↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
病弱なあの子に優しいあなたが、ずっと大嫌いでした  作者: 九葉(くずは)


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
10/12

第10話

「セレナ! 会わせてくれ、頼む!」


 男爵邸の玄関で、カシアンは執事に縋りついた。

 免職と、伯爵家を出されたことを聞いた執事は、困った顔で奥へ知らせに行った。やがて通されたのは、寝室の隣の小さな居間だった。

 セレナは長椅子に座り、彼の泥だらけの靴を見た。


「何ですの、その格好」


「君の言うとおりにしたんだ!」


 カシアンは荷物を落とした。


「あの工房を目立たない場所へ回した。だが、あいつらが騒ぎ立てて、僕は免職になった! 父からも追い出された。今夜、泊まる場所もないんだ!」


 セレナは手巾を膝へ広げた。


「それで?」


「しばらく、ここへ置いてくれ。君のためにやったことだろう。新しい職が決まるまで、僕を助けてくれ!」


 カシアンが差し出した手を、セレナは取らなかった。

 彼はもう一歩進み、膝をついた。


「セレナ。君には、何度だって駆けつけたじゃないか」


「役立たず」


 カシアンの手が止まった。


「何だって?」


「私が頼んだのは、あの工房を落選させることよ。あなたまで落ちぶれてどうするの! お父様にも見放された無職の次男を、うちで養えというの?」


「君のために、エレーナとも」


「振られたのでしょう! 私のせいにしないで!」


 彼女の声が居間に響いた。

 カシアンは長椅子の縁を握った。いつも甘えるように呼んでいた声と、同じ口から出ているとは思えなかった。


「あんなに、僕がいなければ駄目だと言っていたのに」


「あなたが助けてくれるなら、そうだったわ。今のあなたに、何ができるの?」


 扉のところで足音がした。

 男爵が立っていた。後ろには、工房へ同行した侍女もいる。


「今、聞いた。セレナ。審査の妨害を頼んだことまで、本当なのだな」


 セレナが立ち上がった。


「お父様! この男が勝手に」


「今、お前自身が言っただろう!」


 男爵の声に、カシアンも身をすくめた。

 セレナの工房での振る舞いは、侍女の報告と工匠組合の申し入れですでに明らかになっていた。男爵は娘の外出を禁じ、正式な謝罪と賠償の支度を進めていた。

 ところが、そのうえ王宮の事業まで妨害していたのだ。


「侍女から、工房を外せと命じる声を聞いたとは言われていた。お前は、怒って口にしただけで何も頼んでいないと言ったな」


「本当に、そのつもりだったの! 実際にしたのはこの人で」


「では、今の話も含めて、典礼局の調査に答えなさい」


 セレナは父の袖へ手を伸ばした。


「嫌です! そんなことをしたら、私まで悪く言われてしまう!」


 父はその手を外した。


「すでに悪いことをしたのだ」


 カシアンが顔を上げた。


「男爵閣下。私を唆したのは、ご息女です! どうか父と局長に、そう仰ってください!」


「貴殿は、断れなかったのか」


 男爵の目が向いた。


「公務を曲げると承知して引き受けたのだろう。娘の責任は認める。だが、貴殿の責任まで我が家に預けられては困る」


 カシアンの口が開いたまま止まった。

 今度こそ、誰も代わりに説明してくれない。


「お引き取り願おう。今後の話は、双方の代理人を通していただく」


 執事が荷物を持ち上げた。


「待ってください! セレナ、何か言ってくれ!」


 セレナは父の袖を握り直そうとしていた。

 カシアンの方を、もう見なかった。



 正門の外へ出ると、靴が泥に沈んだ。

 カシアンは荷物を抱え損ね、膝をついた。

 雨に濡れた服が、腕へ張りつく。冷たい。立とうとしても、足が震えた。


 劇場の庇の下で、エレーナはどれだけ待ったのだろう。

 急に、そのことを考えた。


 だが、すぐに別の考えが追い越した。

 エレーナなら、まだ自分を助けられる。

 セレナとは違う。礼状も、日程も、困ったことはいつだって引き受けてくれた。怒っていても、目の前で頼めば放ってはおけないはずだ。


「エレーナなら」


 カシアンは荷物を拾い、立ち上がった。



 子爵邸の門前で見知らぬ影に呼び止められ、御者が馬を止めた。

 工房から帰ったエレーナは、窓の向こうの男を見た。


「エレーナ! 僕だ! 会いたかった!」


 門番がカシアンの前へ立った。従僕も出てきて、馬車の扉へ近づけないようにする。

 エレーナは御者に、馬車を門の内側へ入れてもらった。門が閉じられたのを確かめてから下り、門番をそばに置いて、鉄柵越しにカシアンと向き合った。


「ご用件は何でしょう」


