第10話
「セレナ! 会わせてくれ、頼む!」
男爵邸の玄関で、カシアンは執事に縋りついた。
免職と、伯爵家を出されたことを聞いた執事は、困った顔で奥へ知らせに行った。やがて通されたのは、寝室の隣の小さな居間だった。
セレナは長椅子に座り、彼の泥だらけの靴を見た。
「何ですの、その格好」
「君の言うとおりにしたんだ!」
カシアンは荷物を落とした。
「あの工房を目立たない場所へ回した。だが、あいつらが騒ぎ立てて、僕は免職になった! 父からも追い出された。今夜、泊まる場所もないんだ!」
セレナは手巾を膝へ広げた。
「それで?」
「しばらく、ここへ置いてくれ。君のためにやったことだろう。新しい職が決まるまで、僕を助けてくれ!」
カシアンが差し出した手を、セレナは取らなかった。
彼はもう一歩進み、膝をついた。
「セレナ。君には、何度だって駆けつけたじゃないか」
「役立たず」
カシアンの手が止まった。
「何だって?」
「私が頼んだのは、あの工房を落選させることよ。あなたまで落ちぶれてどうするの! お父様にも見放された無職の次男を、うちで養えというの?」
「君のために、エレーナとも」
「振られたのでしょう! 私のせいにしないで!」
彼女の声が居間に響いた。
カシアンは長椅子の縁を握った。いつも甘えるように呼んでいた声と、同じ口から出ているとは思えなかった。
「あんなに、僕がいなければ駄目だと言っていたのに」
「あなたが助けてくれるなら、そうだったわ。今のあなたに、何ができるの?」
扉のところで足音がした。
男爵が立っていた。後ろには、工房へ同行した侍女もいる。
「今、聞いた。セレナ。審査の妨害を頼んだことまで、本当なのだな」
セレナが立ち上がった。
「お父様! この男が勝手に」
「今、お前自身が言っただろう!」
男爵の声に、カシアンも身をすくめた。
セレナの工房での振る舞いは、侍女の報告と工匠組合の申し入れですでに明らかになっていた。男爵は娘の外出を禁じ、正式な謝罪と賠償の支度を進めていた。
ところが、そのうえ王宮の事業まで妨害していたのだ。
「侍女から、工房を外せと命じる声を聞いたとは言われていた。お前は、怒って口にしただけで何も頼んでいないと言ったな」
「本当に、そのつもりだったの! 実際にしたのはこの人で」
「では、今の話も含めて、典礼局の調査に答えなさい」
セレナは父の袖へ手を伸ばした。
「嫌です! そんなことをしたら、私まで悪く言われてしまう!」
父はその手を外した。
「すでに悪いことをしたのだ」
カシアンが顔を上げた。
「男爵閣下。私を唆したのは、ご息女です! どうか父と局長に、そう仰ってください!」
「貴殿は、断れなかったのか」
男爵の目が向いた。
「公務を曲げると承知して引き受けたのだろう。娘の責任は認める。だが、貴殿の責任まで我が家に預けられては困る」
カシアンの口が開いたまま止まった。
今度こそ、誰も代わりに説明してくれない。
「お引き取り願おう。今後の話は、双方の代理人を通していただく」
執事が荷物を持ち上げた。
「待ってください! セレナ、何か言ってくれ!」
セレナは父の袖を握り直そうとしていた。
カシアンの方を、もう見なかった。
正門の外へ出ると、靴が泥に沈んだ。
カシアンは荷物を抱え損ね、膝をついた。
雨に濡れた服が、腕へ張りつく。冷たい。立とうとしても、足が震えた。
劇場の庇の下で、エレーナはどれだけ待ったのだろう。
急に、そのことを考えた。
だが、すぐに別の考えが追い越した。
エレーナなら、まだ自分を助けられる。
セレナとは違う。礼状も、日程も、困ったことはいつだって引き受けてくれた。怒っていても、目の前で頼めば放ってはおけないはずだ。
「エレーナなら」
カシアンは荷物を拾い、立ち上がった。
子爵邸の門前で見知らぬ影に呼び止められ、御者が馬を止めた。
工房から帰ったエレーナは、窓の向こうの男を見た。
「エレーナ! 僕だ! 会いたかった!」
門番がカシアンの前へ立った。従僕も出てきて、馬車の扉へ近づけないようにする。
エレーナは御者に、馬車を門の内側へ入れてもらった。門が閉じられたのを確かめてから下り、門番をそばに置いて、鉄柵越しにカシアンと向き合った。
「ご用件は何でしょう」
「僕が悪かった! セレナの本性が分かったんだ。君がどれほど大切だったかも。もう、あんな女のために君を待たせたりしない!」
