第十一章 海が呼んでいるのでpart2①
九月に入ってから、日が落ちるのが少し早くなった。
昼間はまだ暑い。
建物を出た瞬間にまとわりつく熱も、アスファルトから返ってくる眩しさも、八月とそれほど変わらない。
けれど夕方になると、風だけが先に季節を進んでいた。
湊は仕事を終えて駅へ向かっていた。
横断歩道の手前で信号が赤になる。
立ち止まる。
道路の向こうにあるビルの窓が、西日に照らされている。
少し前までなら、この時間でも空はもっと明るかった。
ポケットの中でスマートフォンが震えた。
璃子だった。
『終わった?』
『今終わった』
信号が青になる。
歩きながら送る。
『璃子は?』
少しして返ってきた。
『私も終わった』
『お疲れ』
『お疲れ』
湊はスマートフォンをしまった。
駅が見えてくる。
もう一度、ポケットが震えた。
『今日ご飯食べる?』
『食べようか』
今度は少し間が空いた。
『何食べる?』
湊は歩きながら考えた。
特に浮かばない。
『なんでもいいよ』
送る。
数秒後。
『あ』
その下に、
『もつ煮込み』
湊は歩きながら笑った。
『食べてないね』
『食べてない』
『あそこ行く?』
『行く』
---
駅の向こう側へ渡ると、璃子は店の前に立っていた。
湊に気づいて手を上げる。
「お疲れ。」
「お疲れ。」
湊も店の前まで来る。
璃子が看板を見上げた。
「ここ来るの久しぶりだね。」
「久しぶりだね。」
「いつぶりだっけ。」
「結構前じゃない?」
「一ヶ月くらい?」
「もうちょっと経ってる気がする。」
璃子は眉を寄せた。
「そんな経ってる?」
「たぶん。」
「えー。」
もう一度、店を見る。
「じゃあ、もつ煮込み一ヶ月以上食べてないじゃん。」
「別に食べ続けるものじゃないでしょ。」
璃子が笑った。
「そういう意味じゃない(笑)」
「今日まで忘れてたしね。」
「思い出したからいいの。」
湊が扉を開ける。
「どうぞ。」
「ありがとう。」
中へ入る。
炭の匂い。
焼き台から立つ煙。
店員の声。
奥では何人かの客が笑っていた。
二人はカウンターへ通された。
璃子が椅子を引く。
座ってから、少し店内を見る。
「この辺だったっけ。」
「たぶん。」
「なんかこの辺だった気がする。」
湊も座る。
璃子がカウンターを見ている。
「あ。」
「ん?」
璃子が湊を見る。
「私ここで、敬語やめない?って言わなかった?」
湊が笑った。
「言った。」
「やっぱり。」
「結構酔ってたけどね。」
「え、そんな酔ってた?」
「結構。」
「嘘。」
「ほんと。」
璃子が少し顔をしかめる。
「やだ(笑)」
「覚えてないの?」
「覚えてるよ。覚えてるけど、そんな酔ってたと思ってない。」
「酔ってる人って大体そう言うよね。」
「じゃあ湊も酔ってた。」
「なんで。」
「一人だけ正常だったみたいに言うから。」
「俺は普通だったよ。」
「怪しい。」
璃子はメニューを開いた。
すぐに視線が動き始める。
湊が横から覗く。
「ある?」
「今探してる。」
少しして、璃子の指が止まった。
「あった。」
「よかったね。」
「今日これ最初に頼む。」
「そんなに?」
「また食べ忘れたら嫌じゃん。」
店員を呼ぶ。
飲み物を頼んで、何本か串を選ぶ。
「あと、もつ煮込みください。」
璃子がメニューを閉じた。
「よし。」
「満足そうだね。」
「もう半分くらい今日の目的達成した。」
「まだ来てもないよ。」
「頼んだもん。」
「売り切れですって言われるかも。」
璃子が真顔で湊を見る。
「やめて。」
湊が笑った。
「一ヶ月越しで売り切れ。」
「ほんと性格悪い。」
「俺何もしてないけど。」
「言った。」
「言っただけ。」
飲み物が置かれる。
二人でグラスを持った。
「お疲れ。」
「お疲れ。」
軽く合わせる。
璃子は一口飲んで、肩を少し落とした。
「あー、おいしい。」
「今日忙しかった?」
「忙しかった。」
もう一口飲む。
「ずっと喋ってた。」
「仕事で?」
「うん。最後の方、自分で何言ってるか分かんなくなってた。」
「それダメじゃない?」
「ちゃんと仕事はした(笑)」
「ならいいけど。」
「湊は?」
「今日は普通。」
「いいな。」
「何もなかったよ。」
「それがいい。」
「璃子は何かあったの?」
「大したことじゃない。人が多かっただけ。」
話しているうちに串が来た。
璃子が一本取る。
湊も取る。
仕事の話は、そのまま今日会った客の話になった。
そこから最近買ったもの。
