39 : Day -20 : Shin-ochanomizu
「きみは『コーラン』を読んだことはあるかね?」
飲み物を持ってきた店員と楽しそうに「萌え萌えキュン!」するイスハークを、チューヤが死んだ魚のような目で眺めてから10秒ほどしかたっていない、とはとても思えない流れでイスハークは言った。
チューヤは彼が怜悧な学者であることを、あらためてみずからの脳にインプットし直しながら、
「すいません、あんまり……聖書なら、ちょこっと」
「あはは、まあそうだろうね。いや、気にしないでくれ。そもそもアレは、読むようなものではないからね」
「そうなんスか?」
「たとえば聖書なら物語があるだろう? 主人公がいて、なにをした、どうなった。そういう物語なら、読んでいておもしろいこともあるだろう」
『旧約聖書』の「申命記」や「列王記」は退屈だが、「ヨブ記」や「ルツ記」には深い物語がある。
なかでも人の心を惹きつける力があるのは『新約聖書』、とくに四つの福音書についてはマストである、とされている。
「コーランはちがうんですか?」
「ああ。イスラム教徒にとってコーランは、聖書とはまったく意味がちがう。……このコーランというやつ、じつにやっかいでね。ただ命令と愚痴だけが書き連ねられているだけで、わたしなんか読んでてちっともおもしろくないんだよ」
「先生が、そんなこと言っていいんスか」
警戒の度を高めるチューヤ。
東京の闇に、イスラームの闇まで塗り固められたら、お先まっくらのような気がした。
「罰当たりな先生から教わったんだよ、わたしもね。しかしまあ、あれはあれで、楽しみ方がないわけでもない。
多神教徒は腐れ外道だの、やつらはみんな滅びるだの、ぼろくそ言っている一方で、信者たちもちゃんとしないと地獄へ落ちるだの、このまえはひどい目に遭っただの、まあ、いい年した男が腐った女みたいに、よくも愚痴れたもんだと感心はするんだよ」
「どこが楽しいんですか、それ」
「コーランはまだマシさ、一応は天使を通した啓示の形をとっているからね。ハディースなんか、もっとひどいよ」
愚痴を言っているのはあんたも同じだよ、と返してやろうかと思ったが、ひとまず黙って聞いておくことにした。
チューヤは、あまり聞きたくはなさそうに同語反復でお茶を濁す。
「ハディース?」
「ムハンマド自身の生活記録とか言行録みたいなもんだよ。このなかでは、うんこのしかたから、ケツの拭き方、小便のしかたまで指示してる。当時の人々までがおどろいているよ。あんたらの指導者は、排泄のしかたまで指導するそうですな、って」
「そりゃおどろくでしょうよ……」
「いやいや、この程度でおどろいてちゃいけない。男が精子を漏らして困るだの、女も漏らして困るだの、男は白い液で女は黄色いだの、陰茎がゆるくて困るだの、もうね、かなりエゲツないシモの話が、わんさか出てくるんだよ」
不遜とは思ったが、さすがのチューヤも食いついた。
「……ほんとですかぁ!?」
「ほんとほんと。女も汁を漏らすものだとか、一回やったらなるべく洗えとか、年寄りの女がお盛んで困るとか、恥を知れとか言ってるおまえの両手が土砂に流されろとか、まあ独特な言い回しで、下世話な話を赤裸々に語ってくれている。たいへんおもしろいよ」
「イスラム教徒って、肌は見せない、禁欲的な、つつましい人々みたいなイメージなんすけど」
「もちろん、それはそうだ。しかしヒジャブ一皮むいたところじゃ、えらいエキセントリックな連中が、けっこういるもんさ」
むしろ当時の中東にそういうタイプが多かったから、コーランやハディースで一定の「縛り」をかける必要があった、という必要に迫られてイスラームという宗教が誕生したのだ、という見方もある。
清廉でも潔白でもないチューヤは、なんとなく親しみをおぼえつつ、
「なんか、ちょっと安心しました。おなじ人間ですもんね」
「まあ、そんなわたしたちでも、日本の風俗には心からおどろくことが多いよ。ここまで特殊化を極めた業界というのも、そう……じつにおもしろいね!」
