32 : Day -21 : Ayase
「で、奥さん、元気でした?」
二階から降りてきたマスターに問いかけるチューヤ。
「ああ、ちゃんといたよ。シャワーを浴びながら寝てた。ほっとくと裸で出てくるからね、ちゃんと服を着るように言っておいた。そのうち降りてくるだろう」
「いや、あまり無理しないほうが……」
微妙に言いづらそうにするサアヤ。
裸で出てこられるのは論外だが、いろいろやっかいな性質の女であることは聞いている。
「どういうこと? なかなか自由な奥さんらしいとはわかったけど」
寝ながら桃尻で綾瀬川をどんぶらこしている奥さんを、リョージが助けるというシナリオをも考え合わせると、一同の表情はより複雑さを増す。
磊落に笑うおでん屋の亭主。
「ははは。まあぶっちゃけ言うと、うちの嫁は変でね。1日20時間くらいは寝てるんだよ」
「コアラですか」
めずらしくヒナノが突っ込んだ。
いつもこの手の会話には参加しない孤高な彼女の的確な突っ込みに、全員がなごむ。和気あいあいに溶け込めて、ヒナノもまんざらではなさそうだ。
一方、チューヤがさっきから気になっているのはケートだった。
いつもなら毒まじりに突っ込んでくるところのような気がするが、なぜか口数が少ない。偶然さ……と、飲み物を口に含みながらぼやいている。
「たしかに、愛玩せずにはいられないくらい、かわいい奥さんではあるよね、うらやましいですな、ご亭主」
「いやー、ははは」
どうやら当人も、そのかわいい奥さんにメロメロらしい。
愛妻を助けてくれた高校生に、店を一日貸しきって礼をするくらいは当然だった。
そのとき、ぎしっ、と階段がきしんだ。
勝手に裏口から出て行けないように、階段を下りてきた人影はすべて厨房側から把握できるようになっている。
物陰に隠れてこっそりと、という姑息な手段がないわけではないが、そもそも捕捉すべき対象はあまり物事を考えないタイプだ。
「紹介しよう、妻のハナコだ」
彼女の生足が見えた瞬間、マスターは言った。
「こんばんはー」
数秒後、ようやく顔を見せた妻ハナコは、てれてれと笑って愛嬌をふりまく。
女は愛嬌、という言葉を具現化するとこうなるのかもしれない、とサアヤですら感心した。
愛されるようにできている構造の女、というのがまれにいる。
サアヤは万人に愛されるが、ハナコは端的に「男好きのする女」だ。
チューヤとリョージはふつうにデレッとして、サアヤたちをイラつかせたが、問題はケートだった。
彼は大きく目を見開き、じっと彼女を見つめて、つぶやいた。
「の、野間尽……」
「あー……れー?」
ハナコはゆっくりと首をかしげ、間投詞だけを発して継ぐ言葉はない。
その短い時間、両者の反応は両極端だった。
片方は光に近い速度で脳を動かし、片方は亀のようにゆっくりと首をひねる。
ケートはおそろしいほど多くのことを考えて推論を積み重ね、ハナコは目のまえの旦那の名前を思い出すのに時間をかけているかのよう。
さすがに一同、両者のあいだに「なにかある」と勘繰りはじめる。
ケートはしばらく彼女を見つめていたが、すぐに首を振って「なんでもない」と一歩引いた。
その後、沈思黙考に沈んでいるところをみると、彼の脳髄はいぜん異常な速度で回転しつづけている。
そっとしておいたほうがよかろう、と友人たちは賢明な判断を下した。
「いやー、奥さん、無事でよかったですね。……助けたの俺です」
ぶざまに自己主張するチューヤは、それでも考えてはいる。
……のまじん?
