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治安について 前編(3/3)

 農村も変化していきます。

 領主と言うと一定の土地を所有し、その土地の農民や農奴から税や地代を徴収する人というイメージだと思いますが、それだけではありません。中世初期はそれ程大きな地主ばかりではなく、自由農民として個人で農家を営む農民も多く、奴隷などを使って大規模な農家を営む大地主の自由農民、核家族に近い小規模な自由農民、大地主の下で小作を行う下層農民や奴隷の農地等が混在していて、農村社会というものすら未発達でした。

 中世初期は森を拓(ひら)いて農地を作るのは当然の事でした。水が豊かな土地などを探しては開拓するので飛び地ができます。


 日本でも同様の事がありました。

 八幡太郎源義家の三男義国は上野国八幡荘を相続しました。現在の群馬県高崎市の西側にあるJRの駅で言うと「群馬八幡」から「安中」辺りにあった荘園です。義国は更に下野国足利郡にあった開発中の土地も相続し、その開発を続けて足利荘を造ります。現在の栃木県足利市です。そして更に上野国新田郡を開発し新田荘を造ります。現在の群馬県太田市、伊勢崎市、埼玉県深谷市に亘る広い土地です。

 このように義国は飛び地を含む幾つもの荘園を造りました。

 最後に拓いた新田荘と八幡荘を長男の義重に、足利荘を次男の義康に遺(のこ)します。長男義重は新田を名乗り、次男義康は足利を名乗ります。更に子孫は近隣を開拓したり相続したりして幾つもの分家が生まれます。

 新田の家系からは八幡荘内の里見郷、山名郷より里見氏、山名氏が、新田荘の世良田郷、大館郷から世良田氏、大館氏が生まれ、後に武家として拡がって行きます。世良田氏は世良田郷の他に五郷を引き継ぎその中に得川郷があった事から得川を名乗った事もあり、その裔(すえ)であると称した松平家が得川改め徳川を名乗った事は知られています。

 足利の家系からは……まあ限(きり)が無いので省略しますが戦国時代にもよく聞く名前が沢山出てきます。


 源義国は12世紀の人で、この時期日本でも盛んに開墾が行われていました。ヨーロッパでも大開墾時代と呼ばれた時代です。中世温暖期に当たる時期なので世界中で同様な事が起きています。

 おっと、寒冷期に気候ボーナスを得ていたイスラームは温暖期でマイナスでした。

 日本でもヨーロッパでも農業が拡がり、余剰作物が生まれ、商業が盛んになります。日本だと商業系武士の平家が農業系武士の源氏と争いが起きたりもしましたが、ヨーロッパでは十字軍です。

 まあ同様にモンゴル高原では豊かな牧草で馬が肥えていた訳ですが。


 開墾が進み、農地が増えると漸く農村というものが生まれます。

 実は一般的にイメージされる農村がアルプス以北に生まれるのはこの辺りからなのです。


 日本史に詳しい方ならご存じでしょうが、日本でも惣村と呼ばれる村の形ができるのは鎌倉時代後期です。それ以前はというと、律令制初期の国が戸籍によって農民を個人で把握する時代が崩れ、名田という纏まりで把握するようになり、荘園の拡大と共に土地の権利者が入り組んで行ったのです。そうして複雑化した権利は大名による領国化で纏まるようになり、最終的には中世末期の太閤検地で整理される事になります。その領国化の途中で農民が村として纏まり、自治権を獲得し、領主に対して軍役を引き受けるまでになり、農民の中から地侍が生まれます。そうした地侍の取り纏めが国人であり、国人の取り纏めが守護大名になって行きます。

 惣村の自治の中心は乙名と呼ばれる力と経験のある老人達です。村の掟、惣掟を作り、村の若衆を実戦力として消防、警察等も惣村内で治めます。

 日本ではそうした裁判権、警察権を検断と言い、元々は国や領主の物でしたが、惣村ではそれを自分達で済ませる自検断を行うようになります。

 その様に百姓が力を持つようになると、領主に武力で対抗する事も可能になります。一揆という形での武力蜂起が中世後期に発生するようになるのはそれ故です。逆に言えば領主も百姓の意見を無視できないという事でもあります。戦国時代などで百姓が反抗できないというのは誤解です。先ほど述べたように地侍は百姓から出ているのですからそれを纏める国人が無視できる訳がありません。そして国人を無視できる守護は居ないのです。

