第7話
アルノが裏手へ資材を取りに行ったところで、引き戸が開いた。
甘い香水の匂いに、エレーナは顔を上げた。
「まあ。本当にこちらにいらっしゃいましたのね」
セレナが、後ろに侍女を従えて立っていた。
エレーナは濡れた布を桶へ戻した。
「何か御用でしょうか」
「お見舞いですわ。お怪我をなさったと伺って。子爵令嬢がこんな場所で働かなければならないなんて、お気の毒ですもの」
セレナは手巾を鼻先へ当てた。
「カシアン様も心配していらしたわ。ご自分のせいで、あなたが身を持ち崩されたのではないかって」
「私は、自分でお願いしてここへ来ています」
エレーナは台から離れ、入口の方へ回った。
「お見舞いのお気持ちだけ頂戴します。傷も、医師に診ていただいていますので」
「強がらなくてもいいのよ」
セレナは工房を見回した。
床に並ぶ桶、使い込まれた前掛け、煤けた棚。それらを見れば気分が晴れるはずだったのに、エレーナは隠そうともしない。
奥の作業台には、木枠に立てかけた青硝子があった。
「それ、何ですの?」
「出品するランプの、正面に使う板です」
「あら。カシアン様の公募に?」
「王宮の公募ですわ」
エレーナが言い直すと、セレナの唇が薄く結ばれた。
彼女は作業台へ近づいた。
「ずいぶん地味な色。濁った川の水みたい」
「お手を触れないでください。まだ枠に固定していません」
セレナの扇子の先が、硝子に当たった。
板が傾き、木枠に引っかかる。
エレーナが駆け寄るより先に、セレナはもう一度、扇子で押した。
甲高い音がした。
青い板が床へ落ち、いくつもの破片になった。
エレーナは、その場に立ち止まった。
午前中に合わせた寸法を書いた札が、まだ木枠に下がっている。アルノが最後まで迷っていた縁の幅も、底の小さな気泡も、一枚の形を失っていた。
「あら、いけない。急に眩暈がして」
セレナは扇子を胸へ戻した。
「こんな壊れやすいものを置くから。もっと丈夫なものにすればよかったのに」
「今、押しましたね」
エレーナの声が震えた。
「一度、枠に止まったところを、もう一度」
「恐ろしいお顔をなさらないで。私は病人なのよ。驚かされたら、また発作が起きてしまうわ」
背後の侍女が、青い顔で扇子を見ていた。
そこへ、裏口が開いた。
「何の音だ!」
アルノは床を見て、持っていた箱を置いた。
「エレーナ、怪我は?」
「していません。この方が、扇子で板を落としました」
「手が滑っただけよ!」
セレナが被せた。
アルノは彼女を見た。次に、エレーナと、俯いたままの侍女を見た。
「そうか。まず、そこから離れろ。破片を踏む」
エレーナが一歩退くのを確かめてから、アルノは作業台の前に立った。
「壊したなら、謝れ」
「何ですって? 私は男爵令嬢よ!」
「聞こえてる。壊した相手に謝れと言ってるんだ!」
セレナが身を引いた。
それでも、扇子は畳まなかった。
「平民の小さな硝子一枚に、大げさですわ。代わりを焼けばよろしいでしょう」
「勝手に壊して、その仕事まで俺たちに押しつける気か!」
アルノの声に、奥で椅子が動いた。
「あんたが病気なのと、俺たちの仕事を壊していいかは別だ。謝れねえなら帰れ! 損害の話は、家の当主へ正式に持っていく!」
「お父様を巻き込むつもり!?」
「弁償もしねえで済むと思ってたのか!」
セレナの顔から笑みが消えた。
エレーナが、床の破片を指した。
「ここに、私もおりました。何があったか、求められれば証言します」
侍女が小さく息を呑んだ。
セレナはその腕を掴んだ。
「帰るわよ! こんな無礼な工房、二度と来るものですか!」
「来なくていい。こちらから、請求を出す」
アルノの返事に、セレナは振り返らなかった。
馬車の扉が外で激しく閉まった。
エレーナは床を見たまま、動けなかった。
アルノが手袋を取り、箒を持ってくる。
破片を集める音がした途端、喉が詰まった。