どうせまたやっかいな話が転がってんだろうな、こっちほりこまないで自分で解決してくれるといいな、と事なかれ主義者は思った。
「野間は、彼女の旧姓だ。……むかしの彼女を知っているのか?」
軽く眉をひそめ、おでん屋の亭主は言った。
ケートは一瞬ぴくっと動いたが、そのまま無言で答えなかった。
このわざとらしい沈黙には、いやな予感しかしない。
一同、ほぼ食事は終わっている。
ハナコは、それでも一応おでん屋の女房として、洗い物などをはじめていた。
謎の歌声を響かせながら。
「奥さん、日本人、ですか?」
明確に線引きのしづらい、微妙な顔立ちをしている。
純日本人の目から見ればあきらかに白人だが、濃い日本人から見ればただのハーフにもみえる。
「なんか、マフユっぽいな」
リョージの指摘は言いえて妙だった。
「ああ? どう見ても似てねーだろ」
片方はスレンダーなヘビ、片方は肉感的なカエル、といった印象。
しかしチューヤはすぐにリョージの意図を理解して、
「わかる。なんか、北欧の空気あるよな」
「……なるほど、たしかに北欧系の神格に取り憑かれてる仲間は多いか」
それぞれの思考が、おなじ地点から順次、発散していく。
ひとつの事象を、さまざまな視点から解析するというのは必要だ。
そんなチューヤとマフユに重なる数少ない共通項が、自己評価の低さだろう。あまり自分のことを重要だと思っていないし、なんならさっさと破壊したいとすら思っている。
「そのヘビは、ただデカイだけだろ」
ようやくケートが考えるのをやめてもどってきた。
「大きさの話?」
「そうだ。北欧の人間は身体がデカいんだよ、やたらとな。ベルクマンの法則だ」
寒い地方ほど、身体が大きいほうが全体として熱を保ちやすい。
ホッキョクグマとマレーグマなどが比較としてよく使われるが、その場合、かなり丸くなる必要はある。
剣呑な展開を予期したチューヤが、自然に発揮する危機管理本能。
スクリューやきそばの写真の横には、スウェーデンの砕氷船のイラストがある。
おでん屋に掲げられた船のイラストは、いまいち脈絡が読み取りづらいが、とりあえず船の名前が「ODEN」というつながりだけは理解できた。
「マスター、船乗るんスか?」
「ああ、あの写真か。若いころジャムステックと仕事しててね、スウェーデンの船で」
掘れば起こさる、意外な事実。
最初からおでん屋をやっていた、などという話はたしかに聞いていない。
「あんたさっき、若いころは売れないバンドマンだって言ってなかったか?」
「ああ、デスメ(タル)なんかやっちまったおかげでね、売れようがないんだわ。本場スウェーデンまで乗り込んだはいいが、どうやっても食えないから、しかたなく砕氷船に乗ってたんだよ。当時、日本との共同研究が多かったから」
「日本の海洋研究開発機構もおどろいたろうね!」
さすがにデスメタルのメイクをしたまま仕事はしなかったろうが、だいぶ奇抜なファッションの若者をスウェーデン側は送り込んできたな、と思ったら日本人だったのだから、察するにはあまりある。
「ま、若いころは、たくさん世界を見たほうがいい」
「スウェーデンの船でも、おでんは人気だったでしょうね」
「あっはは、そうだね、彼らにふるまったことがないとは言わないが、ODENはオーデンと読むんだよ。日本人にはオーディンのほうが伝わるかな?」
オーディンという誇り高い単語に、何人かが反応した。
最初からわかっていたことだ。わざとらしい振りや、煙に巻く叙述トリックはもういらない。
チューヤは大きくうなずき、
「北欧神話の主神。有名だよね」
「最近のゲームの影響はすごい、ってところかな。言葉をおぼえたばかりの子どもたちが、ぐんぐにーる、とか言ってるからね」
グングニールはオーディンの使う武器だ。
この店では、スクリューやきそばを完成させるための棒になっている……。
男たちがそんな会話をしている傍らで、女たちもハナコをまじえて、すこしばかり生々しい話をしている。
サアヤとしては、ハナコにチューヤなりリョージなりを籠絡されても困る、という予防線のつもりだったが、意外に彼女はそんなにわるい人間ではなさそうだ。
むしろ博愛主義者であって、ただ、その博愛が過ぎるだけなのだ──。
「風俗なんて、わるい習慣だよ、奥さん! そんなこと、女子として認めるわけにゃあいかないよ」
旦那が海外の砕氷船で世界を相手に働いていたころ、女房は世界に知られる東京の風俗で男たちの欲望を相手に稼いでいた、らしい。
そもそも半グレや前科もちが常連の店だから、そういう世界に親しむ素地は十二分にあった。