当然、イスラームの来歴を腐す資格は、日本人にはない。
とくに欲望の巷、ここ秋葉原では。
「言葉を選びつつ、うれしそうに言いますね……まあ風俗とか、俺はよく知らんですけど」
「きみたちは幸せだよ。わたしもこの国に生まれていたら、もっと早いうちから楽しめたのに」
「いま、たっぷり楽しんでいるでしょう」
「うん、そうだね。そう、楽しみたいだけなんだ。……本題はここからだよ」
ただごとでは済まない気配を、イスハークが出してきた。
彼は新たに、どんな冒険的「冒瀆」を成し遂げるつもりなのだろう。
「地下は魔窟だよ。地獄と呼ぶ人々もいるね」
イスハークが言うくらいだから、そうとうな修羅場を覚悟する必要はあるのだろう。
アイドルという美しい白鳥も水面下では必死に水をかいている、というたとえが適切かどうかはわからないが。
「地下アイドルって、たいへんらしいですよね」
気持ちわるい観客にあおられて、笑顔で跳ねるアイドル。
ぴょんぴょん飛び跳ねる、何度でも飛び跳ねる、果てしなく飛び跳ねる、客席に合わせて飛び跳ねる。
乳を揺らしたいのか、パンツを見せたいのか、汗で透けさせたいのか、つらそうな表情を見せたいのか、あるいはそのすべてか。
──地下アイドルは地獄に住んでいる、と再びイスハークは言った。
「秋葉原は、そういうところだ。……情報をあげたいんだが、代わりに欲しいものがある」
競り合い、交換条件、取引、イスハークとの関係はすべてディールだった。
チューヤは急いで眉に唾を塗り、キツネ用のおまじないだっけこれ、と自問しつつ、
「そらきた。はいはい、なんでしょう。できるもんなら」
「このまえ、魔法のじゅうたんをわたしから奪って行ったよね、きみたち」
ぎくっ、と肩が揺れる。
用賀あたりでオークションにかけられていた重要アイテム「魔法のじゅうたん」は、結局ケートが落札して持ち去った。
なにか重要なことに使用するらしい。
「えっと、それならケートが金を出したんで、そっちに交渉してもらっていいですかね」
「それはいいんだが、いやよくはないが、問題はだね、そのじゅうたんを欲しがっていたひとのほうなんだよ」
「はあ……どんな話でしたっけ」
つい先週のことだが、だいぶ昔のことのようにも思える。
たしか同じものを欲しがっていた柿の木坂高校の校長は、お気に入りのマダムをコマすためにそれを買おうとし、チューヤたちによって罰された。
「44歳の、なかなか好き者らしい後家さんなんだがね、そのじゅうたんを欲しがっていたんだ。そりゃあ差し上げなければならない、と言わんとせんければなりませんでしょう」
「なんでカタコトなってんだよ。その後家と一発キメたいだけだろあんた」
どうやらイスハークの目的も、どこぞのマダムらしい。
この手の男たちは、結局のところいい女を犯すことしか考えていないのだ。
イスハークは飄々として首を振り、
「なんて下品な少年だ。口が曲がらないように気をつけたまえ。……まあ否定はしないが。その後家の元旦がね、こいつがじつに不埒なやつで、若い女をとっかえひっかえ孕ませているらしいんだ」
「不埒だとは思うが、あんたにだけは言われたくないでしょうよ」
「この男の居場所と正体を知りたい。神学機構なり警察庁なりのデータベースが使えれば簡単だと思うが、いまのわたしは逃亡者だからね」
「なんで俺がサッチョーのDB勝手に使えると思ってんですか。……まあ機会があれば試してみるんで、情報もらっていいですか」
話を進めるためには必要だと判断し、チューヤはイスハークから「後家」と「元旦那」の情報を仕入れる。
最後にイスハークは人差し指を立て、
「それからもうひとつ」
「まだあんのかい。はいはい、なんですかね」
「じつはわたし、警察庁に追われているんだが」
チューヤはげんなりして、イスハークの罪深い表情を見つめる。
よもや彼は巨大組織に追いかけられるのが好きなのだろうか?
