9世はノルマン人の捕虜になります。
簡単に説明しますが、教皇軍はシュヴァーベン傭兵700が中央と右翼の前線に立ち、左翼にイタリア各地の合同軍が立ちます。ノルマン側は右翼に重騎兵、中央に下馬した騎兵、左翼に騎兵でした。ノルマン側の右翼が教皇の左翼に攻撃するとシュヴァーベン傭兵が前に出ます。中央でぶつかり、更に左翼でもぶつかります。シュヴァーベン傭兵は精強で数に勝るノルマン兵と互角の戦いを繰り広げます。一方圧倒的多数のイタリア合同軍は壊滅して逃げ出します。そのイタリア軍を追っていたノルマン右翼の重騎兵が戻ってきてシュヴァーベン傭兵を後ろから攻撃します。シュヴァーベン傭兵は最後まで戦い全滅します。
この戦いは日本ではあまり有名ではないのですが、「Battle of Civitate」で動画を検索してみてください。英語ですが面白い解説動画が幾つも見つかります。内容が少しずつ違うのは元々情報が少ないので、想像で補ったりしている部分です。
この戦いでノルマン人の南イタリアでの優位が確定します。
レオ9世はノルマン人の捕虜となり、1053年の6月から1054年の3月までベネヴェントで過ごします。そしてノルマン人の要求を受け入れ1054年4月にローマに戻りますが、4月19日に崩御します。
時期でわかるようにミハイル1世とのやり取りもベネヴェントで続いています。
コンスタンティノープルのフンベルト枢機卿は1054年7月に至って腹を立てコンスタンティノープル総大主教にレオ9世名義の破門状を叩き付けます。この時フンベルト枢機卿にはレオ9世の崩御は伝わっていなかったようです。
そして総大主教の方もフンベルト枢機卿を破門します。
この事件を「東西教会の分裂」と言います。教科書的にはこの事件からカトリックとオーソドックスが分かれた事になります。
尤も当時の関係者としてはそれ程大事とは思っていなかったようです。
1095年、東ローマ皇帝アレクシオス1世はローマ教皇ウルバヌス2世に対イスラームの救援を求め、ウルバヌス2世は十字軍を引き起こします。ローマ優位を認めさせようという積りだったのでしょう。
しかし物事が望み通り動くかは別の話です。第4回十字軍はコンスタンティノープルを破壊し、略奪に強姦、虐殺と東西の関係に止めを刺す事になります。
この様に細かく言えば教皇などの称号やギリシャ正教って言って良いのとか色々あるのですが、面倒なので普段は一般に使われるような名称を使う事とします。そもそも日本語の名称だってその訳で良いのかと言いたい名前もありますし。
この様にレオ9世は教皇庁の腐敗に対し修道院による宗教改革と共闘し、南イタリアでのノルマン人と対決し、コンスタンティノープルとの対決すると歴史の流れの焦点となる時期に教皇になった人でした。
腐敗したローマ貴族だらけの教皇庁に修道院系の非ローマ人を多数取り込みローマ教皇庁の大掃除をしたと言って良いでしょうが、縁の下で頑張った人は目立たないものです。




