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病弱なあの子に優しいあなたが、ずっと大嫌いでした  作者: 九葉(くずは)


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第5話

 初めて手伝いをした日から、二週間が過ぎた。

 エレーナは週に三日、午後になると工房へ通った。父は最初、見学を仕事にまで広げるのかと渋ったが、マティスと話し、作業の様子を見てからは、帰る時刻を守るようにと言うだけになった。

 行きと帰りには、子爵家の馬車を出してくれる。


 通う日を決めた時、工房からは、働いた時間に応じて工賃を払うと言われた。初めて受け取った銅貨は、もともとの小遣いとは別の袋に入れてある。

 エレーナはその迎えを待たせたくなくて、作業台の端に小さな時計を置いた。


「こっちの板、昨日のものより紫が強く見えます」


「同じところに並べてみろ」


 アルノが完全に冷えた板を窓辺へ運ぶ。エレーナは白い布を敷き、前の試験片の記録を開いた。


「やはり、こちらです。昼の光だけなら綺麗ですが、灯火では色が沈みます」


「着色に使った鉱物を、少し減らしてみるか。次は重さを分けて焼く」


 彼が配合を書き留める横で、エレーナは試験片に番号を振った。

 当初は硝子を洗うばかりだったが、最近は色の比較と記録を任されるようになった。温度や配合には口を出せなくても、どの板がどの光に合うかは、二人で話し合える。


「あんたの『濃いけど暗くない青』って、最初は無茶言うなと思ったよ」


「私だって、うまく言えなかったんです」


「今は分かる。この端の色だろ」


 アルノが指さした場所に、エレーナも顔を寄せた。

 探していた青が、薄いところと厚いところの境目に見える。


「そうです。これです!」


 顔を上げると、思ったより近くにアルノの目があった。

 エレーナは先に視線をそらした。彼は何も言わず、硝子を持つ位置だけを変えた。



 茶の時間になると、アルノは作業の手を止める。

 最初の頃、エレーナは少しでも仕事を進めようとしていたが、彼が自分の分も淹れずに待っていると分かってからは、席を立つようになった。


 先週、その卓でカシアンとの婚約を解消したことを話した。

 あの雨の夜、なぜ劇場から歩いてきたのかも。

 アルノは黙って聞き、最後に「迎えを頼んだなら、来なきゃ駄目だろ」と言った。難しいことは何も言わなかった。


 今日はエレーナが、小さな焼き菓子を持ってきた。


「お茶の代金は受け取ってくださらないので、一緒に食べる分です」


「逃げ道を塞いできたな」


「お嫌でした?」


「いや。親方、取らねえなら俺が二つ食うぞ」


「誰が取らんと言った」


 マティスが皿を引き寄せる。

 エレーナは笑いながら、自分の一つを取った。

 こうしてくだらないことで笑うために、次も来たいと思う。それをまだ、アルノには言っていなかった。



 帰る前に、洗い終えた板を棚へ移そうとした時だった。

 濡れた手袋の中で指がずれ、板の重みが片方へ寄った。


「あっ」


 落とすまいと腕を差し入れた拍子に、削り残した角が、手袋の外へ出ていた右の手首を擦った。

 細く走った傷から、血がにじむ。

 エレーナは板を台に戻し、息を止めた。


「おい!」


 アルノが駆け寄った。

 手首を見た彼の顔色が変わる。棚から清潔な布を取る手が、道具にぶつかった。


「それで押さえてろ。医者を呼ぶ」


「そこまでではありません。少し擦っただけですし」


「血が出てるだろ!」


 思わず肩をすくめると、アルノは唇を噛んだ。


「悪い。怒鳴るつもりじゃ」


「私こそ、すみません。板は割らずに済みました。手当てをしたら、残りを片付けます」


「戻れるわけねえだろ!」


 彼は大きすぎる手袋を見た。

 ずれると知っていた。扱う板が少しずつ大きくなっていたのに、慣れてきたからと任せてしまった。

 アルノは前掛けを掛ける釘へ目をやり、低く言った。


「……もう来るな」


 エレーナは布を押さえたまま、顔を上げた。


「え?」


「あんたは子爵家の娘だ。こんなところで傷を作る必要はねえ。俺の仕事を手伝って、一生痕が残ったらどうするんだ。親父さんに、何て言えばいい」


