第十二章 海が呼んでいるのでpart2②
目が覚めて、璃子は枕元のスマートフォンを取った。
七時十二分。
目覚ましが鳴るまで、あと少しある。
一度画面を閉じる。
そのまま布団に戻ろうとして、昨夜のことを思い出した。
スマートフォンをもう一度開く。
湊とのやり取りが残っていた。
『家着いたら連絡して』
『着いたよ』
『よかった』
『今日はありがとう』
『こっちこそ。もつ煮込み食べれたし笑』
『やっと食べれたね笑』
『海も楽しみ』
『俺も』
『じゃあおやすみ』
『おやすみ』
璃子は画面を眺めた。
昨夜、家に着いてから交わした短いやり取り。
指で少し上へ戻す。
また下へ戻す。
文字になっているのは、それだけ。
けれどカウンターで聞いた声は、そこにはない。
――俺は、璃子のそういうところすごく素敵だと思う。
璃子はスマートフォンを持ったまま、天井を見た。
あの時の自分を思い出す。
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
それから急に恥ずかしくなって、笑った。
酒を飲んだ。
何か言われるたびに、いつもより大きく返していた。
今になって思い出すと、少し恥ずかしい。
璃子は布団を鼻の辺りまで引き上げた。
「……。」
少しして、またスマートフォンを見る。
『俺も』
海を楽しみにしている。
その二文字を見て、口元が少し緩んだ。
目覚ましが鳴った。
璃子は止める。
「起きよ。」
ベッドから出た。
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仕事へ行けば、昨日のことを考えている暇はなかった。
朝から予定が一つ変わった。
午前中に終わるはずだった仕事が午後へずれた。
別の確認も入る。
「璃子、これ見た?」
同僚から声をかけられる。
「まだ。今見る。」
資料を受け取る。
目を通す。
「ここ違うかも。」
「どこ?」
「これ。前のと数字変わってない?」
二人で画面を見る。
「あ、ほんとだ。」
「確認した方がいいね。」
「聞いてくる。」
同僚が席を離れる。
璃子は次の資料を開いた。
午前中はそのまま過ぎた。
昼休み。
同僚と近くの店へ入る。
席に座ると、同僚が大きく息を吐いた。
「疲れた。」
「まだ昼だよ。」
「それ言わないで。」
「いつも同じこと言ってるよ私達笑」
「本当だね笑」
璃子が笑う。
「何食べる?」
「もう決めた。」
「早。」
「朝からこれ食べたかった。」
メニューを指す。
「朝から昼ご飯考えてたの?」
「楽しみ必要じゃん。」
「分かる。」
料理を待ちながら、週末の話をした。
同僚が美容院へ行くらしい。
「切るの?」
「迷ってる。」
「どのくらい?」
「これくらい。」
髪を指で示す。
「結構切るじゃん。」
「やっぱやめようかな。」
「もう予約してるんでしょ?」
「してる。」
「じゃあ行ってから悩めば。」
「美容師さん困るやつ。」
「慣れてるでしょ。」
二人で笑った。
料理が来る。
璃子は箸を取った。
仕事の話もした。
帰りに寄りたい店の話もした。
昼休みが終われば、また仕事へ戻った。
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夕方。
会社を出る頃には、空が少し赤くなっていた。
璃子は駅へ向かって歩く。
昼間より風が涼しい。
信号を待ちながら、スマートフォンを見る。
友人からメッセージが来ていた。
昨日、焼き鳥屋で話していた友人だった。
『また話聞いて笑』
璃子は画面を見て笑う。
『いいよ笑』
少し考えて、
『今度ご飯行こ』
と送った。
すぐに返事が来る。
『行く!』
青信号になる。
璃子は歩き出した。
横断歩道を渡りながら、昨夜自分が湊に話したことを少し思い出した。
その友人が何を選ぶかは、その友人のもの。
そう思っていた。
今も変わらない。
でも昨夜、湊に言われて初めて、自分がそれを大切にしていたことを少し外側から見た。
璃子は駅へ向かう。
途中でコンビニに寄った。
飲み物を一本買う。
電車に乗る。
座れた。
スマートフォンを開く。
友人から店の候補がいくつも送られてきている。
「多いな。」
一つずつ見る。
二つに絞って返した。
そのまま画面を閉じようとして、湊とのトークが目に入った。
璃子の指が少し止まる。
開かなかった。
電車の窓を見る。
暗くなり始めた街が流れていた。
璃子は少し笑った。
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数日後。
璃子は仕事帰りに友人と会った。
食事をした後、友人の買い物に付き合う。
「これどう?」
試着室から出てきた友人が、その場で一度回った。
璃子は少し離れて見る。
「かわいい。」
「ほんと?」
「うん。でもさっきの方が好き。」
「やっぱり?」
「こっちも似合ってるけど。」
友人が鏡を見る。
「迷う。」
「好きな方買えば?」
「璃子なら?」
「私なら最初の。」
「じゃあ最初にする。」
璃子が笑う。
「私が決めていいの?」
「参考にしただけ。」
「じゃあ自分で決めたことにしてね。」
「はいはい。」
友人が試着室へ戻る。
璃子は近くに並んでいた小物を見る。
アクセサリー。
小さな花瓶。
用途の分からない置物。
璃子の目が止まる。
一つ手に取った。
角度を変えて見る。
何を表しているのか、よく分からない。
璃子は吹き出した。
「またこういうの。」
