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病弱なあの子に優しいあなたが、ずっと大嫌いでした  作者: 九葉(くずは)


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最終話

 子爵邸の応接室で、アルノは深く頭を下げた。


「エレーナさんと、結婚させてください」


 普段の口調を隠そうとするほど、声が硬くなった。

 エレーナはその隣で、父と母を見た。


「私も、アルノと結婚したいです」


 父の視線が、左手の硝子の指輪へ落ちた。

 アルノが持参した士爵位の証書にも目を通したが、それだけで頷くことはなかった。


「暮らしは、どうするつもりかね」


「工房の母屋を直します。今の仕事が終わっても、受注はあります。ただ、急に増やしすぎないようにするつもりです」


「娘も、そこで働くのだな」


「はい」


 エレーナが答えた。


「色の選定と、お客様との相談を続けたいです。もう一人、帳簿を手伝ってくださる方も探しています」


 父は彼女を見たまま、しばらく黙った。


「お前は、頼まれると頑張りすぎる。それを、相手のためだと思ってしまう」


 エレーナはすぐには答えられなかった。

 カシアンの礼状を何枚も書き直した夜や、疲れたと言えず笑った日を、父も知ったのだ。


「はい。だから、できないことは言うようにします。アルノにも、まだ遠慮してしまう時があります。でも、聞いてもらえると分かっています」


 父の目が、アルノへ移った。


「君が怒っている時でもか」


「そうします」


 アルノは父を見返した。


「前に一度、話を聞かずに追い返そうとしました。あれで終わりにされても、仕方なかったと思います。もう、同じことで傷つけたくありません」


 父は、返事の後も黙っていた。アルノは急いで言い足さずに待った。


「私も、娘から聞くことを怠った」


 やがて父が言った。


「相手の家柄や評判が良ければ、大丈夫だと思っていた。娘が平気な顔をしていれば、平気なのだと」


「お父様」


「今度は、困ったら言いなさい。嫁いだ先のことだからと、我慢する必要はない」


 エレーナは頷いた。

 隣でアルノも頷いたので、母が少し笑った。


「あなたもよ、アルノさん。一人で何でも抱えないで。うちの娘は、口にしてくれないと分からないところもありますから」


「はい」


 アルノはまた頭を下げた。

 父が席を立ち、その肩へ手を置いた。


「二人で決めたのだな」


「はい!」


 声が重なった。

 父はようやく頷いた。


「では、食事にしよう。お祝いをするには、腹が減りすぎた」


 エレーナが息を吐くと、アルノも同じように息を吐いた。

 母はそれを見て、今度は声を立てて笑った。



 二人が式を挙げたのは、冬の終わりだった。

 工房の仲間も、協力した職人たちも集まった。マティスは杖をつき、アルノに腕を貸されながら席へ着いた。


 日常に使う指輪は、町の金細工師に頼んだ銀の輪にした。

 硝子の指輪は、特別な日に木箱から出す。エレーナにとっては、どちらも同じくらい大切なものになった。


 母屋の窓には、礼拝堂へ納めたのと同じ青の硝子が、小さく嵌められた。

 台所の棚を作り直す時には、二人で高さを測った。アルノに合わせた棚は、エレーナには少し高すぎたからだ。

 こうして暮らしを決めるたび、結婚したのだと実感した。



 春が来た頃、北方の開拓領では、雪解け水で崩れた道を直していた。

 カシアンは土嚢を抱え、ぬかるんだ斜面を上った。


 王都では数ヶ月、知人を頼って職を探した。だが、典礼局での処分を知られると、帳簿や金を扱う仕事は断られた。紹介状を求める手紙にも、返事は来なかった。

 衣装を売り、装身具を売り、宿代と借金を払ううちに、選べる仕事は少なくなった。

 食事と寝床のつく募集を見つけ、秋の終わりにここへ来たのだった。


「もう一つ運べるか」


 監督に問われ、カシアンは自分の手を見た。潰れた豆に布を巻いているが、握ればまだ痛い。


「少し、休ませてください」


「あの列が済んだら交代だ。皆で分けて運んでいる。自分の分は残すなよ」


 カシアンは唇を噛み、土嚢を取り直した。

 ここでは、家名を名乗っても誰かが代わってくれるわけではなかった。運ばなければ、作業が遅れた分だけ自分の給金も減る。


 雨が降り始めた。

 屋根のある場所まで戻りたかった。だが、先に運び終えなければならない。


 その日の夕食後、カシアンは宿舎の隅で紙を広げた。

 書きかけの宛名は、エレーナのものだった。


 以前、子爵家へ出した手紙は、代理人を通して返された。本人への取次ぎはしないという短い通知が添えられていた。

 それでも、ペンを持つとその名を書いてしまう。


『ここは寒い。食事も』


 書きかけて、手が止まった。

 また、彼女に自分の苦しさを訴えようとしている。


 紙の脇には、残りの借金を記した控えがあった。今月の給金を入れても、たいして減らない。

 昔は、一度呼べば来てくれると思っていた。あの門が閉まってから、エレーナの声を一度も聞いていない。


 カシアンは紙を丸めた。

 捨てようとしても手放せず、膝の上で握り潰したまま、俯いた。


 隣の寝台で誰かが寝返りを打つ。慌てて口を塞いだが、嗚咽は止まらなかった。



 南の別邸では、セレナが空の文箱を覗いていた。


「返事は、これだけ?」


