叙任権闘争前夜
結婚の所で触れましたが、カール大帝の下で学校ができ、官僚を育てるようになりました。その後フランク王国は分裂し、オットー1世が新たな皇帝になります。
870年のメルセン条約で仏独伊の三国の原型ができたと言われますが、イタリアは875年にはカロリング家の支配が終わり、混乱が始まります。それに合わせて教皇もローマの貴族達が内輪で教皇を選ぶような状態になり、882年から914年までの32年に15代の教皇が交代する程でした。その中でトゥスクルム伯という貴族が力を握るようになり、その妻テオドラと娘のマロツィア、その息子アルベリーコ2世が積極的に関与するようになり、2人は愛人や息子等を教皇にするようになります。914年から955年の事です。その間8代の教皇が代わっています。そしてアルベリーコ2世が955年に死去する際、息子を教皇に即位させます。これがオットー1世に戴冠する事になるヨハネス12世です。
ヨハネス12世は親の遺言で18歳で教皇になりました。クレモナ司教のリウトプランドによればヨハネス12世は10歳の子供をトーディの司教に叙任したり、自分の助祭を馬小屋で司教に叙任したり、父親の側室や自分の姪と姦淫を行いラテラノ宮殿(当時はバチカン宮殿は存在していたが教皇が住んでいたのはラテラノ宮殿だった)を売春宿にしたと言われていました。また公然と狩を行った。賭け事を行い、悪魔に乾杯した。そうした事を告白した枢機卿の目を潰してしなせたり、剣と鎧兜で武装し助祭を襲って焼き殺したとの報告書があります。
ヴェローナ司教のラテリウスは、狩や賭け事、ワインと言った不道徳な生活しか知らない偽証者を教皇にしてどのような改革が望めるだろうかと言っています。
他にも悪評だらけのヨハネス12世は近隣の征服を夢見て戦争を仕掛け、負けます。そしてオットー1世に助けを求めたのです。
こうしてイタリアに向かい、ヨハネス12世を助けて、962年に帝位に就いたオットー1世ですが、ヨハネス12世に「姦淫に満ちた生活を諦める」事を提案しました。ヨハネス12世はオットーに不満を抱き、マジャール人とビザンツ帝国、そしてオットーに助けを求める原因になったイタリアの敵にまで共闘を持ちかけます。963年にオットー1世はヨハネス12世を廃位し、レオ8世を教皇に就けますが、ヨハネス12世はレオ8世を追い出し再度ローマにもどります。しかし、964年に27歳で死亡します。死因は脳卒中とも情事の最中に夫に殺されたとも言われています。
尚、レオ8世も死因は腹上死と言われています。
この時代の教皇はろくな死に方をしていません。
オットー1世は教会に対して聖職売買や聖職者妻帯を禁止し、教皇や司教の任命に口を出すようになります。こうして皇帝が教皇及び教会に対して叙任権を獲得します。司教は領地や財産を持っていても本来1代限りの筈です。しかしこれまでは聖職者が平然と結婚し子供を作り、その地位を金で買って受け継ぐのが当然になっていたのです。あるいは親子でなくともアルプス以北の司教や大司教の地位が金でローマ人から選ばれるのです。それを皇帝が任命し、受け継げなくしたのがオットー1世の教会政策です。
その後皇帝は別の効果もある事に気付きます。本来の一代限りの司教であれば金を使って遊んだとしても何代も同じ土地で勢力を築いた貴族より面倒が少ないという事です。そこで貴族に土地を教会に寄進させます。そして皇帝が司教を任命すればそれは皇帝の力となるのです。
とはいえそう直ぐに教会が真っ当になる訳が無いのです。教皇の目が届くドイツはまだしもイタリアは相変わらずです。
1032年、トゥスクルム伯の息子が18から20歳で教皇位に就きます。ベネディクトゥス9世です。一説では11から12歳とも言います。
オットー以前の混乱の元凶のトゥスクルム伯はまだ教皇選出に力を持っています。叔父のベネディクトゥス8世とヨハネス19世は先代トゥスクルム伯の息子なので3代続けてトゥスクルム伯出身の教皇です。
ベネディクトゥス9世の評判を聞いてみましょう。
「聖職者に扮した地獄からの悪魔」「嫌悪すべき姦淫と殺人者」「彼の教皇としての生涯は嫌悪すべきもので、腐りきったもので、忌まわしいものでしかない。私は身震いを禁じえない」
1044年、ベネディクトゥス9世は評判が悪すぎてローマを追放されシルウェステル3世が即位するもベネディクトゥス9世が戻って再び教皇になります。しかしグレゴリウス6世に金650kgで教皇位を売り渡します。ところがやはり教皇になりたくなって三度教皇位に就こうとします。
こうして三人が教皇位を主張する破目になります。
面倒になってから呼び出されて皇帝ハインリヒ3世が仲介する事になります。1049年にドイツ人教皇レオ9世が即位して何とか落ち着くまでにベネディクトゥス9世、シルウェステル3世、ベネディクトゥス9世、グレゴリウス6世、クレメンス2世、ベネディクトゥス9世、ダマスス2世、レオ9世と6年で何事かという有り様。
