第3話
応接室に入っても、カシアンは薔薇の花束を手放せなかった。
受け取る使用人がいない。仕方なく膝に置くと、向かいのヘンドリック子爵が、その花を一度だけ見た。
エレーナは父の隣へ座った。
「閣下。昨夜のことは、すでにエレーナにも説明いたしましたが」
カシアンは笑顔を整えた。
「少し誤解があるようです。セレナ嬢の持病が急変し、医師を手配せざるを得ませんでした。エレーナには後から馬車を送ると約束していたのですが、あの嵐で手配が難航しまして」
「誰に手配を頼んだ」
「は?」
「馬車を呼ぶよう、誰に命じたのだ」
カシアンは口を開き、すぐに閉じた。
子爵は返事を待った。暖炉で薪の崩れる音がした。
「あの、男爵家の者に頼むつもりでは」
「頼まなかったのだな」
「ですが、娘さんは健康な大人です! 劇場にいれば安全だと思ったのです。何も、路上に捨てたわけではありません」
子爵は机に置いてあった紙を取り上げた。
「これは我が家の御者の報告だ。医師を送り届けた後、何度も劇場へ戻る許可を求めた。それを、もう一度医師が必要になるかもしれないと、貴殿が引き留めた」
「急患だったのですよ!」
「娘には別の迎えがあると告げておきながら、その手配はしなかった。局の公務だと偽り、他家の御者を使い続けた。ここに誤解はあるか」
カシアンの手から、薔薇の葉が一枚落ちた。
子爵は紙を机へ戻した。
「病人を助けたことを責めているのではない。貴殿が引き受けた約束を放置したことを聞いている」
カシアンは答えず、エレーナへ顔を向けた。
「君がこんな大げさな話にしたのかい!? 無事だったんだから、それでいいじゃないか! たった一度、迎えが遅れたくらいで!」
「一度ではありません」
自分の声が意外なほどよく通った。
エレーナは膝の上で、左手の薬指に触れた。
「去年、お母様のお見舞いに一緒に来てくださると約束した日も、私の成人のお祝いの日も。セレナ様がお呼びになると、あなたはいらっしゃらなかった」
「だから、彼女は病気で」
「来られないと知らせることさえ、なさらなかった。私が尋ねたら、健康な君には分からないと仰いましたね」
銀の指輪を抜いた。
つい昨日まで、外せばすべてを失うような気がしていた。それなのに、小さな輪はするりと指を離れた。
机に置くと、硬い音がした。
「エレーナ。よしなさい。そういう脅しは」
「脅しではありません」
エレーナは彼を見た。
花束の向こうで、カシアンはまだ困った笑い方をしている。宥めれば戻る。少し厳しく言えば黙る。そう思っている顔だった。
「病弱なあの子に優しいあなたが、ずっと大嫌いでした」
笑みが消えた。
「何だって?」
「セレナ様を心配するたびに、私には我慢をさせる。私が寒いと言えば健康だからと笑い、悲しいと言えば心が狭いと叱る。そんなふうにしか誰かに優しくできないあなたが、嫌いでした」
「僕が、どれだけ君に」
「そのたびに、自分の方が悪いと思おうとしました。優しい方と結婚できるのだから、と。でも、昨日は怖かった。迎えが来ないまま夜になって、家にも連絡できなくて」
言葉が一度、詰まった。
隣で父が動きかける。エレーナは小さく首を振り、自分で続きを言った。
「あなたは今朝も、私がどう帰ったのかさえ聞いてくださいませんでした」
カシアンはエレーナの靴元を見た。
すでに乾いた、別の靴だった。昨夜の泥も、冷えも、ここにはない。そのことに、今さら困っているように見えた。
「もう結構です。セレナ様には、どうぞお好きなだけ優しくなさってください。私の時間まで、お使いにならないで」
「ふざけるな! 僕と別れて、君の家がどうなるか分かっているのか!」
「我が家の心配は無用だ」
父が書類を彼の前に置いた。
「婚約解消の通告だ。理由を添えて貴殿の父君へ送り、貴族院にも届け出る。贈答品と婚約時の取り決めについては、双方の代理人で清算する」
「そんな勝手な」
「昨夜の件は、典礼局にも申し入れる。公務を名乗って馬車を使ったのだから、私事だけでは済まない」
カシアンが立ち上がった。花束が膝から滑り落ちる。
「エレーナ、君からも言ってくれ。少し頭を冷やそう。今日は疲れているんだろう?」
「よく眠りましたわ。温かい食事もいただきました」
エレーナも立った。
「昨日より、ずっとはっきり考えられます」
カシアンが手を伸ばしたが、控えていた従僕が間に入った。
「お帰りください、カシアン様」
「僕に触るな! エレーナ、後悔するぞ! 僕と別れたら、僕のような男は二度と現れないぞ!」
扉へ連れていかれる背に、エレーナは答えた。
「それを願っております」
カシアンが振り返った。
その顔を最後まで見ることはしなかった。
扉が閉まると、エレーナは椅子へ腰を下ろした。指先が遅れて震え出し、うまく重ねられない。
父は何も言わず、お茶を手元へ寄せてくれた。
「お父様。花は、誰かに差し上げてください。花まで嫌いになりたくありません」
「そうしよう」
エレーナはカップを持ち上げた。
薬指に輪がないことが、少しだけくすぐったかった。
その日の午後、典礼局の共同執務室で、カシアンは何度も同じ行を読み直していた。
エレーナが自分を拒んだ。
その言葉が頭を離れず、招待状の宛名が一つも書けない。
「カシアン。私の部屋へ」
局長に呼ばれ、彼は慌てて立った。
局長室の机には、子爵家からの親書があった。御者の署名入りの報告も添えられている。
「婚約者との争いに口を出すつもりはない。だが、昨夜は私用で局の名を使ったそうだな」
「急を要する事情が」
「ならば、まずその報告を書け。誰の指示を受け、何時にどの馬車を使ったのか。公務だったと言うなら、記録が残るはずだ」
カシアンの唇が乾いた。
記録などない。あの場で御者を従わせるために、口にしただけだった。
局長は返事のない彼を見て、椅子の背に凭れた。
「以前から中座が多いとの報告もある。礼拝堂改修の主担当への推薦は、保留する。今ある仕事を確実に処理しなさい」
「局長! それだけは!」
「今、挽回できるかどうかは君自身にかかっている」
部屋を出ると、廊下の掲示板に新しい公示が貼られていた。
『王宮礼拝堂改修事業 装飾硝子試作公募』
冬から予告されていた事業の、最終要項だった。
カシアンはこの事業で名を上げるつもりだった。伯爵家を継ぐ兄とは違う形で、父に認めさせるはずだった。
自席へ戻り、未処理の礼状を開いた。
誰にどの敬称を使うのか。一度確かめたはずなのに、思い出せない。
いつものようにエレーナへ聞こうとして、ようやく手が止まった。
三日後、エレーナは父の馬車で職人街へ向かった。
膝には、借りた傘と、洗って畳んだ木綿布。財布には馬車代を分けて入れてある。
婚約の解消は、ラインフェルト伯爵家からも受け入れると返事が来た。身につける服も、午後の予定も、誰の好みに合わせる必要もない。
エレーナは簡素なワンピースの袖を確かめた。
工房の看板が見えると、なぜか、礼を述べる言葉をもう一度考え直したくなった。
馬車を下り、木の戸に手をかける。
中から、あのぶっきらぼうな声が聞こえた。
「開いてるぞ。足元、気をつけろ」




