第6話
玄関へ下りると、アルノは父と話していた。
濃紺の上着はよく手入れされているが、袖口に繕った跡がある。エレーナの姿を見た途端、帽子を持つ手が少し強張った。
「傷を負わせた責任は、私にあります。治療にかかった費用も、お支払いします」
父に向けた言葉は、いつもの口調と違っていた。
「費用の話は後でいい。娘から聞いた。合わない手袋で、扱う板も大きくなっていたそうだね」
「はい」
「本人がやりたいと言っても、経験のある君にしか分からない危険がある。その点は今後、どうするつもりだ」
アルノは布包みを持ち直した。
「手に合う道具を用意します。作業も、できることから決め直したいと思っています。ただ、その前に、ご本人に謝らせてください」
父はエレーナを見た。
「話せるか」
「はい」
応接室ではなく、玄関脇の庭へ出た。父は少し離れた窓辺に残り、侍女が茶を用意してくれた。
庭の卓を挟んで座ると、アルノはすぐに頭を下げた。
「……昨日は、悪かった」
エレーナは膝の上で左手を握った。
「血を見たら、怖くなった。俺が気をつけてれば怪我なんかさせずに済んだのに、どうしていいか分からなくて、あんたを帰そうとした」
彼は頭を下げたまま、続けた。
「来るなって言ったのは、取り消させてくれ。あんたの話を聞かずに決めた。そこは、俺が悪い」
「顔を上げてください」
エレーナは、すぐに笑うことはできなかった。
アルノも、許されたとは思っていないようだった。帽子の縁を指で押さえ、返事を待っている。
「昨日は、もう私の席がなくなったように思えて、悲しかったです」
「ああ」
「でも、カシアン様と同じだと言ったのは、言いすぎでした。あの方が憎くて、あなたにまでぶつけました。ごめんなさい」
アルノは一度、息を吐いた。
「比べられたのは、堪えた。けど、俺も同じようにあんたを黙らせようとしてた。親方にも怒られたよ」
「何と仰って?」
「追い出せば、怪我をさせた事実まで消えるのか、って」
アルノは膝に布包みを置いた。
「だから、やり直したい。あんたさえよければ」
包みの中にあったのは、淡い色の革手袋だった。手首まで長く覆う形で、掌と指の腹には厚い当て革がしてある。
「昨夜、小さい手袋を出して縫い直した。だが、合うかは分からねえ。今度は、ちゃんと確かめたい」
「ご自分で?」
「前掛けも手袋も、直せなきゃ仕事にならねえからな。綺麗な縫い目じゃねえけど」
エレーナは左の手袋を取った。
指を入れると、前のものよりずっと動かしやすかった。ただ、小指の先だけが少し余る。
「ここが、もう少し短いと嬉しいです」
「ここか」
アルノは余りを軽くつまみ、印をつけた。前なら、十分だと言ってしまったかもしれない。それを伝えても、彼は嫌な顔をしなかった。
「右は傷が治ってから合わせる。包帯の上で測っても駄目だからな」
エレーナは手袋を返した。
「治るまでは、板を持たずに色を見て、記録をする。それでもお手伝いになりますか」
「むしろ、そこを頼みてえ。俺が持つから、いつもみたいに言ってくれ」
「迎えの時刻になったら帰ります。間に合わない仕事まで抱えて、急いだりしません」
「俺も、危ねえと思ったら理由を言う。怒鳴って済ませねえようにする」
彼はそこで言葉を切り、困った顔をした。
「危ない瞬間は、でかい声が出るかもしれねえけど」
「その時は、私も先に手を止めます」
エレーナが笑うと、ようやくアルノの肩が下りた。
「もう一度、来てくれねえか。仕事の相棒として」
「はい! 私も、あの青を仕上げたいです」
アルノが右手を差し出しかけ、包帯に気づいた。
少し慌てて引っ込め、今度は左手を出す。
エレーナも左手を重ねた。
掌は硬く、指の付け根に細かな傷跡があった。握られた力は、思ったより優しかった。