 そう考えると三河一向一揆で多くの武将が一揆側に付いた理由もわかるでしょう。三河のような農民に近い下級の武将というのは農民と敵対できないのです。仮令その結果領主に逆らう事になっても。


 余談ですが百姓というのは本来農民とは違います。現在では同じ扱いですが、百姓は農民を含む平民全体を指します。

 大昔、姓(かばね)に職業を示す部民というのがありました。例えば神道関係の人は祝部、占い関係は卜部、食料関係の大炊部、弓を作る弓削部、矢を作る矢作部、織物の織部、田を作る田部等ですが、要するに色々な職業の人をひっくるめて百姓なのです。百姓という単語は読み方も幾つかあり、一般的には「ひゃくしょう」ですが、これは中世以降開墾が進み百姓に占める農民の割合が増加してからの発音で、現在の農民と同一扱いの言葉です。それ以前は「ひゃくせい」と読まれていました。更に和訓を振る場合「おおみたから」と読ませる事もありました。「天下万民は天皇の宝」という意味です。実際の農村でも兼業農家は多く居ました。職人や医者、薬師、商人などは専業でやっていける程客もおらず、と言って仕事が皆無でもないので、農地を借りて兼業でという事が多かったようです。

 もう一つ、江戸時代以前は百姓の流動性は高く、農民も農業ばかりをしていた訳ではなく、農閑期には戦争というのは戦国の発想で、農閑期には林業をしたり漁業をしたりと出稼ぎに行っていました。まあ流動性が高いのは「米と小麦」の所で触れたように米の国は人口密度が高くて移動しやすいからですのでヨーロッパでは無理ですね。


 ヨーロッパの農村は、と言う前に領主というものの話の途中でした。

 飛び地も義国ほどの規模ではなく、数人で耕す規模の農地の所有者がモザイク状に混在し、遠隔の農地を受け継いだもののそんな所の面倒を見られない。そんな場合土地を借りた農民を守る有力者は土地の持ち主ではなく別の有力者になります。土地を借りた地代などは土地の持ち主に払うものの、それとは別に守ってくれる人に人頭税を払うのです。こうした人間関係で繋がっているものの土地では繋がっていない有力者を「体僕領主」と言います。体僕領主は配下の農民に対して移動の制限、結婚の許可、相続税の徴収の権利を持っていました。

 更に広範囲の裁判権を持つ「裁判領主」というものが居ました。小領主同士の揉め事を解決する裁判権を持つ上級の領主ですが、小領主の領地が混在しているので農民同士の争いが領主同士の争いになる事も珍しくありません。従って上級の領主が複数の小領主を含む一定範囲の裁判権を持ち、その範囲内の住人から一定の租税を徴収し、裁判を行った時には裁判費用や裁判に負ければ罰金などを徴収しました。


 農民ヘルの証言。

 おらはラセツ男爵の土地を借りて畑仕事をしておりますが、ラセツ男爵は遠くに住んでいるので揉め事が起きた時には助けて貰えませんでして。そこで最寄りのアシュラ男爵に従属して守って貰っておりますです。しかし3マイル離れた土地を領地にする騎士カブトの孫の暴れん坊のコウジがこの辺りを荒らして作物や家畜を盗んだり柵を壊したりするんです。アシュラ男爵の部下の方々も直ぐに来てくれるんですが、逆にやられたり逃げられたりでどうにもなりませんで。それで今度この辺りの裁判をなさっているブロッケン伯爵に来て頂いてあのクソガキを、おっと、神よ許したまえ、暴れん坊のコウジを裁いてもらうという事になったんです。


 農民の従属関係がこのように複雑になると、逆に領主も好き勝手はできなくなります。

 勿論単純な土地も従属関係も一人の領主が握っている関係もありますが、複雑な関係の農民達は寄り集まって村落共同体を形成します。

 村民集会を作り、村の掟を作り、村役人を選ぶ。そうして領主に対抗する力を付けて行きます。こうした農村の変化が後に農民戦争等に繋がる事になります。


 村の掟ができ、集会や役人も自分達で出すとなれば当然村での揉め事は領主ではなく自分達でけりを付けようという話になります。ヴァイステューマーという農村などでの慣習法を纏めた物がありますが、農民同士だけではなく、領主の権利なども細かく書かれ、言い換えればそれ以上の要求ができないようになっています。


 村の集会に参加できるのは引き継ぐ農地を持つ農民だけです。中世の土地と言うのは正確には自分の土地を持つ自由農民と、領主の土地を借りている農民が居ますが、領主の土地を借りる権利が遺産として引き継がれるので、そうした農民も農地を持つ農民として扱われます。