友達から送られてきた写真。
湊が昨日見た変な動画。
璃子が最近寝る前に見ているドラマ。
話題は何度も変わった。
どれも長くは続かなかった。
それでも会話は途切れなかった。
---
「お待たせしました。」
湯気の立った器が置かれた。
璃子が話を止める。
「来た。」
湊も器を見る。
「来たね。」
「やっと。」
「今日思い出したんでしょ。」
「でも一ヶ月以上越し。」
「待ってたみたいに言うね。」
「待ってたことにする。」
「さっきまで忘れてたのに。」
「細かいなあ(笑)」
璃子が小皿を二つ取った。
「食べよ。」
湊の分も取り分ける。
「はい。」
「ありがとう。」
璃子が先に口へ運ぶ。
湊は横からその顔を見る。
璃子は何度か噛んで、頷いた。
「おいしい。」
「よかった。」
「これ前食べればよかった。」
湊も食べる。
「あ、おいしいね。」
「でしょ。」
「璃子が作ったみたいに言うね。」
「私が思い出したから。」
「関係ないでしょ。」
璃子が笑う。
もう一口食べようとして、箸が止まった。
「そういえば、なんでこれ食べなかったんだっけ。」
湊も少し考える。
「店出たからじゃない?」
「それはそうなんだけど。」
「なんで出たんだっけ。」
二人とも少し黙る。
先に璃子が思い出した。
「あ。」
「なに?」
「海。」
湊も思い出す。
「ああ。」
璃子がもう笑っている。
「マスターだ。」
「海が呼んでるから。」
「それ(笑)」
璃子が声を上げて笑った。
「なんだったんだろ、あれ。」
「海が呼んでたんじゃない?」
「呼んでないよ。」
「でも二人とも店出たよね。」
「出たけど、海行ってないじゃん。」
「行ってないね。」
璃子はもつ煮込みを見る。
「しかもこれも食べてない。」
「何しに出たんだろうね。」
「知らない(笑)」
「焼き鳥は食べたけどね。」
「飲んだしね。」
「じゃあ普通に飲みに来ただけだ。」
「ほんとだ。」
二人で笑った。
璃子は煮込みをもう一口食べる。
「でも、なんか覚えてる。」
湊が横を見る。
「俺も覚えてるよ。」
「変な日だったよね。」
「璃子酔ってたし。」
「それもういい(笑)」
湊が笑った。
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璃子がスマートフォンを取り出した。
「そうだ。」
画面を何度か触る。
「これ。」
湊の方へ向けた。
海の写真だった。
以前、バーで璃子が見せた場所。
「覚えてる?」
「覚えてるよ。」
「ここ、やっぱ行きたい。」
湊は画面を見る。
陽の光を反射した水面が、遠くまで続いている。
「綺麗だね。」
「ね。」
璃子も画面を見る。
「行きたい。」
「じゃあ行こうか。」
璃子が顔を上げる。
「行く?」
「うん。」
「車?」
「車の方が楽だと思う。」
「運転大丈夫?」
「大丈夫。」
「じゃあ行こう。」
二人ともスマートフォンを出す。
仕事の予定を確認する。
「ここは?」
「俺大丈夫。」
「私も休み。」
「じゃあここにする?」
「うん。」
璃子が予定を入れる。
「決まり。」
「決まり。」
スマートフォンを伏せて置く。
璃子はまた煮込みを食べた。
「今度こそ海だ。」
湊が笑う。
「海が呼んでるね。」
「呼んでないって(笑)」
「今回は?」
「今回は私が行きたいの。」
「そっか。」
湊はグラスを持った。
「じゃあ行こう。」
「うん。」
璃子もグラスを持つ。
前にこの店へ来た夜は、海には行かなかった。
今度は、カレンダーに日付が入った。
---
酒が進むにつれて、店の中も少し賑やかになった。
隣の席が入れ替わった。
焼き台から煙が上がる。
店員が何度も二人の前を行き来する。
璃子は友達の話をしていた。
「それでまた戻ったの。」
「彼氏のところに?」
「そう。」
「何回目?」
「分かんない。三回とかじゃない?」
「結構だね。」
「結構だよ。」
璃子はグラスの氷を揺らした。
「周りはもうみんな別れなって言ってる。」
「璃子も?」
「私は言ってない。」
湊が璃子を見る。
「別れない方がいいと思ってるの?」
「いや。」
璃子はすぐに首を振った。
「私だったら別れる。」
「じゃあ、なんで言わないの?」
「んー。」
璃子は少し考える。
串の先に残った肉を箸で外した。
「私がその子じゃないからかな。」
「うん。」
「聞かれたら言うよ。私だったら無理とか、それは嫌じゃない?とか。」
「うん。」