「ごめんなさい」
「何で、あんたが謝る」
「私がここに通っているから、あの方が来て」
「落としたのは、あの女だろ」
アルノはそこで手を止めた。
エレーナの肩が震えていた。
彼は近づきかけ、少し迷ってから尋ねた。
「触ってもいいか」
頷くと、背に手が添えられた。
その手に支えられた途端、涙が落ちた。
「悔しいです。あんな言い方をされて、何もかも無駄だと笑われて」
「無駄になんかしてねえよ」
アルノの声も掠れていた。
「俺だって、腹は立つ。あんたも、無理にこらえなくていい」
エレーナは頷いた。
アルノの袖を握り、涙が止まるまで、少しだけそうしていた。
マティスが奥から出てきた時、二人は並んで床を見ていた。
「割れたものは、捨てるな。組合の者が来るまで、残しておきなさい」
アルノは頷き、破片を浅い木箱へ分けた。割られる前の板の寸法、費やした材料、作業の日数も書き出す。
エレーナは濡れた顔を拭き、机に残った記録帳を開いた。
配合も、色の記録も、失ってはいない。
だが、大きな正面板をもう一度作るには、残りの日数が厳しかった。
箱の端で、二つの青い破片が重なっていた。
夕日を通したその部分だけ、色が深い。
エレーナは棚にあった、古い重ね焼きの見本を思い出した。
「アルノ。この色を、もう一度見てもらえますか」
安全に持てる大きさの破片を、アルノが台に置く。
エレーナは触れずに、見え方を指で示した。
「重なる場所は濃くて、端は明るいです。全部を厚くしたら暗くなってしまいますが、薄いところも残せば」
「重ね焼きか」
アルノは棚の見本を持ってきた。
「この配合で、重ねて焼けるかは試さなきゃ分からねえ。小さい面を組み合わせるなら、大板を一枚作り直すよりは間に合うかもしれん」
マティスが、見本を置く音の方へ顔を向けた。
「古い焼成の帳面を出そう。同じ素地から作った板で試し、冷ます時間を惜しまんことだ。昔の記録が、そのまま今の硝子に合うとは限らん」
「ああ。まず小片でやる」
エレーナは記録帳の新しい頁を開いた。
「下の方に琥珀色を少し添えたら、青の明るさが分かりやすくなるでしょうか。別の色として、並べてみたいです」
「明日の朝、残ってる見本を並べよう」
アルノは鉛筆を取った。
泣いたせいで、まだ目が痛かった。悔しさも消えていない。
エレーナはその隣に、椅子を寄せた。
「私も、まだ帰りたくありません。迎えに、少し待っていただけるか聞いてきます」
「長くはやらねえ。明日の仕事を決めたら、今日は帰ろう」
板を割られてから初めて、次の朝に何をするかが決まった。
男爵邸に戻ったセレナは、カシアンを呼びつけた。
「あの工房を、公募から外して!」
挨拶も待たずに叫ばれ、カシアンは扉の前で立ち止まった。
「何があったんだ」
「職人が私を怒鳴りつけたのよ! エレーナまで私を責めて。あなた、担当でしょう? あの人たちを審査員に会わせないで!」
「僕は受付と配置の補佐だ。審査の可否までは」
「役に立たないのね!」
セレナは扇子を長椅子へ叩きつけた。
「私を守ると言ったのは嘘だったの!? エレーナの方が大事なら、もう来なくていいわ!」
カシアンの顔が引きつった。
エレーナは自分を拒み、職人の隣で新しい仕事を始めていた。セレナにまで見限られれば、誰のためにあの夜、馬車を走らせたことになるのか。
配置図を受け持つのは、自分だ。
審査員の通らない場所へ置く程度なら、現場の判断で押し切れるのではないか。
「分かった。目立たない場所に回せばいい」
セレナが顔を上げた。
「本当に?」
「任せてくれ。あの工房が落ちれば、エレーナも少しは思い知るだろう」
部屋の外で、侍女が足を止めた。
手には、欠けた扇子の骨を包んだ布がある。先ほど、セレナから捨てておくよう命じられたものだった。
彼女は布を握り、踵を返した。
主人の寝室ではなく、男爵の執務室へ向かった。