レオ9世はローマ人によって腐り果てた教会を改革しようとします。オットー1世が改革しようとして改革できなかった聖職売買や聖職者妻帯を今一度ローマで禁じようとします。
ここで別の話をします。
「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」
「パンとサーカス」のユウェナリスの言葉ですが、古代ギリシャ・ローマの常識でもありました。古代ギリシャではオリンピックが開かれていたのはご存じの通りです。古代の人物の彫刻や絵等は筋肉がはっきり判るたくましい姿です。女性像でも、例えばミロのヴィーナスだって良く見ると全身の筋肉が判ると思います。
キリスト教は禁欲を説く宗教です。禁欲の実践として荒野へ向かい一人で瞑想して神と対話する。そういう生活が一種の理想の生活と考えられました。
ギリシャ語でμοναχός、ラテン語でmonachus。一人で生きる者と言うような単語です。これが後に修道士になります。
初めは一人で活動していた隠者が集団で暮らすようになります。エジプトの砂漠やトルコの荒野では無く、人の住む場所の近くでそうした瞑想生活をするのは一人では難しいでしょうから仕方のない事です。
そこで集まった修道士による修道院が作られます。そうすると宗教組織としての教会組織に修道院も組み込まれるのですが、元々一人で瞑想するのが目的の修道士にとってそうした組織に組み込まれるのは望ましくない事でした。教会組織はセナトール貴族と言われるローマ元老院に属するような古いローマ貴族が食い込んでおり、特に西ローマ帝国の崩壊と言われるような政治組織の混乱の中でセナトール貴族は教会に加わって権力を揮っていたので、禁欲と瞑想を目指す修道士から見れば一緒にされたくない相手だったでしょう。
451年にカルケドンで開かれた第四回公会議において、修道院の建設には司教の許可が必要とされました。
修道院側は反発しますが、455年にアルル司教が招集した地方公会議において、ガリア全域の修道院に影響力を持っていたレランス修道院の院長との話し合いの結果、修道院の設立は司教の許可が必要である事、修道院の院長の選出は修道士が決める事が決められました。痛み分けでしょう。
しかし修道院の存在はキリスト教の布教にとってはとても重要でした。非キリスト教徒のガリア人等の人々にとって自らに厳しい日常生活を送り、働いて得た余剰な作物などを気前良く貧しい者に喜捨する修道士は、日々の生活の欲から来る気苦労からの解放に見えたのでしょう。
権利を得た司教達は人里離れた場所ではなく都市に修道院を作って行きました。
元の人里離れた場所に作られた修道院はモナステリウムと言われ、修道士はモナクスでした。しかし都市に作られた修道院はバシリカと言われ、修道士は兄弟と呼ばれます。バシリカは特定の聖者の名を持ち、主にその聖者の遺徳を称える為の集団で、戒律も緩い修道院でした。要するに司教に都合の良いお手軽修道院です。現代のスローライフへの憧れを実現させた修道院の誕生です。
こうして厳しい修行と禁欲生活を経て完徳を成し遂げた者のみが院長になれる為院長が空位である事も珍しいモナステリウムと禁欲生活を緩くしてセナトール貴族でも院長になれるバシリカの内バシリカが増えて行くのです。
修道院に向いていたのか、アイルランドやウェールズにでは5世紀頃から修道院が幾つもできます。
ゲルマンにアハト刑というものがありましたが、血族や地縁を捨てて一人で生きると言うのはとても大変な事です。日本ではなくアフリカのサバンナやフィリピンのジャングルで一人で暮らす事を想像すればスローライフなどとは言えないだろうと思えます。しかしケルト人にはそうした苦難を尊重する伝統があったようです。彼らは修道院さえ生温いと一人で漂泊する道を選びました。
アイルランド系の修道士は漂泊の目標として各地で布教を行い、その厳しい禁欲の姿で信徒を得て行きます。アイルランドの厳しい精神は自らの欲、即ち罪を突き詰めて考える事を要求し、告解と贖罪を要求するようになります。
「家族」のところで触れましたが、告解と贖罪は魂の救済を求めて土地を修道院に寄進するようになります。そうすると修道院院長の財力や権力が増していくようになります。それと同時に修道院の設立に関わったような大口の寄進者は修道院の中で称えられ、名が残る事になります。そうなると貴族などが子供を奉献し、将来の院長にしようとするようになります。
例えば日本である武将の菩提寺を建て、そこにその武将の子孫が僧侶として入って来たらどうなるか。
修道院と土地の有力者の関係はそうした影響を受けるようになります。
5世紀終盤にローマ貴族の家に生まれたベネディクトは初めはローマ貴族らしく法律などの勉強に励みましたが、周りの貴族の堕落にこのままでは自分も堕落すると考え修道士を目指します。
初めは洞窟で修行していましたが、彼を慕い教えを乞う人間が増え、修道院を建てます。しかしそこで地元の教会と対立し、モンテ・カッシーノにあったアポロン神殿を破壊しそこに修道院を建てます。まあ異教の神殿を破壊してそこに教会や修道院を作るのはキリスト教の伝統のようなものです。
