28 : Day -21 : Ayase
「バウウィガラ、フェロウニイイルナ」
そのときサアヤの頭上で、ポメラニアンが変な声で鳴いた。
「バカなチューヤだけど、できたら勘弁してやってくんねえかな、フェンリルの旦那、って言ってるよ」
「……ほんとかよ」
見つめ合うグレイハウンドとポメラニアン。
現世でもなかなか絡みそうもない組み合わせだが、その視線にはなにやら「わかり合った」気配がある、ようにチューヤにはみえた。
とくにポメラニアンからむけられる視線には、この反骨のケダモノにしてはありえないほどの、敬意らしきものが感じられる。
──あんたは、すげえやつだ。主神オーディンを噛み殺して飲み込むくらい、強い。
最後には殺されたし、小人の鎖グレイプニルを引き裂くこともできなかったが、そういう弱点も含めて、あんたは魅力的だ。
全知全能を絞って封じ込めなきゃならん、恐ろしい獣だと神々を恐れさせている時点で、フェンリルよ、あんたは尊敬に値する。
いまはどうやら、その女に飼われているらしいな。
お互い、コレステロールには気をつけようや。
すると、鋭く切れ込んだ口元を持ち上げ、おそらくフェンリルはにやりと笑った。
バター舐めてねえわ、とでも言いたげに。
イヌたちがそんな視線を交わした、とチューヤは見てとったが内容については自信がない。
ただなんとなく、融和の雰囲気だけは感じ取った。
「まあ、兄弟たちには黄昏のあとにいつでも会える。今回は見逃してやろう」
こんどこそ、しっかりとチューヤたちに伝わることばで、フェンリルが言った。
ホッと胸を撫でおろすチューヤ。
サアヤは頭上のケルベロスをひと撫でし、
「ケルの仲裁のおかげだね。感謝しなよ、チューヤ」
「そうかもしれないし、そうではないかもしれないが、まあ減るもんじゃないし感謝はしておこう。しかしなんでフェンリルはちゃんとしゃべれるのに、ケルはその体たらくなの?」
「バウヒャガルゥア」
「キャラ崩壊だから、だって」
ケルベロスは、そのままサアヤの頭上で丸くなって消えた。
彼は当初から、ガーディアンにおける最低限の責任だけ果たしてはいるが、ほかは空気のような存在を目指しているかのようだ。
「しかし、ひとりで家に帰ることもできない女のひとって、サアヤだけじゃないんだね」
ちくりと反抗しておくことも忘れないチューヤ。
地図の読めない女のひとり、サアヤは憮然として、
「失礼だよ! いいんだよ、このひとはちゃんとおイヌさまに守られ、ネコどんに送ってもらってるんだから。私だっていざとなったらケルがいるし、べつにチューヤごとき人間GPSいてもいなくても、ぜーんぜんいいんだよ!」
「ほほう、それはそれは……」
なんと言い返してやろうかとチューヤが手ぐすねをひいたとき、フェンリルが言った。
「この女は人質だ。おれはただの監視役。……フレイヤ。その価値のある女だ」
チューヤたちの視線が、リヤカーに乗せられて眠っている女に集まった。
すぐにチューヤがいやらしい視線を送っていることに気づき、目つぶしをしようとするサアヤ。
アイテム袋から毛布を取り出し、かけてやるように言うチューヤ。
土手から離れると、霧雨はすこし弱まった。
「北欧神話の女神、フレイヤか」
「そう、そして……こいつは原初神でもある」
フェンリルの言葉に、チューヤは一瞬、息を呑んだ。
これまで原初神が重要な役割を果たしたこともあれば、そうでもないこともある。
ただの狂言回しだと自任している校長もいるし、自分の欲望を貫いているだけにしかみえないLGBTもいた。
悪魔相関プログラムは正常に稼働して、新たなデータを更新してきた。
原初神でソートすると、すでに八割がたの枠が埋まっている。
──地球を分割する十数枚のプレートに仮託された、神概念。
南極プレートのダイダラボッチ校長から、なぜかはわからないが北アメリカプレートのルイ(ルシファー)まで、強さはともかく古さはけた外れの連中ばかり。
太古の地球を知っている神々のひと柱。
女神フレイヤ──。
「カリブ・プレート、か。なるほど……」
脳内に更新された情報を確認しながら、つぶやくチューヤ。
カリブ海といえば、海賊だ。
北欧神話は、いうまでもなくヴァイキングの文化圏で育まれた。
古来から北極圏の海流に乗って、白人たちがアメリカ大陸を訪れていた記録もある。
また彼らは、海に死体を載せた舟を流して葬る、という葬送の儀式をもっている。
ときには生きたまま流される者も、いたかもしれない。
──カリブ海とフレイヤは、たしかにつながる。
「最終戦争まで、おまえたちは生かしておくことに価値がある。ロキの遊びは本気だからおもしろい。──黄昏がやってくる。もうすぐな」
土手を下り、境界化した街路を進む。
サアヤは呑気に曇天を見まわしながら、
「暗いけどさ、まだ午前中だよ。ちょっと早いよー」
「サアヤさんハウス。……フェンリル。おまえはロキの側ではないのか」
もちろんそうだ、と肯う魔狼にチューヤは一瞬緊張したが、すぐにフレイヤに向けるまなざしの意味を理解して力を抜く。
「コトが起これば、おれはロキのもっとも鋭い刃となって敵を……この女の夫を飲み干すだろう。きさまら全員を噛み砕き、世界の黄昏にわが役割を果たす。……だが、まだそのときではない。それまでは、この女を見守ると約束したのでな」
「約束?」
「……原初の約束だ。おれは世界の始まりと終わりに、それを滅ぼし、また生み出すための場所をつくると誓った。役割を果たすとは、そういうことだ」
世界を破壊するのは、新たにつくりなおすため。
似たような思想はヒンドゥー、イスラーム、キリスト教にもある。
最後の審判というアイデアは、もともとゾロアスターあたりからパクってきたもので、それが東と西に分かれ、多少形を変えながら現在のような「教義」になった。
インドには独自の終末論があり、仏教の時間感覚は気が遠くなるほど遠い。
──これは宗教の話か?
