第4話
工房へ入ると、アルノが作業台から顔を上げた。
革の前掛けをつけ、片手には濡れた砥石を持っている。エレーナを見るなり、その手を止めた。
「あんたか。風邪は引かなかったか」
「はい。おかげさまで」
用意してきた長い挨拶が、そこでどこかへ行ってしまった。
エレーナはまず、傘と布を差し出した。
「お借りしたものをお返しに参りました。こちらは、馬車の代金です」
小さな革袋を置くと、アルノが中身を手にあけた。銅貨を数え、銀貨を袋へ戻す。
「多いぞ」
「お茶と、助けてくださったお礼も」
「馬車代だけでいい。茶は俺も飲むところだったし、布は洗えばまた使える」
「でも」
「あんたが無事に帰ったなら、それで済んだ話だろ」
エレーナは袋を受け取った。
礼を断られると思っていなかったので、少し困った。何もしないまま帰るのは、どうにも落ち着かない。
アルノもそれを見て、困ったように頭を掻いた。
「別に、気を悪くしたわけじゃねえから。そんな顔するな」
横からマティスが声をかけた。
「アルノは断り方を知らないんだよ。まあ座って、見ていっておくれ」
「親方、余計なこと言うな」
その言い合いに笑って、エレーナは丸椅子へ座った。
戸口では、付き添いの侍女が帰りの時刻を確認している。父は初めて訪れる工房を心配し、迎えまでの間はそばにいるよう言いつけていた。
アルノは気にする様子もなく作業へ戻った。
木枠に立てられた硝子は、棚ごとに色が違う。深い青、緑がかった青、ほとんど透明に見える青。
エレーナは一枚ずつ眺めた。
「同じ青でも、こんなに違うのですね」
「窯から出すまで、狙った通りになったかは分からねえ。こっちは外れだ」
アルノが顎で示した箱にも、青い板が入っている。
「礼拝堂の公募に出す。締め切りまで六週間だが、まだ色が決まらなくてな」
壁に公募要項が留めてあった。
王宮礼拝堂の東の高窓と、夜の祈りに使う灯具の改修。出品するのは色硝子を使った小型ランプと、同じ技法で作った試験板だという。
「窓の光と、火を入れた時の光。両方見られるんですね」
「ああ。採用されれば、建築局と他の工房も交えて本工事に入る。うちだけじゃ、とても手が足りねえ」
要項の末尾には、工事を無事に納め、技術を認められた責任者は、名誉工匠の称号や一代士爵位への推薦対象になるとあった。
エレーナがその行を読んでいると、アルノが顔をしかめた。
「俺が欲しいのは仕事だ。親方が育てたこの工房で、あそこへ硝子を納めたい」
「あそこは寒くてねえ。私は一度行っただけで十分だよ」
マティスが笑う。
棚の下段には、青と透明の硝子が重なった、小さな見本が置いてあった。
「こちらも出品なさるのですか?」
「親方の昔の試し焼きだ。二枚を重ねて焼くと、厚みで色の見え方が変わる。ただ、うまくやらねえと冷ます間にひびが入る。今の俺には、まだ使いこなせねえ」
アルノはそれを棚へ戻し、洗い終えた硝子を布の上に並べた。
桶のそばには、まだ汚れのついた小さな板が積まれている。
「私にも、お手伝いできることはありませんか」
アルノの手が止まった。
「硝子は切れるぞ」
「はい。扱い方を教えていただけることなら。難しければ、別のお仕事でも」
「礼なら、もう受け取った」
「お礼だけではありません。先ほどから、洗ったらどんな色になるのか、気になってしまって」
エレーナは桶のそばの板を見た。
アルノは彼女と硝子を交互に見て、やがて小さく息を吐いた。
「じゃあ、縁を削ってある小せえ板だけだ。勝手に次へ手を伸ばすなよ」
侍女へ目を向けると、彼女は袖口を留める紐を差し出した。
「旦那様には、見学のついでに少し体験をなさったとお伝えします。一時間たったら、お帰りくださいませね」
「約束します」
アルノは手袋と前掛けを持ってきた。手袋は大きかったが、手首の紐を締めれば抜けなかった。
「桶の中で、こいつを台に載せる。手で縁を撫でず、布で汚れを取れ。割れやひびを見つけたら呼べ」
「はい!」
