第1話
王都の大劇場の車寄せに、紋章をつけた馬車が次々と滑り込んでいた。
エレーナは石の柱の陰で、手袋をした指を重ねた。春になったとはいえ、日が落ちると風が冷たい。空を覆う雲を見上げ、それからまた、階段の下へ目を戻す。
十九歳の誕生日だった。
今夜の観劇は、婚約者のカシアンがひと月前から約束してくれていた。好きだと言った演目を覚えていてくれたのが嬉しくて、エレーナは昨日から着ていく服を迷っていた。
開演まで、もう十分もない。
「エレーナ、すまない! 待たせたね!」
石段を駆け上がってきたカシアンに、エレーナはようやく笑いかけた。
「間に合ってよかったですわ。さあ、中へ」
「いや、その前に。君の家の馬車は、まだ待機所にいるね?」
「ええ。終演後も迎えてくれるよう、頼んでありますけれど」
カシアンは困り切った顔で、彼女の肩に手を置いた。
「セレナが急に息苦しくなってね。医師を迎えにやりたいのに、男爵家の馬車が故障しているんだ。僕が乗ってきた辻馬車も、もう行ってしまった。君の馬車を貸してほしい」
エレーナは彼の顔を見た。
セレナはカシアンの元婚約者だった。呼吸器の持病が悪化し、結婚後、王宮典礼局に勤める夫に伴って社交の場へ出るのは難しいと、両家の合意で婚約を解消している。その後、熱心に求婚してきたのはカシアンの方だった。エレーナとの婚約からは、二年になる。
病気の人を案じるのは当然だ。そう思ってきた。
けれど、二人で出かける日には、なぜかセレナから使いが来る。
「医師の送迎が終わりましたら、御者をこちらへ返していただけますか。私も帰る足が必要です」
「そんなに早く済むとは限らないだろう。今夜は僕も向こうにいる」
「では、私の迎えをどうするか、先に決めてください。もう雨が降りそうですわ」
カシアンの手が肩から離れた。
「あの子はいま、息も苦しくて怯えているんだ。君は健康で、劇場のロビーで雨宿りくらいできるだろう?」
「そういうことを申し上げているのでは」
「命に関わるかもしれないのに、自分の誕生日がそんなに大事かい。君がそんなに冷酷な女だとは思わなかったよ」
近くにいた客が振り向いた。
エレーナは、手袋の中で指を握った。言い返したら、また病人を妬む女だと言われる。これまでは、その顔を見られるのが嫌で口を閉じてきた。
カシアンは返事を待たず、待機所へ大声を飛ばした。
「おい、その馬車を出してくれ! 医師を乗せて男爵邸へ向かう!」
御者が慌てて御者台から下りてきた。
「ですが、旦那様からはお嬢様をお送りするようにと」
「典礼局の用務に関わる急患だ。伯爵家の私が責任を持つ!」
御者はエレーナを見た。彼女が口を開くより先に、カシアンが馬車の扉を開ける。
「君の迎えは僕が別に手配する。辻馬車を必ず寄こすから、ロビーで待っていなさい」
「カシアン様、まだ話は」
「今は急いでいるんだ!」
扉が閉まった。
御者は深く頭を下げ、追い立てられるように御者台へ上がった。走り去る馬車の後ろを見送りながら、エレーナは下ろしそびれた手を引っ込めた。
開演を告げる鐘が鳴る。
切符は、カシアンが持ったままだった。
男爵邸に医師が到着してほどなく、セレナの呼吸は落ち着いた。
カシアンは寝台の脇に椅子を寄せ、出された紅茶に口をつけた。
「しばらく安静に。息苦しさが戻るようでしたら、また使いをください」
医師が帰り支度を始めると、セレナがカシアンの袖をつまんだ。
「まだ帰らないでくださいますね? 一人になると、また苦しくなりそうで」
「もちろんだよ。君を置いて帰れるものか」
廊下で待つ御者に、使用人が取り次いだ。
「お医者様をお送りした後も、門のところで待つようにとのことです。もう一度お迎えに行くかもしれませんので」
「子爵家のお嬢様のお迎えは」
