第11話
審査から半年が過ぎ、王都の街路樹が色づき始めた。
王宮礼拝堂の東の高窓には、青と琥珀の硝子が納まっていた。
仕事は簡単には進まなかった。小さな試験板で成功しても、窓に必要な数を揃えるには何度も焼き直しが要った。隣り合う部分の色が違えば、エレーナが記録を持って協力工房へ出向いた。
アルノは窯の前と王宮の現場を行き来した。
それでも、二人で茶を飲む時間だけは、なるべく空けるようにした。休みの日には市場へ出かけた。
工房で使う布を買うつもりが、果物売りの前で足を止めた日もあった。
「林檎と梨、どちらにしましょう」
「好きな方にしろ」
「だから、迷っているんです」
アルノは両方を一つずつ買い、エレーナの持つ籠へ入れた。
「半分ずつ食えばいいだろ」
「では、一緒にお茶を飲む約束もしてください」
アルノは少し驚いた顔をして、それから彼女の手を取った。
「果物がなくても、誘ってくれりゃ行く」
それからは、用事のない日にも会う約束をした。
工事の最終点検を終えた日の朝、二人は礼拝堂の床に並んで立った。
高窓を通った光が、石の床へ落ちている。
エレーナは、青が一段薄くなる場所を見つけた。工房で何度も並べ替えた、あの色だった。
「あそこです」
「分かる」
アルノは、それだけ言った。
しばらくして、二人で同じように息を吐いた。
竣工の式典で、アルノには名誉工匠の称号と一代士爵位が授けられた。
工房の名だけでなく、技術を伝え、工事を納めた責任者としての働きを認めるものだった。
エレーナの名も、色彩の選定と記録を担った助手として、完成の記録に残された。
式を終え、町へ戻る馬車の中で、アルノは何度も証書の筒を持ち替えた。
「落としたらどうすりゃいいんだ、これ」
「そのために紐がついています」
「そういう話じゃなくて」
エレーナが笑うと、彼もようやく少し笑った。
けれど工房へ戻ってからは、妙に落ち着かない。
マティスへ報告し、道具を片付けても、エレーナが鞄を手に取るたびに顔を上げた。
「アルノ。何か、お話があるのではありませんか」
彼はぎくりとした。
「分かるか」
「三度も、その鞄は急いで持たなくていい、と仰るのですもの」
アルノは目を閉じ、短く息を吐いた。
「少しだけ、上へ来てくれ」
工房の屋上は、昼間に布を干す場所になっていた。
取り込んだあとの紐が、秋の風に揺れている。屋根の向こうに王宮の尖塔が見えた。
アルノは手すりのそばで足を止めた。
「今夜、親父さんに会う約束をした」
「はい。お父様から聞きました」
「仕事が終わった報告だけだとは、言ってねえ」
エレーナは頷いた。
アルノは上着の内側へ手をやり、すぐに引っ込めた。
「この位をもらえたのは、ありがたい。あんたの家に話をするにも、以前よりはましだと思う」
「それが、お話ですか」
「違う」
返事はすぐだった。
エレーナは、彼の次の言葉を待った。
「もらえなくても、今日、言うつもりだった。仕事が終わったら話すと決めてたのに、いざ終わると、どう言えばいいか分からねえ」
彼は片手で顔を擦った。
「情けねえな。毎日、あんたとは話してるのに」
「今の話し方で、十分分かります」
エレーナが少し近づくと、アルノは背を伸ばした。
「……俺は、あんたが好きだ」
風が二人の間を通った。
「仕事の腕を褒められた時も嬉しかった。でも、それだけじゃねえ。あんたが茶を飲んで笑ってると、もう少しここにいればいいのにと思う。迎えの馬車が来ると、今日も帰っちまうのかって」
エレーナは、黙って聞いた。
初めて工房へ来た夜には、早く家へ帰りたいと思っていた。その同じ場所で、いつからか、帰る時刻を惜しむようになっていた。
「あなたが遅くまで働く日、私も同じことを考えていました」
