第2話
「おい。やっぱり、どこか痛むのか?」
戸口から戻ってきた青年が、カップを握るエレーナの前で足を止めた。
エレーナは慌てて首を振ったが、涙は止まらなかった。
「違うんです。お茶が、温かくて」
「そりゃ、湯を沸かしたからな」
困り切った返事だった。
そんな当たり前のことを言わせてしまったのが可笑しくて、エレーナは泣きながら少し笑った。
「すみません。変なことを申しました」
「謝らなくていい。少し待ってろ」
青年は棚を探り、清潔な木綿布を二枚持ってきた。
「油のついてねえやつだ。髪を拭け。着替えはないが、毛布なら出せる」
押しつけるように渡された布から、乾いた洗濯物の匂いがした。
エレーナが髪を押さえていると、奥の戸が開いた。
「アルノ、誰か来ているのかい」
白髪交じりの男が、壁に手を添えて出てきた。青年はすぐにそちらへ向かい、床に置いた箱をどける。
「親方。雨に濡れた客だ。今、馬車を呼ぼうと思ってた」
「そうかい。お嬢さん、炉のそばの椅子が空いているよ。アルノ、濡れた床に気をつけてな」
男はエレーナの声のする方へ顔を向けた。
「ここの先代のマティスです。目が悪くなってね、見苦しい格好でも分からんから、気にせずくつろいでおくれ」
「エレーナと申します。突然、お邪魔いたしまして」
「ああ、ご挨拶は座ったままでいい。茶は足りているかな」
アルノというらしい青年が、椅子を引いてくれた。
毛布を膝にかけると、ようやく肩から力が抜けた。誰も、どうして泣くのかとは尋ねなかった。
アルノは軒先の片付けに戻り、マティスは少し離れた椅子に座った。箒の音と、屋根を打つ雨の音が聞こえる。
カシアンに何が起きたのか。
忘れられてしまったのか。
そればかり考えていた頭で、エレーナはようやく別のことを考えた。
「こちらから、家に知らせを出せますでしょうか。東区のヘンドリック子爵邸です」
「ヘンドリックさんのところか。歩いて帰れる距離じゃないねえ」
マティスが戸口に声をかけた。
「アルノ、宿のロイに頼んでみなさい。夜も馬を出していたはずだ」
「ああ。家まで送ってもらえりゃ、その方が早い」
アルノは傘を手に取った。
「今のうちに茶を飲んどけ。冷めちまうぞ」
隣の通りの宿屋には、客を送って戻ったばかりの馬車があった。
待つうちに茶は冷めたが、エレーナの肩の震えは止まっていた。最後の一口を飲み終えた頃、工房の前で車輪が止まり、アルノが顔を出した。
「乗れるか。足はもう動くか?」
「はい。ありがとうございます」
立ち上がると、膝が少し頼りなかった。アルノが腕を差し出す。
エレーナはその袖を借りて、ゆっくり戸口まで歩いた。
「代金は先に払った。家の名前も伝えてある」
「お返しいたします。今、手持ちが足りるか」
「明るくなってからでいい。慌てて財布を落とすなよ」
アルノはそう言って、傘を彼女へ渡した。
「これも持ってけ。向こうで玄関まで歩くだろ」
「あなたが濡れてしまいます」
「俺はあと三歩で家だ」
言われてみればその通りで、エレーナは小さく笑った。
馬車へ乗り込むと、アルノが扉を押さえたまま言った。
「今夜は、温かいもんを食って寝ろ」
「はい。アルノさん」
名前を呼ぶと、彼は少し面食らった顔をした。
扉が閉まり、馬車が動き出す。窓の向こうで、青年はもう破片を片付けに戻っていた。
引き戸の横には、素朴な看板があった。
『マティス硝子工房』
エレーナはその名を、忘れないよう心の中で繰り返した。
子爵邸の玄関には、夜更けにもかかわらず灯りがともっていた。
馬車が止まるなり、父が外へ出てくる。
「エレーナ!」
玄関先で抱きとめられた。父の上着に頬をつけた途端、帰ってきたのだと分かった。
「無事だったのか。怪我はないか!」
「大丈夫です、お父様。親切な方に助けていただいて」
「つい先ほど、御者が帰ってきた。カシアン殿に男爵邸で待てと命じられ、何度帰りたいと申し出ても聞き入れられなかったと言うんだ。使いを出したところだった」
御者は、主人の娘の安否を確かめるために、最後は命令を振り切って戻ったという。
奥から母と侍女が駆けつけた。毛布を取りに行こうとする母を見て、エレーナは借りた傘を従僕に預けた。
「その傘は、大切に置いてください。お返ししなくてはならないものです」
暖炉のそばで靴を脱ぎ、エレーナは起きたことを話した。
馬車を借りたいと言われたこと。迎えを頼んでおくからと残されたこと。終演後も、約束の迎えが来なかったこと。
話すうちに父の顔色が変わった。
「あいつは、お前の誕生日に何をしているんだ!」
「病気の方を助けるためだから、と言われました」
「それなら、お前の足も手配すればいいだろう!」
父は立ち上がりかけ、エレーナの震える手を見て座り直した。
母がその手を包んでくれた。
「ごめんなさい。こんなになるまで、気づかなくて」
エレーナは首を振った。
これまで、約束が流れたことも、寂しかったことも、家では大したことではないように話していた。婚約者の評判を下げたくなかったし、自分が選んだ相手を間違いだと思いたくなかった。
「明日、カシアン様がいらしたら、私からお話しさせてください」
「顔を合わせる必要などない。私から向こうの伯爵家へ」
「お父様にも、そばにいていただきたいです。でも、終わりにすることだけは、自分で伝えたいのです」
父はしばらくエレーナを見た。
それから、膝の上で握っていた拳をほどいた。
「分かった。お前が話し終えるまで、隣にいる」
翌朝、熱が出ていないことを確かめた母は、それでもエレーナに朝食を残さず食べさせた。
十時を過ぎた頃、カシアンが訪ねてきた。
クリーム色の外出着には泥一つなく、腕には大ぶりな薔薇の花束を抱えている。
「やあ、エレーナ! 昨日はすまなかったね!」
玄関に出たエレーナを見ると、彼はいつもの笑顔を浮かべた。
「大変だったんだよ。セレナが不安がって眠れなくてね。僕が手を握っていると落ち着くから、帰るわけにもいかなくて」
「そうですか」
「君の馬車も手配するつもりだったが、夜更けでつかまらなかったんだ。君なら劇場でうまく雨宿りしただろうと思って。無事でよかったよ」
彼はそこで言葉を切った。
昨夜のことを尋ねはしなかった。どうやって帰ったのか、雨に濡れなかったか、寒くはなかったか。
エレーナが黙っていると、カシアンは花束を一層近くへ差し出した。
「ほら。君の好きな薔薇だ。今夜は食事に行こう。昨日のやり直しだ」
エレーナは受け取らなかった。
結婚したら、こんな朝が何度来るのだろう。待たされて、謝られて、花を渡される。それで許したことにされる。
「エレーナ?」
カシアンの笑顔が崩れた。
「まだ怒っているのかい。こうして謝っているじゃないか。少しの焼きもちなら可愛いが、あまり意地を張ると見苦しいよ。セレナは病気なんだから」
いつもなら、その言葉で口をつぐんだ。
今日は、彼の目を見たまま答えた。
「やり直しなど、金輪際不要ですわ」
「何を言っているんだ?」
「中へお入りください。お父様がお待ちです」
エレーナは踵を返した。
背後からついてくる靴音が、初めて、ためらうように遅れた。