「それは、私からもご説明を」


「もう終わりだ。明日からは家にいろ。俺だけでやる」


 アルノが彼女の鞄を取り、作業台へ置いた。

 その音に、エレーナの目から涙が出た。

 傷より、帰り支度を先にされることが堪えた。


「勝手に決めないでください!」


 アルノの手が止まる。


「私がいつ、辞めたいと申しましたか! 今日は作業をやめます。怪我をしたことも、お父様に話します。でも、その先のことまで、なぜあなたが決めるのですか!」


「あんたに怪我をさせたのは俺だ!」


「なら、次はどうしたらいいか、一緒に考えてください!」


 言ってから、エレーナは一度息を吸った。


「私が貴族だからですか。役に立ちたいと言ったのも、ここへ通いたいと言ったのも、本気だとは思ってくださらなかった?」


「そんなことは言ってねえ」


「私のためだと言いながら、私の話を聞かずに終わりにするのは、あの方と同じです!」


 アルノが黙った。

 言いすぎた。そう思ったが、引っ込めればまた笑って従うことになりそうで、口を開けなかった。

 マティスが杖で床を軽く叩いた。


「まず、手当てだ。話はそれからにしなさい」


 戸口から御者が迎えを告げた。

 エレーナは鞄を取り、自分で前掛けを外した。


「今日は帰ります。医師にも診ていただきます」


 アルノは馬車までついてきたが、何も言えなかった。

 扉が閉まる直前、エレーナはもう一度だけ彼を見た。

 次に来る日の約束は、できなかった。



 その頃、高級宝飾店では、セレナが首飾りを首元へ当てていた。


「カシアン様、こちらが似合うと思いません?」


「ああ。だが、今日は見るだけではなかったのかい」


 午後、胸が苦しくて不安だという使いが来た。駆けつけると、少し気分が良くなったので外へ出たいと誘われたのだ。

 セレナは店員へ微笑み、首飾りを箱へ戻させた。


「こんな小さな楽しみも駄目なのですか。毎日、お薬を飲んで我慢していますのに」


 カシアンは値札を見た。

 最近、父からは小遣いを増やせないと言われていた。店の掛け払いも、先月分が残っている。


「また今度にしよう。今は手持ちがない」


「エレーナ様への贈り物には、惜しまずお使いでしたのに」


 エレーナなら、払えないと分かってなお買ってくれとは言わなかった。

 そう思いかけて、カシアンは打ち消した。

 あちらが勝手に去ったのだ。自分の選び方を、今さら間違いにはできない。


 結局、何も買わず店を出た。セレナは帰りの馬車で、一度も彼を見なかった。



 局へ戻ると、カシアンに辞令が渡された。


「公募の受付と展示設営を補佐してもらう。責任者は私の補佐官だ。君は受領票を照合し、決められた配置図どおりに運び入れる者へ指示を出せ」


「設計の監修や予算の担当は」


「別の者に任せる」


 局長は彼の机へ目を向けた。


「未処理の書類も引き継ぐ。今度こそ、自分の持ち場を途中で放り出すな」


「こんな下働きのような役目を、伯爵家の私に!?」


「出自で仕事を選べると思うなら、辞職を申し出なさい」


 カシアンは辞令を受け取るしかなかった。

 同僚たちが彼の机から書類を運んでいく。助けてくれるはずだった部下も、今日は一度も目を合わせなかった。



 翌朝、エレーナは手首の包帯を確かめた。

 医師によれば傷は深くなく、しばらく水仕事を避ければよいという。父には叱られた。けれど、工房へは二度と行くなとまでは言われなかった。


「続けたいなら、怪我を防ぐ方法まで相談しなさい」


 その言葉を、エレーナは何度も思い返していた。

 アルノにも、そう言えばよかったのかもしれない。


 手紙を書こうと机に向かったところで、侍女が入ってきた。


「お嬢様。マティス工房のアルノ様がお見えです」


 エレーナはペンを置いた。


「お父様にお詫びをしたあと、お嬢様とお話ししたいと」


 窓から見ると、門の内側に濃紺の上着を着た人影があった。

 エレーナが立ったことに気づくと、アルノは帽子を脱いだ。

 もう片方の手には、小さな布包みがあった。

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