 黒死病以後農村の相続関係が分割相続から一子相続になったという話を「黒死病」の所でしましたが、相続できない農民は農村の正規メンバーとは見做されませんでした。次男以降は村でも差別されるようになるのです。


 日本の流れと大体同じですね。開墾が進んで農民が多くなり、村を作って纏まった結果領主に対して発言権を得るようになる。話し合いが通じなければ一揆になるのも同じです。

 逆に違う所を見ると、キリスト教と黒死病が見えてきますが、ここでは触れません。


 中世の保護関係のイメージを掴み易くする為に日本で起きた実際の例を挙げます。


 1419年のある日、京のある元結屋に注文の品を受け取りに使いの下女がやって来ました。しかし注文の品は届いておらず、下女は店主を罵り「悪口(あっこう)」を吐きました。1232年の御成敗式目の12条に「悪口(あっこう)の咎の事」という条項があります。具体的に何を言ったのか知りませんが、言われた元結屋は怒って殴る蹴るの末下女の髪を切りました。現代でも髪は女の命と言いますが、当時は現在以上に重大な事でした。下女は主人に報告します。その主人と言うのが青侍(あおざむらい)・公家に仕える六位の侍だったので、主人の公家の転法輪三条公光(てんぽうりんさんじょうきんみつ)に下女の敵討ちを支援して欲しいと願います。

 一方元結屋ですが、報復を予想し準備を整えようとします。元結屋は幕府近習関口氏(徳川家康正妻の築山殿の先祖)と主従関係を結び若党となっていました。そこで関口家の同輩を引き連れ待ち伏せし、駆け付けた青侍にいきなり矢を浴びせ斬り掛かります。青侍は孤軍奮闘し相手をニ三人斬り倒し、元結屋と相打ちになります。両者死亡で終わったかと言うと、青侍の同輩達が怒り、関口の一党を成敗せんと向い、関口側も受けて立ち、一条室町で合戦となりました。数の多い関口側が勝ったものの、幕府側で関口の本家の吉良俊氏(きらとしうじ)が仲裁し、将軍足利義持(あしかがよしもち)も関口氏を譴責し、三条家側を賞賛しました。

 この様に誰が誰とどう結びついているのか判り難く、一寸した事が合戦になる。また合戦になっても自分の側を保護しなければならない。それが中世でした。


 御成敗式目で「悪口(あっこう)」を禁じるのも尤もな事です。それが直ぐに殺し合いになるのが中世だから。



 ここからは全体的な話ではなく、国によって違う話になります。


 イギリスでは十人組という制度がありました。

 日本の江戸時代に有った五人組のように共同責任を負わせることで相互監視させるシステムです。町や村で十人組に入っていない人間が見つかった場合は町や村全体の責任とされます。


 スペインにはSanta(サンタ) Hermandad(エルマンダッド)という団体がありました。聖兄弟団とでも訳しましょう。

 サンチャゴ・デ・コンポステラを建設し、巡礼が通るようになりますが、それを襲う強盗騎士が出るのもまた中世です。その強盗騎士や追剥を討伐し街道の安全を図ろうと、街道沿いの町や農村の町民や村民が作った武装組織です。


 実はスペインではイスラム教の支配下にあって自治傾向が強く、地方毎に纏まって武装治安組織のようなものを作っていました。その流れとして街道を防衛する組織ができたのです。

 組織は12世紀に生まれ1835年まで存続します。


 ドイツではヴェーム裁判所というものがありました。「秘密裁判」「沈黙裁判」「禁忌裁判」等とも言われていました。

 ヴェームの意味は不明です。罪を意味する単語だとも言われます。

 13世紀に生まれ、14世紀、15世紀に猛威を振るい、その後は細々と続き1811年に消滅します。

 大空位時代から金印勅書という流れで諸侯の力が強まり、帝国の裁判権が低下し、複数の裁判権が互いの裁判を邪魔してまともに裁判が行えなくなります。その反発として裁判官達の秘密組織が作られました。しかし秘密では有れど皇帝の名によって開廷される裁判でした。

 犯罪者は現行犯であれば即逮捕され、現行犯でなければ呼び出され、3回拒否するとアハト刑、裁判で有罪になると死刑で死体は晒されます。死体の横には「S.S.G.G.」と書かれたナイフを残す事でこれが殺人事件ではない事を示します。

 貴族の犯罪、盗賊等の重犯罪等に開かれました。

今回は三分割です

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