第8話
最初の重ね焼きは、冷ます途中でひびが入った。
二度目は曇った。三度目は濃すぎて、火を入れても青がほとんど見えなかった。
アルノは失敗した試験片を、順に机へ並べた。
「薄くすれば、今度は重ねた意味がなくなる」
「全部を同じ厚みにしなくても、よいのではありませんか」
エレーナは失敗作を指した。
「ここの端は、灯りでも明るいです。少し濃い部分と並べたら、色の違いが見えます」
マティスの帳面に、新しい記録が増えていった。
同じ素地から作った板を選び、小さな試験片で焼き方を確かめる。冷えるまで触れない。待つ間に台座の寸法を決め、別の色の見本を選ぶ。
十日余りのうちに、工房の窓辺は番号札で埋まった。
セレナの破壊については、工匠組合が破片と作業記録を確かめ、男爵家へ損害の申し入れをしていた。男爵からは事実を認め、賠償の協議に応じるとの返書が届いている。
だが、失った日数まで戻るわけではない。
エレーナは帰る前に必ず、翌朝の作業をアルノと確認した。
ある晩、アルノが夕食にも手をつけていないと分かり、二人で食卓へ移ったことがあった。
「あんたに帰れって言っておいて、俺は何してんだろうな」
冷めたスープを前に、彼が苦笑する。
「では、私も言います。今日はここまでです」
「はいはい」
「返事は一度で結構です」
アルノが匙を持ったまま笑った。
食べ終えるまで、エレーナは時計を見ながら隣にいた。
搬入の前日、完成したランプに初めて火を入れた。
小さな灯りが、青い面を透かした。厚みの異なる青が、近くの白壁に濃淡を落とす。下縁に並べた琥珀色の小片は、その足元を温かく照らした。
青と琥珀を無理に混ぜず、夜明けの空と低い日の光のように分けて組んだのだった。
炎が揺れると、色もかすかに動いた。
「できた」
アルノが低く言った。
エレーナは頷こうとして、うまくできなかった。
割れた板を見た日のことが、急に戻ってきた。
「間に合いましたね」
「ああ」
二人で、しばらく壁を見ていた。
先に話したのは、アルノだった。
「公募が終わったら、忙しさも少し落ち着く」
「そうですね」
「あんたに、来てもらう用事も減る」
エレーナは彼を見た。
アルノはランプを見つめたまま、続けた。
「だから今、言っとく。仕事がなくても来てほしい」
炎が音を立てた。
「茶を飲みに来るだけでもいい。俺も、たまには外へ出る。あんたの好きなところに」
「焼き林檎のお店でも?」
「あんな近くでいいのかよ」
「一緒に行けるなら」
アルノが振り向いた。
エレーナは、今度は目をそらさなかった。
「私も、仕事のためだけに来ているわけではありませんから」
彼が何か言おうとして、やめた。
それから、作業台の上に置いていたエレーナの手に、自分の指をそっと重ねた。
今夜の約束は、それで足りた。
翌朝、王宮西翼の大広間に、出品する職人たちが集まっていた。
搬入と受付を午前中に済ませ、午後から公開の最終審査が始まる。
アルノとエレーナは、ランプを梱包した木箱を二人で運んだ。油は別にし、試験板も布で包んで持ってきている。
寸法と出品内容を確認する技術係の検査を終え、受領の窓口へ進んだところで、エレーナは足を止めた。
机の向こうに、カシアンがいた。
「エレーナ!?」
彼は立ち上がりかけ、アルノを見た。
隣にいる男とエレーナが同じ箱を持ち、当たり前のように息を合わせて台へ下ろす。その様子を、カシアンは黙って見ていた。
「マティス硝子工房です。出品の受付をお願いいたします」
「君が、本当にこんなことを」
エレーナは書類を差し出した。
「検査は済んでいます。こちらが確認印です」
「僕への当てつけも、いい加減にしないか! 子爵家の娘が、平民の男のところへ入り浸って!」
列の後ろが静かになった。
エレーナの手が、一度だけ強張る。
隣でアルノが動いたのが分かった。けれど、先に自分で口を開いた。
「今は、出品の受付をお願いしています。私生活のお話はいたしません」
カシアンは後ろの列を見て、ようやく椅子へ座った。
出品票を引き寄せ、乱暴に印を押す。
「四十二番だ。場所は、西回廊の柱の裏」
アルノが配置図を机へ置いた。
「四十二番は、中央の第二展示卓だろ。ここに書いてある」
「変更になった」
「誰の指示で?」
「現場担当の私の判断だ。無名の工房には、相応の場所がある」
カシアンは声を低くした。
「嫌なら、出品を取り下げればいい。手続きは今ここでできる」
「てめえ」
アルノの声が険しくなった。
エレーナはその袖に触れ、カシアンの前にある出品票を指さした。
「受領証を先にください。展示場所の変更と、その指示を出した方の名前も、控えに残していただきます」
「大げさな真似を」
「作品を確かにお預けしたと、記録するだけです」
カシアンは睨み、受領証へ署名した。
エレーナはそれを受け取ってから言った。
「作品は、ひとまず指定された場所へ運びます。配置については、責任者の方へ確認をお願いします」
机の脇にいた若い文官が、はっと顔を上げた。
「私が承ります。設営補佐のローエンです」
カシアンが彼を睨んだが、ローエンは配置図の番号を書き留めた。
柱の裏には、予備の脚立と、畳んだ幕が積まれていた。
アルノが木箱を下ろし、息を吐く。
「悪かった。殴りそうになった」
「殴っていたら、私も困りました」
「だよな」
エレーナは彼を見上げた。
「でも、怒ってくださって嬉しかったです。あれを仕方のないことにはしたくありません」
アルノは受領証へ目を落とした。
「あんた、よくあの場で書類のことが出てきたな」
「言った、言わないになると、困りますから。家の贈答記録でも、必ず控えを取っていました」
ローエンに頼んで資材を移してもらい、二人で台を拭いた。
その背後には、白い石壁がある。
アルノは壁とランプの距離を確かめ、少しだけ顔を上げた。
「ここなら、灯せば色は見える」
「ええ。昨夜の工房と似ています」
エレーナは硝子を拭き終え、布を畳んだ。
「場所を直してもらえるかは、まだ分かりません。でも、点火の合図があったら、ここでもきちんと見せましょう」
「ああ。あんたと作ったもんを、俺から隠したりしねえ」
アルノが彼女の手元の布を受け取った。
「焼き林檎の約束も、忘れてねえからな」
エレーナは思わず笑った。
「私も、忘れません」
正午前、受付を終えたローエンは、配置の変更記録をカシアンへ差し出した。
「責任者に確認します。命令書があるなら、添付してください」
「必要ない。あの作品は細工が粗い。中央に置けば、式典の格式を損なう」
「作品の良し悪しは、審査員が決めることです。技術係の確認も済んでいます」
「伯爵家の私の判断を疑うのか!」
カシアンが机を叩いた。
ローエンは一歩退いたが、紙は引っ込めなかった。
「では、そのご説明も報告します」
カシアンは鼻で笑った。年若い文官が上司の前でどれだけ言えるものか、と思った。
ローエンは受付の控えを揃え、審査員を迎えに出ていた責任者のもとへ急いだ。
午後の鐘が鳴った。
大広間の扉が開き、国王、大司教、建築局の技師たちが入ってくる。
その少し後ろで、典礼局長がローエンから紙を受け取るのを、エレーナは見た。
アルノが隣で、点火用の灯芯を確かめた。
エレーナもランプの前へ向き直った。
今度こそ、見てもらう番だった。