「僕が悪かった! セレナの本性が分かったんだ。君がどれほど大切だったかも。もう、あんな女のために君を待たせたりしない!」


 カシアンは柵の間へ手を伸ばした。


「職も、手当も失った。でも君となら、やり直せる。父上に取りなしてくれ。君の家なら、しばらく僕を置いてくれるだろう? 僕を支えてくれ、エレーナ!」


 エレーナは彼の濡れた袖を見た。

 あの夜も、こんなふうに布が肌へ張りついた。忘れたわけではない。だからこそ、今、何を求められているかが分かった。


「私に会いたかったのですか。それとも、助けてくれる人を探していらしたのですか」


「何を言うんだ。君を愛しているから」


「では、どうして今日まで一度も、あの夜、私がどう帰ったのか聞かなかったのです」


 カシアンの手が止まった。


「それは、君が無事だったから」


「あの日の審査まで、私たちが何を作っていたのかも、ご覧になろうとしませんでしたね」


「そんな話は後で! 僕は今、本当に困っているんだ!」


 言った直後、カシアンの顔が強張った。

 エレーナは頷いた。


「ええ。ですから、私に戻ってきてほしいのでしょう」


「違う!」


「私は、あなたが困るたびに使える人間ではありません」


 声を張る必要はなかった。


「婚約は終わっています。私の家へ住んでいただくことも、復縁することもありません」


「エレーナ、お願いだ! 君まで僕を見捨てるのか!」


「二度と、会いに来ないでください」


 エレーナは門番へ向き直った。


「今後のお取次ぎは不要です。お帰りにならない場合は、父の代理人に知らせてください」


 門番が頷いた。

 カシアンが柵を掴んだ。


「エレーナ! 待ってくれ! 今夜だけでいい、頼む、エレーナァッ!!」


 返事はなかった。

 玄関の扉が閉まった。家の中から誰かが出てきて、気の毒だから入れろと言ってくれるのを、カシアンはしばらく待った。

 誰も来なかった。


 雨水が首元へ流れ込む。彼は荷物を抱え、門柱に背をつけて座り込んだ。

 泣いても、花を買っても、もうあの席へは戻れない。

 エレーナが一度も手を伸ばさなかったことを思い返し、声を押し殺すこともできずに泣いた。



 一週間後、工匠組合の立会所で、セレナは謝罪文を握っていた。

 男爵から、読み終えるまで座ることを許されていない。

 向かいにはアルノと、エレーナ、組合の役員がいた。


「私、セレナは、工房の試作品を、故意に破損させ」


 声が止まる。

 父が言った。


「続けなさい」


「故意に破損させ、さらに、公募の審査を妨げるよう、カシアン様に依頼いたしました」


 エレーナの前で口にするのが、たまらなく屈辱だった。

 だが、眩暈で手が滑ったという説明は、同行した侍女の証言で通らなくなっていた。典礼局からも、公募への不当な介入を理由に、今後の王宮行事への出入りを禁じる通知が届いていた。


「失礼な言葉も、申し上げました。申し訳、ありませんでした」


 セレナは頭を下げた。

 父が支払った賠償金は、彼女の宝石と、未使用の夜会服を売って補うことになっていた。材料代だけではない。焼き直しにかかる燃料、人の手間、納期に間に合わせるための追加の作業。


 硝子一枚と笑った代金が、自分の贅沢を次々と消していった。

 社交のための小遣いも、支給を止められていた。


「これで、許していただけますわよね」


 顔を上げて言うと、アルノが返した。


「謝罪と賠償は受け取る。工房への出入りは断る」


「でも、謝ったのに!」


「セレナ」


 父の声で、また黙るしかなかった。

 エレーナも、彼女を慰めなかった。


「今後、私にもお会いにいらっしゃらないでください」


 セレナは謝罪文を握り潰した。

 泣けば誰かが話を終わらせてくれたのに、役員は署名欄を示しただけだった。



 翌朝、男爵邸では田舎の別邸へ向かう荷物が積まれていた。

 医師と薬の手配は済んでいる。だが、持っていける衣装は療養に必要な分だけだった。


「お父様! あんなところへ行ったら、私を誰も呼ばなくなるわ!」


 父は荷物を確かめ、扉を開けた。


「今は、呼ばれることを心配する前に、自分が何をしたか考えなさい」


「嫌! 嫌よ!」


 セレナは馬車の窓から訴え続けた。

 いつも駆けつけたカシアンの姿も、見送りに来た友人の姿もなかった。



 その日の夕方、工房から馬車の待機所へ向かう途中で、エレーナはアルノの袖を引いた。


「今日、少し寄り道してもいいですか」


「焼き林檎か?」


「覚えていてくださったのですね」


「約束しただろ」


 エレーナが笑うと、アルノは袖をつまんでいた手を取り直した。

 今度は、離れないように指を絡めた。

 屋台はもう、角の向こうに見えていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。