「あらそう? でもね、それは大事なことなのよ。なにしろ三大欲求のひとつだもの」
ハナコは端的にそちら側だが、日本の高校生女子の同意はなかなか得られそうもない。
まあ宗教的なアンチ性欲や、食欲偏重の女子にとっては、当然そうなる。
「俗説ですね。性欲など、なくても生きていけます」
「食うもんさえ食っときゃな。……おやじ、がんも」
「まだ食うのかい、ねえちゃん。あいよ、これで最後だ」
マスターが、おでん種をかきあつめて中身を移し、什器の電源を切った。
サアヤは食欲と性欲のぶつかり合いに終止符を打つべく、
「でもさ、もっと大事なのは寝ることだよ! 昨夜はひさしぶりに、安らかに眠ったなー。こんなに幸せなことはないよね!」
「それは……たしかに。眠ることとは甲乙つけがたいわね」
1日20時間寝るハナコも同意した。
無理やり寝ずに行動しているマフユは、牛スジの串でチューヤを指しながら、
「そこのムシケラは寝なくても生きてるぞ」
「おい、さらっとムシケラ呼ばわりやめろ! 聞こえてるぞ!」
「ふん。あんまり耳がいいと生きづれえだろ、てめーみてーな底辺は」
「いいんだよ、チューヤは、移動中に立ったまま寝れば足りるんだから」
ピシャッと断定するサアヤにより、チューヤは速やかに女子トークから締め出された。
──ヒナノの言うとおり、ヒトはセックスをしなくても死ぬことはない。
ただ子孫が生まれなくなるだけで、自己の生存には支障がない。
だが食事を摂らないと死ぬ、だから食欲は大事──などと言われていたのは、すでに過去の話だ。
昨今のヒトは、まったく食事をしなくても、直接、栄養成分を点滴で血管に流すことで何年でも生きられるようになった。
しかしながら、何年も眠らなくて済むようになる薬は、いまのところ開発されていない。
その意味では、睡眠のほうが人間にとって重要、という見方もできる。
マフユは72時間くらいなら眠らずに戦えるクスリを常時、血管にぶちこんでいるようだが、彼女の場合「機械油」で説明できる可能性もある……。
おそるべきは、なんのドーピングもなしにナチュラルでハイであるかのように、動きつづけているチューヤのクソ体力だ。
彼に「寝る」などという選択肢は、最初からない。
「ムシケラでも冬眠くらいはするけどな」
マフユが冷たい目を向けるので、男子との接点が再び広がった。
分断されていた会話が、なんとなく合流する流れ。
現在フル稼働中のチューヤにも、もちろん言い分はある。
「いや、寝ていいんだったら寝かせてもらいたいのは、やまやまなんスけど」
ここでやらなくて、いつやるのか?
いまだ、いまやらなきゃ、意味がないんだよ……!
そういう体育会系のあおりを受け止めるポテンシャルがなければ、日本に社畜文化は生まれなかっただろう。
「このいそがしいのに、甘ったれんな!」
「たっぷり寝てるサアヤに言われたくないわ!」
いつもの夫婦漫才の隙間を縫うように、ポン、と手をたたく音。
なんとなく集まる視線のさき、ハナコがふんわりした笑いを浮かべて言った。
「あー、思い出したぁ。いまげんないさんやんか、おひさしゅう~」
ゆるい女子トークに混ざってやるか、といった甘い感情は瞬時に破砕された。
ケートの表情が決定的に固まる。彼は唇をふるわせ、
「もり、りん……」
「かごめのおふだは、おやくにたちましたかいなあ」
いつもどおりのアホっぽいひらがなしゃべりだが、ケートの心に及ぼす影響を筆頭として、チューヤたちにも察するところが若干あった。
かごめ、かごめ、かごのなかの、とりは……。
「なにがあったんだよ、ケート」
チューヤに問いに、ケートはこめかみを押さえ、かすかにふるえながら、
「……いや、その話はあとにしよう。まだ夜が浅すぎる」
とっくに日は沈んであたりは暗闇だが、時間的にはまだ宵の口だ。
それでも鍋部の解散は近い。
しかしこれ以上、あとまわしにはできないとでもいうかのように、言辞を重ねるハナコ。
「裏を返してくれるまで、だいぶ、だぁーいぶ、待たされましたなあ。ようやく、よおーうやく、約束、守りに、きてくれはったんやねえ」
後半、徐々に理知の光が宿る視線に合わせ、語尾も明瞭だ。
ケートは観念したように、科学者の機械的な口調で言った。
「……おハナさん、ひさしぶり。守ってるよ、約束は、ずっとね」
そうしてふところから取り出したのは、あのとき宝町の裏窓に「入店」するときに使った、かごめのお札。
にっこりと笑う、綾瀬ハナコ。
彼らのあいだには、いかなる因縁があるのか──。