「よろしく頼む、エレーナ」
顔を上げた。
いつもの「あんた」ではなかった。
アルノは気まずそうに目をそらす。
「嫌なら、呼び直す」
「いいえ。今のがいいです」
エレーナは握った手を、ほんの少しだけ強く握り返した。
「私も、アルノと呼んでよろしいですか」
「ああ」
「では、よろしくお願いします。アルノ」
返事がなかった。
彼の耳が赤くなっていることに気づき、エレーナも黙った。
侍女が新しい茶を置きに来て、二人はようやく手を離した。
その日の午後から、エレーナは板に触れない作業で通い直した。
十日ほどして医師に傷を確かめてもらい、右の手袋も合わせ直してもらった。
新しい手袋は手首まできちんと隠れた。アルノが板を渡す前に、一度引っ張って抜けないか確認する。
「きつすぎねえか」
「大丈夫です」
「途中で違ったら言えよ」
エレーナは頷き、台の上の青硝子を支えた。
暮れかけた光に透かすと、以前の板にあった黄色い筋が消えていた。厚みのある部分にも、灰色の曇りがない。
「これなら、朝の光にも合いそうです」
「明日、早い時間に見ておく。記録も残す」
「私も来ます。朝の色を、自分で見たいです」
アルノは何か言いかけ、窓の外へ目を向けた。
「馬車の都合がつくならな。朝飯、まだならうちで食ってもいい」
工房に来る理由が、一つ増えた。
エレーナはそれを顔に出しすぎないよう、手元の札を書き直した。
奥からマティスが笑う。
「私の分まで食べるんじゃないよ、アルノ」
「食わねえよ!」
「この間の焼き菓子はどうした」
エレーナはこらえきれずに吹き出した。
アルノは言い返すのを諦め、エレーナの頬を指さした。
「そこ、水がついてるぞ」
「どこです?」
エレーナが布で頬を拭くと、アルノが首を振った。
「もう少し上だ」
笑いながら拭き直すエレーナを、彼も口元を緩めて見ていた。
同じ日の午後、男爵邸でセレナは何度目かの呼びかけをした。
「カシアン様。聞いていらっしゃいますの?」
「えっ。ああ、聞いているよ」
カシアンは茶をこぼしかけ、慌ててカップを戻した。
「公募の登録簿を見ていてね。マティス工房の助手に、エレーナの名があったんだ。本当に通っているらしい」
「また、そのお話?」
セレナは扇子を閉じた。
このところ、カシアンはエレーナの話ばかりする。仕事が滞るのも、父に叱られるのも、彼女が去ったせいだと言う。
「手を怪我したと聞いた。そんなところへ通って、何を考えているんだ。僕が止めに来るのを待っているのか」
「心配でしたら、いらっしゃればよろしいのでは?」
「子爵邸からは、訪問を断られているんだよ」
カシアンは不機嫌そうに茶を飲んだ。
セレナは彼の顔を見た。自分のために婚約者を置いてきた時には、もっと嬉しそうにしていたのに。
「少し休みますわ。今日は、もうお帰りになって」
「セレナ?」
「胸が苦しいの。医師はお父様にお願いできますから」
彼が帰ると、セレナは侍女を呼んだ。
「夕方、馬車を出してちょうだい。エレーナ様のお見舞いに伺うわ」
「ですが、お休みになるのでは」
「今は落ち着いたの。私が誰に会うかまで、あなたが決めるつもり?」
侍女は黙って頭を下げた。
馬車を工房の手前に止め、セレナは窓から中を窺った。
エレーナがいた。手袋をはめ、作業台のそばで笑っている。
隣の青年が何か言うと、彼女は首を振り、笑ったまま言い返した。青年も困った顔をして、それから同じように笑った。
恋人を失い、惨めな仕事に縋っている姿を見に来たはずだった。
セレナは扇子の骨を強く握った。
「お嬢様、お見舞いのお品を」
「要らないわ」
セレナは馬車の扉を開けた。
せめて、あの笑い声を止めたかった。