ベネディクトはその修道院の方針としてora et labora、祈りそして働けと言います。
伝説では若い頃学んだ知識を生かして規則を残したのですが、その中に修道院の周りに農地を作れと言うものがありました。まあモンテ・カッシーノの場合は周囲のアポロンの聖なる森を畑にしたのですが。
「家族」の所で奉献の子という話をしましたが、その受け入れ規則を作ったのもベネディクトです。奉献自体は既にこの頃もありますが、それを規則化したという事です。
ベネディクトの晩年にスコラスティカという女性修道士が出てきますが、彼女は奉献の子で、キリストの花嫁として捧げられた子供でした。当時の風習としてベネディクトの妹になります。そうした女性は現在でも居て、処女修道会(Ordo Virginum)として5000人程いるそうです。
ベネディクトの規則はモナステリウムとバシリカの間位のものでした。
後にカール大帝がこのベネディクト戒律を書写させ国中の修道院に送り、標準となって行きます。
ベネディクト修道院では仕事として畑仕事等の生活に必要な仕事だけではなく、書写活動も重視されていました。それがカロリングルネッサンスを生み出し支えるのに大きな影響があったと考えられます。
ところで修道院の持つ農地は何を作っているのでしょうか。本来なら自分達が必要な最低限の食料を作って後は貧しい人への喜捨となるべきかもしれませんが、教会組織として組み込まれた修道院は他の農民とは違って商業主義で市場で売れる作物を作る事ができます。しかも貴族領主の場合直轄地以外は農民の自由なのに対して、全てを院長が指示できます。そして労働者は生活の為ではなく修行の為の労働なのでブラック労働も問題なし。経営するなら修道院ですね。
キリスト教は利子を禁じています。ユダヤ人のみに認めてその分税を取っていたという話も聞いた事があるでしょう。その一方で富を溜め込むのは貪欲の罪であり、富は流通させてこそ善だという考え方もありました。
そう、修道院は金貸しもしていました。まあ日本も中世は寺院が金貸しをしていたのでどこでもそんなものなのでしょう。個人の利益ではなく神に捧げるものだから利子も問題ないのです。そもそも利子が問題視されるのは12世紀頃に商業ルネッサンスで商人が金貸しをするようになってからなので、それ以前から金貸しをしていた修道院は大丈夫なのです。
更に修道院は少なくとも10世紀には貨幣鋳造権を得ていました。全ての修道院がという事ではなく、修道院毎に許可が出ていました。例えば聖マルタン修道院が以前から造幣特権を与えられていたという書状が931年付で出されていて、sancti martiniの銘が入った銀貨も発見されています。
バシリカ系修道院の俗人院長が修道院に行きもせず街で遊び暮らしている状態を見て怒ったのは真っ当な院長とカール大帝の次の王ルートヴィッヒ敬虔王でした。院長は修道院に住んで、修道院の外の人間と安易に会うなというような規則を作り、院長の選出時に王の承認が必要だとしました。
そんなに煩く言われるなら修道士なんてやめたいけどもっと楽に修道士ができないかなと考えた人たちが作ったのが参事会でした。個人財産も許されて修道院に住まなくても良い修道士の集まりです。
教会の司教や修道院長を国王が選ぶ理由に、豊かになり過ぎた教会財産を国に返納させ、その土地を封建騎士に与える事で金の掛かる騎士団を作っていたからです。ある意味教会財産を国庫として利用していた訳ですが、その分貨幣鋳造権などの特権を与えて儲けさせていたのです。
9世紀から10世紀にかけてノルマン人やイスラーム海賊がヨーロッパを荒らしまわり、教会や修道院も襲われました。そして多くの建物が壊され、修道士達が奴隷にされました。
無傷や比較的被害の少ない修道院は被害を受けた修道院を立て直そうとします。
壊された修道院を建て直すのは楽な仕事ではありません。厳しい状況でも耐えられる修道士達が修道院の垣根を越えて協力する必要があります。
こうして修道院の団体、修道会が生まれます。
910年、アキテーヌ大公ギョーム敬虔公は自らの魂の為クリュニーの所領を修道院建設用に聖ペテロと聖パウロに対して寄進します。つまり教皇にという事です。修道院長は厳しい修行をすると評判だった人物を指名します。内輪もめで忙しかった教皇はあっさり認め、クリュニー修道院ができます。ただし教皇直属の修道院で司教所属ではありません。しかも名目は聖ペテロと聖パウロなので王や親族は勿論、教皇さえも干渉させないと創建文書に書き入れる程の古風な修道院でした。
1023年、ローマ公会議でクリュニー修道院だけでなくその系列のクリュニー修道会に属する修道院はローマ教皇庁がクリュニー修道院を通して監督するとして、司教の介入を退けます。
クリュニー修道会に属する修道院は12世紀初頭には1500を超える事になります。