カシアンは柵の間へ手を伸ばした。
「職も、手当も失った。でも君となら、やり直せる。父上に取りなしてくれ。君の家なら、しばらく僕を置いてくれるだろう? 僕を支えてくれ、エレーナ!」
エレーナは彼の濡れた袖を見た。
あの夜も、こんなふうに布が肌へ張りついた。忘れたわけではない。だからこそ、今、何を求められているかが分かった。
「私に会いたかったのですか。それとも、助けてくれる人を探していらしたのですか」
「何を言うんだ。君を愛しているから」
「では、どうして今日まで一度も、あの夜、私がどう帰ったのか聞かなかったのです」
カシアンの手が止まった。
「それは、君が無事だったから」
「あの日の審査まで、私たちが何を作っていたのかも、ご覧になろうとしませんでしたね」
「そんな話は後で! 僕は今、本当に困っているんだ!」
言った直後、カシアンの顔が強張った。
エレーナは頷いた。
「ええ。ですから、私に戻ってきてほしいのでしょう」
「違う!」
「私は、あなたが困るたびに使える人間ではありません」
声を張る必要はなかった。
「婚約は終わっています。私の家へ住んでいただくことも、復縁することもありません」
「エレーナ、お願いだ! 君まで僕を見捨てるのか!」
「二度と、会いに来ないでください」
エレーナは門番へ向き直った。
「今後のお取次ぎは不要です。お帰りにならない場合は、父の代理人に知らせてください」
門番が頷いた。
カシアンが柵を掴んだ。
「エレーナ! 待ってくれ! 今夜だけでいい、頼む、エレーナァッ!!」
返事はなかった。
玄関の扉が閉まった。家の中から誰かが出てきて、気の毒だから入れろと言ってくれるのを、カシアンはしばらく待った。
誰も来なかった。
雨水が首元へ流れ込む。彼は荷物を抱え、門柱に背をつけて座り込んだ。
泣いても、花を買っても、もうあの席へは戻れない。
エレーナが一度も手を伸ばさなかったことを思い返し、声を押し殺すこともできずに泣いた。
一週間後、工匠組合の立会所で、セレナは謝罪文を握っていた。
男爵から、読み終えるまで座ることを許されていない。
向かいにはアルノと、エレーナ、組合の役員がいた。
「私、セレナは、工房の試作品を、故意に破損させ」
声が止まる。
父が言った。
「続けなさい」
「故意に破損させ、さらに、公募の審査を妨げるよう、カシアン様に依頼いたしました」
エレーナの前で口にするのが、たまらなく屈辱だった。
だが、眩暈で手が滑ったという説明は、同行した侍女の証言で通らなくなっていた。典礼局からも、公募への不当な介入を理由に、今後の王宮行事への出入りを禁じる通知が届いていた。
「失礼な言葉も、申し上げました。申し訳、ありませんでした」
セレナは頭を下げた。
父が支払った賠償金は、彼女の宝石と、未使用の夜会服を売って補うことになっていた。材料代だけではない。焼き直しにかかる燃料、人の手間、納期に間に合わせるための追加の作業。
硝子一枚と笑った代金が、自分の贅沢を次々と消していった。
社交のための小遣いも、支給を止められていた。
「これで、許していただけますわよね」
顔を上げて言うと、アルノが返した。
「謝罪と賠償は受け取る。工房への出入りは断る」
「でも、謝ったのに!」
「セレナ」
父の声で、また黙るしかなかった。
エレーナも、彼女を慰めなかった。
「今後、私にもお会いにいらっしゃらないでください」
セレナは謝罪文を握り潰した。
泣けば誰かが話を終わらせてくれたのに、役員は署名欄を示しただけだった。
翌朝、男爵邸では田舎の別邸へ向かう荷物が積まれていた。
医師と薬の手配は済んでいる。だが、持っていける衣装は療養に必要な分だけだった。
「お父様! あんなところへ行ったら、私を誰も呼ばなくなるわ!」
父は荷物を確かめ、扉を開けた。
「今は、呼ばれることを心配する前に、自分が何をしたか考えなさい」
「嫌! 嫌よ!」
セレナは馬車の窓から訴え続けた。
いつも駆けつけたカシアンの姿も、見送りに来た友人の姿もなかった。
その日の夕方、工房から馬車の待機所へ向かう途中で、エレーナはアルノの袖を引いた。
「今日、少し寄り道してもいいですか」
「焼き林檎か?」
「覚えていてくださったのですね」
「約束しただろ」
エレーナが笑うと、アルノは袖をつまんでいた手を取り直した。
今度は、離れないように指を絡めた。
屋台はもう、角の向こうに見えていた。