直後、響きわたる戦闘BGM。
モヒカンのヒャッハーくんや、ヤギの顔をした悪魔、いやらしい妖精、淫夢を見せる夢魔たちが襲いくる。
「ちょ、ここフェンリルの境界じゃないの? なんとかしてよ」
「境界を結んだ悪魔以外の敵と、おまえは戦わなかったとでも言うのか? ちょうどいい、おまえたちが蹴散らせ。役に立てば、おまえたちが聞きたい話をしてやるかもしれんぞ」
ひょい、とネコの引くリヤカーに乗るフェンリル。
戦いなど、下賤な悪魔使いどもに任せておくにかぎる、とでも言うかのよう。
苦言を呈したい気持ちはあったが、状況が状況だ。
チューヤはすなおに戦いに赴くべく、最善の悪魔を召喚した。
意外に会敵回数が多かったのは、ここが重要な土地であることを意味しているだろう。
集まってきたのが、肉欲系の悪魔ばかりだったのは、どうやらリヤカーに乗っている女に原因がありそうだ。
「フレイヤさんて、えらい人気者っすね」
まだ一度も声さえも聞いていないが、たしかに彼女の肉体からあふれる「情感」は力強く、意識して目を逸らさないと吸い込まれるような気さえする。
チューヤの指摘に、保護者の一匹であるケットシーはうなずきながら、
「まったくねえ、うちのおでん屋の女房ときたら、男さがなくていけねえ」
フレイヤが、性的にだらしない女神であることは、多くの文献に記されている。
ブリシンガメンの首飾りを手に入れるため、首飾りの製作者である小人たちの夜お相手をした話は、想像力を刺激する。
具体的な方法は不明だが、ともかく彼女は小人と楽しんだ。
セックスに対するハードルが著しく低いタイプの女性は、一定数いる。
ただし彼女らから見れば、性行為を禁忌のレベルまで囲い込んだのは文化であり、宗教であって、そのほうがまちがっていると言うだろう。
たしかに、もともと自由に楽しみたいと考える男や女が多かった、と考えるほうが生物としては自然である。
北欧神話において、人間たちと親しい神としてトールの名があげられるが、それよりももっと人間くさいのがフレイヤである。
ひとことで言えば「ビッチ」なのだが、これは禁欲を旨とするキリスト教徒が、既存の価値観を破壊するために用いた悪意あるロジックともいえる。
またフレイヤは「恋の女神」ともされる。
いきおい縁結びの神として祀られがちだが、じっさいそんなことはない。
──好きな相手がいる? 妻子持ち? とりあえず奪っちゃいな!