棚へ戻す。
「何?」
試着室から友人が顔を出す。
「ううん。」
「今笑ってたじゃん。」
「ちょっと思い出しただけ。」
「何を?」
璃子は少し考えて笑う。
「変な置物。」
「なにそれ。」
「私もよく分かんない。」
「怖いんだけど。」
「怖くないよ(笑)」
友人がまた試着室へ引っ込む。
璃子はさっきの置物を見る。
湊の部屋に置かれたものとは、全然違う形だった。
それでも少し似ている気がした。
何が似ているのかは、分からなかった。
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海へ行く日は、まだ少し先だった。
その間にも、湊とは普通に連絡を取った。
長く続く日もあれば、二、三往復で終わる日もあった。
ある夜。
璃子が風呂から上がると、湊から地図が送られていた。
『途中ここ寄れそう』
開く。
サービスエリアだった。
『いいね』
送る。
続けて、
『調べてくれたんだ』
少しして返ってくる。
『運転する人だから』
璃子は画面を見て笑った。
焼き鳥屋で自分が言ったことを覚えていた。
『関係あるんだ笑』
『あるらしい』
『じゃあ任せます』
『任されました』
璃子はベッドに座ったまま、画面を見る。
もう返信することはなかった。
スマートフォンを置く。
髪を乾かそうとして、また手に取った。
やり取りを見る。
『任されました』
璃子は少し笑う。
今度こそ置いた。
ドライヤーをつける。
鏡の前で髪を乾かす。
温かい風が頬に当たる。
ふと、焼き鳥屋の夜を思い出した。
湊の言葉そのものより、言われた瞬間の感覚が先に戻ってくる。
胸の奥が少しだけ熱くなるような。
嬉しいのに、どう受け取ればいいのか分からなくなったような。
あの感じ。
璃子はドライヤーを止めた。
鏡を見る。
「……なんであんな嬉しかったんだろ。」
口にしてから、自分の声が思ったより近く聞こえた。
少し考える。
答えは出ない。
またドライヤーをつけた。
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別の日の夜。
友人と電話をしていた。
『で、海いつ行くの?』
「今度。」
『誰と?』
璃子はベッドに寝転がりながら答える。
「友達。」
『この前映画行った人?』
璃子が少し黙った。
「うん。」
『へえ。仲いいね。』
「仲いいよ。」
『楽しみ?』
「楽しみ。」
今度はすぐに答えた。
電話の向こうで友人が何かを食べる音がする。
『いいじゃん。天気晴れるといいね。』
「ね。」
『雨女じゃなかったっけ?』
「違うよ。」
『前旅行した時めっちゃ雨だったじゃん。』
「あれ私のせいじゃないから。」
『絶対璃子だった。』
「違うって(笑)」
話はそのまま旅行の話へ変わった。
昔行った場所。
食べたもの。
次はどこへ行きたいか。
しばらく話して電話を切る。
璃子はスマートフォンを胸の上に置いた。
天井を見る。
『楽しみ?』
友人に聞かれた時、迷わなかった。
楽しみだった。
それはもう、前から分かっている。
ただ最近、その中に何か別のものが混ざり始めている。
璃子はスマートフォンを持ち上げる。
海の日の予定を見る。
あと数日。
画面を閉じた。
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前日の夜。
仕事から帰る。
スーパーへ寄った。
朝食用のパンと飲み物を買った。
家に着いて、洗濯物を取り込む。
夕飯を食べる。
テレビを見ながら、友人へ一件返信する。
風呂に入る。
明日の天気を確認する。
晴れ。
気温は高い。
璃子はクローゼットを開けた。
服を見る。
一着取る。
鏡の前で合わせる。
少し考える。
別の一着も取る。
合わせる。
最初の服を見る。
また鏡を見る。
璃子は少し笑った。
映画の日の自分を思い出した。
あの時は三着目に手を伸ばして、自分で可笑しくなった。
今日は二着だった。
「成長。」
自分で言って笑う。
最初の服をベッドの横へ置いた。
鞄の中身を確認する。
財布。
化粧品。
ハンカチ。
モバイルバッテリー。
必要なものを入れる。
スマートフォンが震えた。
湊だった。
『明日予定通りで大丈夫?』
『大丈夫』
『じゃあ迎え行くね』
璃子は画面を見る。
『ありがとう。お願いします☺️』
送る。
すぐに、
『了解。着いたら連絡する』
と返ってきた。
璃子はスマートフォンを置く。
また手に取る。
画面を見る。
今度はトークを少し上へ戻した。
サービスエリアの地図。
焼き鳥屋の夜のやり取り。
『家着いたら連絡して』
指が止まった。
璃子はその文字を少し眺める。
あの夜。
店を出た後の風。
駅まで歩いたこと。
カウンターで湊に言われたこと。
思い出すたび、少しずつ違うところが残った。
最初はただ嬉しかった。
次の日には、自分があんなに照れたことが恥ずかしかった。
何日か経つと、どうしてあんなに嬉しかったのかが気になった。
そして今は。
璃子はスマートフォンを胸元へ置いた。
少し考える。
湊は、自分のどこを見ているんだろう。
その問いが浮かんだ。
すぐにもう一つ浮かぶ。
自分は、湊のどこを見ているんだろう。
璃子は天井を見る。
しばらくして、息を吐いた。
「……考えすぎ。」
スマートフォンを枕元へ置く。
照明を消した。
暗くなった部屋で、目を閉じる。
明日は海へ行く。
そのことを思うと、やっぱり少し笑った。