「カシアン様が手配なさるそうです」
その頃、寝室ではセレナが微笑んでいた。
「エレーナ様は、お怒りになりませんでしたか。大切なお誕生日ですのに」
「少し拗ねていたが、分かってくれたよ。彼女は丈夫だからね」
カシアンはセレナの手を取った。
劇場へ馬車を送るように。誰かにそう一言伝えれば済むことだった。
けれど、彼は目の前の「心細いの」という声に応じるばかりで、結局、誰も呼ばなかった。
閉館を知らせに来た案内係に、エレーナは再び迎えのことを尋ねた。
「まだ馬車は来ていませんか」
「あいにく。お名前を伺った馬車は一台も」
公演が終わってからも、係の者が何度か表に出てくれた。辻馬車にも声をかけてくれたが、この雨ではどれも客を乗せていた。
エレーナが家へ使いを頼んだ時には、夜番を残して従業員も帰るところだった。
「勝手を申し上げて、すみません」
「玄関脇の庇の下なら、夜番もおります。馬車が来ましたらお呼びしますので」
外へ出ると、雨が横殴りに吹き込んできた。
十時を回っていた。庇の端に立つ夜番は通りを見張ってくれたが、なかなか空き馬車は来ない。
靴のつま先から水が染みた。
ロビーにいた間、エレーナは何度も扉を見た。今度こそ迎えが来たのではないかと、車輪の音のたびに立ち上がった。誕生日に見たかった芝居の幕が上がり、下りて、それでも待っていた。
まだ、カシアンが自分を気にかけてくれていると信じたかったのだ。
奥歯が鳴った。
「近くに、夜でも人のいる場所はありますか」
夜番が通りの先を指した。
「二つ目の角を曲がれば宿屋がございます。そちらなら馬車も呼べるかと。ここを離れられず、申し訳ありません」
「道を教えていただけて助かりました」
エレーナは裾を持ち上げた。
家まで歩くつもりはない。ひとまず、暖かくて、誰かに連絡を頼める場所へ行く。
婚約者が決めた場所で、来るかどうかも分からない迎えを待つのは、もうやめよう。
「馬車が来ても、私は待っていないとお伝えください」
そう言って、雨の中へ踏み出した。
二つ目の角を曲がり、宿屋の灯りが見えた時だった。
すぐ脇の軒下で、硬いものの割れる音がした。
「くそっ、枠ごと傷んでやがったか」
作業着の青年が脚立から下り、通りに転がった破片を見て舌打ちした。雨漏りで緩んだ軒灯の硝子を、外していたらしい。
彼が顔を上げた。
「おい、止まれ!」
エレーナはびくりと足を止めた。
「そこ、硝子が落ちてる。踏んでねえか?」
「いいえ。大丈夫です」
青年は足元を確かめ、戸口から傘を取った。広げた傘が、エレーナの頭を覆う。
その時になって初めて、彼は彼女の顔を見た。
「唇、真っ青じゃねえか。どこへ行くんだ」
「向こうの宿屋へ。馬車を頼みたくて」
「それなら、うちで待て。そこまで歩く間に倒れそうだぞ」
口調は荒かった。だが、エレーナが返事に迷う間も、傘は彼女の上から動かなかった。青年の片方の肩だけが、みるみる濡れていく。
「すぐそこの工房だ。親方もいる。暖まるだけでいいから、来い」
「ご迷惑では」
「話は中で聞く。足、冷えるだろ」
彼は傘をエレーナに持たせると、箒で破片を脇へ掃き寄せた。通れる場所を確かめてから、木の引き戸を開ける。
狭い工房には、まだ炉のぬくもりが残っていた。
青年は丸椅子を引き寄せ、奥へ引っ込んだ。エレーナが腰を下ろすより早く、素焼きのカップを手に戻ってくる。
「ほら。両手で持てるか」
炒った麦の匂いがした。
カップに指を添えると、強張っていた関節がじんじんと痛んだ。
「熱すぎるか?」
エレーナは首を振った。
健康なのだから平気だと、今夜、何度思おうとしただろう。
寒かった。
ずっと、寒かったのだ。
青年が戸口の隙間を閉めに行く。その背中を見た途端、涙が一滴、カップの中に落ちた。