「……神学機構だけじゃないのかよ。こんどはなにやったんスか」
「いや誤解なんだよ、どっちも。だいたいわたしが、この大好きな国でテロなんか起こすと思うかい?」
チューヤは深く嘆息する。──なんて日だ。
テロ。ふつうの日本人には、ほとんど関係のないワード。
しかし最近、その手の話をまれによく聞くようになってきた。
「まあ起こさないでしょうけど、起こそうとしてる連中はいるみたいですよね」
「そいつらとつながっていないわけではないが……待て待て、待ってくれ、わたしは彼らの行動をいかんともしがたいと思っていて、できれば止めたいのだ。こんど警察庁長官に会ったら、そう伝えておいてくれないか」
「あんた俺をなんだと思ってんスか。サッチョーのチョーカンなんか、そんなホイホイ会えるわけないでしょ」
「いや、あのマルドゥク……鬼刑事ケンゾー・ナカタニの息子なら、不可能ではないかと思ってね。彼にはほんとうに敬意を表していると、ぜひとも伝えておいてくれ」
ケンゾー・ナカタニの息子であることは事実、認めなければならない。
チューヤは了解してうなずき、
「まあオヤジになら簡単だから伝えますけど。知り合いですか?」
「いや、直接は知らない。だがウワサは聞いている。……彼は報いを受けさせる。これはイスラームの基本でもあるんだよ。右の頬を打たれたら左、などと善人ぶっているキリスト教などより、よほどシンプルで正しい」
犯罪者に報いを受けさせる組織が警察であることは、ある面では正しい。
そのなかで父親が、どれだけ熱烈にその職務を遂行しているかも知っている。
──イスラームにはキサース刑というものがあり、同害報復として知られている。
殺人犯と傷害犯だけに適用され、被害者や相続人が同程度の報復をすることができるが、ディーヤという賠償金で弁済することもできる。
『コーラン』ではキサースの権利を認めているが、どちらかといえばディーヤが推奨されている。
殺人・傷害のみに適用されるため、現代法理に照らしても、さほど非合理的とはされない。
被害者や遺族が許すなら、刑は執行されない。
神は、ほんとうによく赦したもう。
「ふーん、まあ、できるだけのことはしますよ。あんた女に関しちゃロクデナシだけど、それ以外のところはいいひと……かもしれないですからね。いや自信はないけど」
「ははは、ひどいな。……さて、では教えよう。三国一の花嫁、だったね」
ようやく本題だ。
チューヤは居住まいを正し、ちらりと階下を瞥見してうなずいた。
イスハークはコーヒーで唇を湿らせてから、単刀直入に語りだした。
「いま、下ではプロレス興行をしているんだが」
「プロレス、ですか」
リョージやダイコク先生のイメージがチューヤの内心には想起されていたが、イスハークがそんなものを追いかけるとは思えない。
案の定、彼はハイレグを表現するらしいリアクションを重ねつつ、
「いいよね、戦う女も。美しい、絞められたい」
「絞め殺されるのは、話を終えてからにしてください。それで?」
「ああ、女子プロもさ……ほら、たいへんな時期あったじゃん?」
「知りませんけど……あんたどの業界にも通じてるんスね、女さえいれば」
「ははは、照れるな」
「褒めてねえよ」
「で、本気プ女子系のアイドルが、地下にある四角いリングで戦ってるんだけど」
格闘系アイドル女子、というジャンルもあるのだろうか。
どうやら「格闘スイーツ集団」なるユニット名で活動しているらしいが、プロレスとアイドルを足して3で割った感じのヌルい団体、というイメージが先行している。
いずれあまりガチな感じはしないが、本気でやってる体育会系もいるんだよ、と要注意を受けた。
「マジだから、あれは。きのうなんかはエログロ、ヘビ魔術で盛り上がったんだけど、ガチマッチもそれはそれで萌え萌えなんだよね。プロレスいいよ、筋肉女子!」
「あんたの趣味は知らんよ。……で、そのプロレスアイドルは?」
「南斗の星、ってリングネームの子が、いちばんかわいいよね! 名前はユリちゃんだったかな。けっこうユリ展開が売りらしいよ。女同士ってのも、たまにはいいよね。きらいじゃない」
「だから知らねえよ。で、その南斗の星は、出会いを求めてる感じですかね」
それこそ知らねえよ、と返したそうなイスハークの鼻白んだ表情。
「きみは出会い系ビジネスでもはじめたのか? いや他人のアルバイトに口を出す気はないが……」
考えてみれば特殊なタイプのミッションだ。
説明しても長くなると思い、チューヤは軽く腰を浮かせながら言った。
「いや、ありがとうございました。南斗の星、ナントセイクンか、なるほど……把握した」
どうすればいいのか目星がついただけでもありがたい。
問題はここからだ──。
チューヤは階段を下りながら、ケータイを取り出した。
さいわい現世と境界の中間である地階では、通常の電波で回線が通じた。
「あ、もしもしリョージか? 試合終わった? へー、勝ったんだ、おめでとう! でさ、その相手なんだけど……え、そこにいんの? 親友になった? そうか、そいつはありがたい。武道館だっけ? OK、わかった、近場にいるからいますぐ行く」
秋葉原から武道館までは、およそ2キロ。
終電が終わっていることを勘案しても、走ったほうが早い。
──そこにはリョージ以上にムキムキの、スネに七つの傷がありそうな男がいた。
ちょっとつきあってほしい、と秋葉原まで連れ出した。
帰りがけのプ女子集団と鉢合わせる。
見つめ合う、ケンタロウとユリ。
「かごめのおふだ」の裏に、新たな赤い糸が浮き上がった。
どうやらミッションクリアだ。
──なにやってんだ、俺は。
チューヤは短く嘆息し、その場を後にした。
これが「三国一の花嫁」のルールなのだ……。