最初の一枚は、驚くほど時間がかかった。
角の汚れが落ちず、布を持ち替えようとすると手袋が邪魔をする。アルノは急かさず、板の向きを変えてくれた。
洗い終わった硝子を窓の前へ置くと、下の白布に青い色が落ちた。
「あら」
エレーナは角度を変えた。
「こちらの端だけ、緑がかっています。下に黄色い筋があるのでしょうか」
アルノが手を止めた。
彼は硝子を受け取り、窓へ透かして見た。次に白布へ落ちる色を見比べる。
「本当だ。ここだけ色が偏ってる」
「昨日の仕込みかい」
マティスが尋ねた。
「ああ」
「灰を替えただろう。混ざり物が残ったのかもしれんな。次の仕込みで確かめてごらん」
エレーナは箱の中の別の板にも目を向けた。
「この二枚は、同じ窓に並べたら色が揃いませんね」
「そこまで見てたのか」
「母の刺繍糸を選ぶお手伝いをしていましたから。灯りの下で同じに見えても、朝になると違ったりして」
アルノは硝子に小さな札を添えた。
「助かった。組んじまってから気づくと、やり直しだからな」
エレーナは手元の布を握り直した。
自分の話を最後まで聞いてもらえた。そのうえ、自分の見つけたことが、目の前の仕事に使われている。
「次の板も、見てよろしいですか」
「ああ。今度はそっちの、明るい青だ」
迎えの時刻を告げられるまで、エレーナは時計を一度も見なかった。
前掛けを外すと、アルノが紙包みを差し出した。
「手伝いの礼だ」
中には、小さな焼き林檎が入っていた。隣の屋台から、侍女の分と合わせて買ってきてくれたらしい。
「お茶と布のお礼は受け取ってくださらないのに?」
「俺が頼んだ仕事をしたんだから、別だ」
「では、これはいただきます」
エレーナは匙を入れた。
皮の近くは少し焦げていて、真ん中には蜜がたまっている。熱いところに当たり、思わず目を細めると、アルノが慌てた。
「ゆっくり食えよ!」
「美味しいです」
彼は返事をせず、自分の林檎へ匙を入れた。
エレーナは帰り際に、もう一度振り返った。
「父と相談して、また伺ってもよろしいでしょうか。青の続きが気になります」
アルノが口を開くより早く、マティスが笑った。
「茶を多めに沸かしておくよ」
カシアンが次に男爵邸を訪れると、セレナは新しいドレスの見本帳を膝に載せていた。
「婚約解消、正式に決まったそうですわね。エレーナ様は思い切ったことをなさるのね」
「子爵が騒ぎすぎたんだ。父まで、先方へ頭を下げると言い出して」
「でも、これからはお気兼ねなく私のところへ来られますわ」
セレナは彼の袖を引いた。
カシアンは時計を見たが、結局、腰を下ろした。
局へ戻った時には、机に書類が積み上がっていた。
「カシアン殿! 礼状の宛名が違っている。先方は代替わりをして二年になるぞ!」
「出欠の返事も、まだ照合できていないのか!」
カシアンは書類をめくった。エレーナに頼んでいた私的な礼状の下書きや、社交相手についての覚え書きは、婚約解消とともに返却してしまった。
彼女の覚え書きがなければ、誰と誰を同席させてはいけないのか、贈答の礼をどの順に出すのか、その程度の判断にも時間がかかった。
自分で覚えようとしたことがなかったのだ。
局長が机の横に立ち、書き損じた礼状を拾った。
「これが、確認済みなのか」
「すぐに直します」
「そう言ったのは、昨日もだ」
カシアンは立ったまま、訂正箇所を指で押さえた。
エレーナなら、一目で気づいたはずなのに。
そう思ったことに腹が立ち、彼は紙を押さえる指へ、さらに力を込めた。
その晩、アルノは作業台の向かいに積んであった道具を片付けていた。
「何を始めたんだい」
奥からマティスが尋ねた。
「丸椅子じゃ腰が疲れるだろ。次に来た時は、こっちに座ってもらう」
「まだ来ると決まっちゃいないのにねえ」
「来るかもしれねえだろ」
返事が早すぎたのか、マティスが声を立てて笑った。
アルノは黙って、背もたれのある椅子を運んできた。
作業台を挟んで、二人で座れるようになった。