アルノの目が動いた。
「一緒に食べて、もう少し話してから帰りたい、と。馬車の中で、次はいつ会えるか数えていました」
「だったら」
彼は上着から、小さな木箱を取り出した。
蓋を開けると、中に硝子の指輪があった。
青い線のそばに、細い琥珀色が添っている。礼拝堂の窓と同じ色が、小さな輪になっていた。
「仕事中につけるには向かねえ。ぶつければ割れるし、指に合わせて直せる金物でもねえから、何度も作った」
エレーナは、先月、左手の薬指へ紐を巻かれたことを思い出した。
何を作るのかと尋ねても、アルノは、その時になったら見せるとしか言わなかった。
「銀の輪も頼める。暮らしに使うものは、別に用意する。けど、最初は、俺の手で作ったものを渡したかった」
「触れても?」
「ああ」
指輪を取ると、見た目より厚みがあった。縁は丁寧に丸められている。
エレーナが指に通す前に、アルノが息を吸った。
「エレーナ。俺と結婚してくれ」
彼は言い終えても、手を伸ばさなかった。
返事を待っていた。
「はい。私も、あなたと暮らしたいです」
アルノの顔が、はっきりと変わった。
笑おうとして、うまく笑えないような顔だった。
「本当に、いいんだな」
「二度も答えさせるおつもりですか?」
「いや。聞きたくて」
エレーナは指輪を左の薬指へ通した。
「はい! アルノが好きです。あなたの妻になりたいです」
彼の肩が落ち、ようやく笑った。
エレーナも笑い、目元が濡れた。
工房で涙を見られるのは、これで何度目だろう。けれど今日は、慌てて拭く気にならなかった。
アルノが手を伸ばした。
「抱きしめてもいいか」
答える代わりに、エレーナは彼の胸へ踏み込んだ。
腕が背中へ回る。いつも道具を扱う手が、今は置き場所に迷って、少し浮いていた。
「もっと、こちらへ」
エレーナがその袖を引くと、ようやくしっかり抱きしめられた。
「あんた、こういう時は遠慮しねえのな」
「今まで、十分しましたので」
彼の胸が、笑いで小さく揺れた。
顔を上げると、すぐそばにアルノがいた。
一度、目が合った。彼が少し身をかがめる。
エレーナは目を閉じ、触れた唇に、自分からもう一度触れた。
階段を下りる前に、指輪は木箱へ戻した。
エレーナが少し惜しそうにしていると、アルノが言う。
「家で、改めてつければいい。階段で手をつくかもしれねえし」
「ええ。大事にします」
そう答えてからも、エレーナは蓋を閉める前に、もう一度だけ指輪を眺めた。
作業場へ戻ると、マティスが茶の支度をしていた。
「二人とも、随分ゆっくりだったねえ」
アルノが喉を鳴らした。
「親方。俺たち、結婚する。これから、あちらの家へ挨拶に行く」
「そうかい」
マティスは頷き、茶を注ぐ手を止めた。
「お嬢さん、あの指輪は気に入ったかね」
「はい。とても」
「それならよかった。夜中に母屋と工房を行ったり来たりするから、戸の音で何度も起こされたよ」
「親方!」
「おや、言ってはいけなかったか」
エレーナは木箱を胸に抱えて笑った。
マティスも笑った。目元を拭いたのは、湯気が目にしみたからだと言った。
子爵家の馬車が着いた。
いつもなら一人で乗るところへ、今日はアルノが乗り込む。
彼は上着の襟を直し、エレーナへ尋ねた。
「変じゃねえか」
「大丈夫です。少し緊張しているお顔ですけれど」
「そりゃ、するだろ」
エレーナは隣へ座り、手を差し出した。
アルノが握る。
「お父様が何を仰っても、二人で答えましょう」
「ああ」
馬車が動き出した。
エレーナの膝には、小さな木箱が載っていた。
アルノの手が、少し震えていた。
エレーナはその手を両手で包み、子爵邸へ着くまで離さなかった。