 机の上にあるのは、領地の会計係からの報告だった。装身具の売却代金から賠償金を引いた残りは、父の管理に置かれている。セレナが自由に使える金はなかった。


「ほかには届いておりません」


 侍女が答えた。


 セレナは以前親しくしていた令嬢たちへ、何度も手紙を出した。療養中で退屈だから訪ねてほしい。王都の噂を教えてほしい。

 最初は見舞いの言葉が返ってきた。だが、工房での故意の破壊と王宮からの出入り禁止が伝わると、返事は次第に途絶えた。


 このところ唯一届いた知人の手紙にも、今回のお茶会へは招けないと書かれていた。


「少し、間違えただけじゃない」


 セレナは爪で紙を引っ掻いた。

 以前なら、その言葉に誰かが頷いた。可哀想なお嬢様なのだからと、周りが譲った。


「胸が苦しいわ」


 侍女はすぐに顔を上げた。


「医師をお呼びします。こちらへお掛けください」


 侍女は背もたれを整え、医師を迎える支度を始めた。

 けれど、見舞いに誰を呼ぶかという話にはならなかった。症状を口実に馬車を出してもらうことも、贈り物をねだることもできなかった。


「医師じゃなくて、誰かに会いたいのよ!」


 声を上げたあと、窓の向こうの庭が静かなことに気づいた。

 カシアンは来ない。友人も来ない。父からの手紙は、療養を続けるようにというものばかりだ。


 セレナは手紙を床へ投げた。

 拾ってくれた侍女の袖を掴み、今度は小さな声で尋ねた。


「私、いつ王都へ戻れるの」


「私には分かりかねます」


 袖から指が外れた。

 鏡に映る自分は、前と同じ顔をしていた。それなのに、この顔を見て願いを聞いてくれる人がいなくなった。

 セレナは文箱を閉じられず、来なかった返事を数えるように、空の底を見つめていた。



 その日の夕方、エレーナは客との打ち合わせを終えて工房へ戻った。

 戸を開けると、林檎の焼ける匂いがした。


「おかえり」


 アルノが台所から顔を出す。片手には布、もう片方には、少し黒くなった焼き皿を持っている。


「ただいま戻りました。遅くなってしまって」


「知らせは受け取った。茶、今から淹れる」


 エレーナは鞄を置いた。

 今日は二十歳の誕生日だった。


 午前中には両親が祝いに来てくれた。マティスも昼のうちに焼き菓子をくれ、今は母屋の自室で食事を取っている。

 夜は二人で祝うと決めていたのに、客からの相談が長引いた。帰る時刻が分かったところで、工房へ使いを出したのだった。


「待っていてくださったのですね」


「腹は減った。だから、パンを一個食った」


 アルノは悪びれずに言った。


「あんたの分は残ってる」


 エレーナは笑い、彼の横から焼き皿を覗いた。


「これは、私の好きな?」


「そうだ。店で買うつもりだったんだが、作り方を聞いたら、できそうな気がしてな」


「少し、焼きすぎました?」


「硝子より難しい」


 真顔で言うので、エレーナは声を立てて笑った。


 着替えを済ませ、硝子の指輪をはめて食卓へ戻った。

 温め直したスープと、パン。アルノの焼き林檎。二人分の麦茶。

 いつもより少し華やかな布が、卓に掛けてある。


 エレーナが椅子へ腰を下ろすと、アルノはまだ座らず、小さな花束を差し出した。

 庭で咲いた花と、通りで買った白い花が、不揃いに束ねてあった。


「親方が、食いもんだけじゃ駄目だって」


「ご自分では、そう思われませんでした?」


「花もあったら、笑うかと思った」


 エレーナは花束を受け取った。


「はい。嬉しいです」


 一本だけ短い茎を指で整え、空いていた水差しへ活けた。

 それからエレーナは、自分の椅子をアルノの椅子へ少し寄せた。


「狭くねえか」


「私は、こちらがいいです」


「なら、俺も」


 隣へ腰を下ろしたアルノの膝が、軽く触れた。


「誕生日おめでとう、エレーナ」


「ありがとうございます」


 そう答えてから、エレーナは彼の袖に額を寄せた。

 アルノの手が止まる。


「どうした」


「今、とても幸せです。言っておこうと思って」


 少しの間があった。

 肩に腕が回り、髪に唇が触れた。


「俺もだ」


 エレーナは顔を上げた。


「お茶が冷めますよ」


「あんたから寄ってきたんだろ」


 そう言いながら、アルノはもう一度、今度は唇に口づけた。

 近すぎて見えない彼の顔を、離れてから確かめる。耳が赤い。自分もきっと、同じ顔をしている。


 窓の外で雨が降り出した。

 アルノが立とうとすると、エレーナはその手を引いた。


「窓は、閉めてきました」


「そうか」


 彼は座り直し、焼き林檎へ匙を入れた。

 焦げた端を少しよけ、柔らかい真ん中をエレーナの皿へ取ろうとする。


「半分ずつにしましょう」


「そこ、苦いぞ」


「甘いところも、半分です」


 エレーナは彼の皿へ、蜜のたまったところを分けた。

 アルノが食べるのを待ち、自分も一口食べる。


「美味しいです」


「本当に?」


「ええ。来年も、作ってください」


 彼は焼き皿を見て、少し困ったように笑った。


「来年は、焦がさねえ」


 エレーナは頷き、彼の肩に肩を寄せた。

 雨音のする部屋で、二人分の茶から、まだ湯気が上がっていた。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!


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