というタイプなので、いわゆる「ふつうの恋愛」には向かない。無駄に争いを引き起こしがちな「危険な火遊び」には、もしかしたら加護があるかもしれないが。
「やっかいそうな女のひとだね。これだからネコ派は……」
警戒の視線をむけるサアヤ。
だいたい女が女を警戒するときは、相手が泥棒猫だから、と相場が決まっている。
「ネコに罪はないよ!」
チューヤの擁護にも、とくに意味はない。
がらがらと馬車は、境界の切れるところまで、堀切の町並みを進む。
猫が引く馬車に乗る、というフレイヤの設定に則って。
「ネコなのに馬車?」
「神話ってそういうものよ。そこ突っ込んだら負けだから」
たしかに日本には猫バスというものもあるし、猫馬車くらいは許容範囲だろう。
ただし厳密に考証をはじめると、おかしな部分は出てくる。
馬車を引くほど巨大な猫がいるか、という雑な突っ込みはもちろん、そもそも当時の「北欧に猫はいない」。
近年の人為的な品種改良による北欧種はあるし、寒冷地に適応したネコ科動物はもちろん実在する。
おそらくオオヤマネコ(ヨーロッパオオヤマネコ)を誤認したか、ライオンがいた可能性もないわけではない。
中世ヨーロッパでは、すくなくともドイツくらいまではライオンが住んでいて、『ニーベルンゲンの歌』や『エーレク』といった騎士文学にも登場している。
「この女は、じつにおもしろいぞ。こいつのまわりの人間は、どんどんバラバラになっていく。まあ、こいつのせいではないのだがな……」
フェンリルが嘲弄するように言った。
彼がフレイヤを生かしておくのは、けっして彼女が人間のためになる存在ではない、と知っているからかもしれない。
──わるいのは人間。人間自身の業が、彼女を核として発露してしまうだけのこと。
べつにあなたの彼氏を誘惑したわけじゃないのよ、ただ彼がわたしのことを好きになってしまったの、ひとを好きになることを止めることはできないわ……。
そんなことを言うタイプの女を、おなじ女としてどう処置すべきだろう。
サアヤは首をひねりながら、
「そりゃあさ、よくないよ。まあ、このひとのせいでは、ないのかもしんないけど、いや、でもねえ……」
「このカリビアンの原初神は、いまも国家規模の影響をもたらしている」
「えっと、どういうことっすか」
チューヤの問いに、これまで戦った褒美というわけでもあるまいが、フェンリルはすなおに答えやった。
「カリブ海に、いくつの国があるか知っているか? ドミニカ、ハイチ、バハマ、ジャマイカ、バルバドス、沿岸も含めればコロンビア、ベネズエラ、ガイアナ、スリナム、パナマ、コスタリカ、ホンジュラス……」
いわゆる「カリブ海諸国」と呼ばれるのは16か国。
そのほとんどが島嶼部の国で構成されている。
それ以外にもイギリス領タークスカイコス諸島やケイマン諸島、オランダ領キュラソーやアルバ、アメリカ領ヴァージン諸島や合衆国未編入領域プエルトリコなど、人口に比して多彩な国家が、入り乱れて存在する。
「カリブプレートの原初神……なるほど」
搦め手から攻め込まれるような息苦しさをおぼえつつ、チューヤは納得した。
人類史の重大な「業」が、ここにもある。
「イスパニョーラ島という島の西にはハイチ、東にはドミニカ共和国という国がある。すこし離れたドミニカ島には、ドミニカ国という別の国もある。それぞれの国で使われている言語は、フランス語であり、スペイン語であり、英語だ」
「アフリカもむちゃくちゃですけど、カリブ海もそうですか」
「そうだ。この女は……われわれは、世界をむちゃくちゃにする。バラバラに引き裂いて、バベルの塔が崩れ去るのを待つ。それが神々の黄昏というものなのだ」
「……ロキが好きそうな世界だ」
そういう世界が「おもしろい」と思う人々にとって、たしかにフレイヤは生かしておいたほうがいいのだろう。
フェンリルは牙をむいて、どうやら笑ったらしい。
「世界は本来、バラバラなものなのだ。まとまりかければ、砕いてしまう。トールハンマーでな」
「いや砕く必要はないだろ」
「それはおまえの考え。われわれは別の考え。……食うがいい。うまいおでんだ」
ふと見ると、フェンリルの口からコンニャクがはみ出していた。
シリアスな展開かと思っていたチューヤは、なかばズッコケつつ、
「そんなもんいらん!」
「もぐもぐ……うまいよ、チューヤ」
いつのまにかフェンリルの横に乗っていたサアヤと、ふたりでリヤカー備え付けのおでんを食っている。
どうやらおでん屋の業務用リヤカーらしい。
チューヤは地団太を踏んで、
「食うな!」
「いろんな国があり、それぞれの味を出すのだ。おでんのように、カリブ海のように、この国もなればよい」
フェンリルはコンニャクを飲み込んだ。
サアヤの差し出すハンペンにはそっぽを向いたので、どうやら好みはあるらしい。
「あんたらはそうすりゃいいけど、この国をバラバラにするのはだめだ」
「神道にまとめる、かね? それはまちがいだと、歴史が教えてくれただろう」
サアヤは、はむはむとハンペンを食いながら、
「神仏は習合したけど、結局は仏教だし、神社にはなれないよね」
「どっちの味方だよ、サアヤ!」
「私は私だよー」
「そう、わたしもわたしだ。……日本の神よ。あなたの国をつくる役に、わたしは立てないよ」
チューヤの背後で、オオクニヌシの影がため息をつく。
人間たちの勢力圏に重なって、悪魔たちもこの国の境界で陣取り合戦をやっている。
「俺は、べつに国をつくるとか、考えてないよ」
「守りたいだけだよね。平和な国を」
「……さて、着いたようだ。それでは、さらばだ。またどこかで会うこともあろう」
ぴょん、とリヤカーから飛び降りるフェンリル。
彼が境界を解けば、あたりは現世にもどる。
──ロキの子、神々の力をしのぐ三兄妹。
フェンリルはオーディンを飲み込むが、息子のヴィーザルに殺される。
ヨルムンガルドはトールと相打ちし、ヘルの末路は不明だが、冥界は滅びなかったようなので、そこにいたのかもしれない。
そんな神話が、この地球で再現されようとしているのだろうか。
ふりかえった場所には、古びた建物。
どうやらここが「おでん屋」のようだ……。