「でも最後は自分で決めるしかないじゃん。」
湊はグラスを置いた。
璃子は話しながら串を皿へ戻す。
「だって私には、その子がその人といる時に何を感じてるか全部は分かんないし。」
「そうだね。」
「もちろん、話だけ聞いてたら絶対やめた方がいいと思う時もあるよ。」
璃子は笑った。
「今回も思ってる。」
「思ってるんだ。」
「思ってる(笑)」
湊も笑う。
「でも言わない?」
「言わないっていうか……。」
璃子は少し考えた。
「私が決めることじゃないから。」
一度、言葉が止まる。
「心配はするけどね。」
「うん。」
「人って、心配すると自分が正しいと思ってる方に連れていきたくなるじゃん。」
湊は璃子を見る。
璃子はグラスの縁を指でなぞっていた。
「でも、その人が自分で選ぶところまで取っちゃったら、なんか違う気がする。」
「そっか。」
「失敗するかもしれないけど。」
「その時は?」
璃子はすぐに答えた。
「その時はその時。」
湊が少し笑う。
「助ける?」
「助けるよ。」
「別れろって言わなかったのに?」
「関係ないじゃん。」
璃子は湊を見る。
「その子が決めたことと、その子が困ってることは別でしょ。」
湊は少し黙った。
璃子は続ける。
「まあ、だから言ったじゃんくらいは言うけど。」
湊が笑う。
「言うんだ。」
「言うよ。」
「そこは優しくないんだね。」
「優しいでしょ。助けるんだから。」
「その前に一回刺すんだ。」
「刺さない(笑)」
「『だから言ったじゃん』って。」
「それくらい言わせてよ。」
璃子が笑う。
湊も笑った。
店員が空いた皿を下げる。
「追加ありますか?」
二人でメニューを見る。
「なんか食べる?」
「湊食べたいのある?」
「璃子は?」
「私これ。」
璃子が指を差す。
「じゃあそれと、俺これ。」
追加を頼む。
店員が離れていく。
璃子はグラスを持った。
湊が言った。
「でも、すごく素敵だね。」
璃子が横を見る。
「なにが?」
「璃子のそういうところ。」
「……え?」
湊はいつもと同じ声だった。
「自分なら違う選択をするって思ってても、その人が決めるところはその人に残すんでしょ。」
璃子はグラスを持ったまま、湊を見ていた。
「それで失敗したら、今度は普通に助ける。」
湊は少し笑った。
「俺は、そういうところすごく素敵だと思う。」
璃子は動かなかった。
店の奥から笑い声が聞こえる。
焼き台で何かが弾ける音がした。
湊は璃子を見ている。
璃子の目が一度だけ小さく動いた。
「……え、ちょっと待って(笑)」
急に笑う。
湊も笑った。
「なに?」
「いや、なにそれ(笑)」
「何って。」
「急に。」
「今その話してたじゃん。」
「そういうことじゃないの。」
璃子はグラスを口へ運んだ。
いつもより少し長く飲んだ。
置く。
「なに急にそんなこと言うの。」
「思ったから。」
湊はそう言って、追加で来た皿を少し璃子の方へ寄せた。
「これ璃子のでしょ。」
「……うん。」
璃子は皿を見る。
一つ取る。
湊も自分の分を取った。
璃子は食べながら、少し横を見る。
湊はもう普通に食べている。
「……なんなの。」
「ん?」
「なんでもない。」
璃子はまたグラスを持つ。
湊が横を見る。
「今日結構飲むね。」
「飲んでない。」
「さっきからペース早いよ。」
「普通。」
「そう?」
「そう。」
湊は少し笑った。
璃子がその顔を見る。
「なに。」
「いや。」
「なに(笑)」
「何でもない。」
「それ嫌なんだけど。」
「璃子も今言ったじゃん。」
「私はいいの。」
「なんで。」
「いいから。」
二人とも笑った。
---
それからも話は続いた。
仕事の話へ戻った。
海へ行く日の集合時間を決めた。
朝が早すぎるのは嫌だと璃子が言った。
湊が渋滞するよと言った。
それなら少しくらい早くてもいいと璃子が言い直した。
途中で何か食べようという話になった。
何を食べるかは決まらなかった。
「現地で決めよ。」
「そうしよう。」
「海鮮とかあるかな。」
「あるんじゃない?」
「適当。」
「まだ調べてないからね。」
「あとで見る。」
「璃子が?」
「湊が。」
「俺なんだ。」
「運転する人。」
「関係ある?」
「ある。」
「どういう関係?」
璃子は笑った。
「知らない。」
湊も笑う。
会計を済ませて、二人で店を出た。
---
外へ出ると、風が通りを抜けていた。
璃子の髪が少し揺れる。
「あ、気持ちいい。」
湊も立ち止まる。
昼間に残っていた暑さは、もうほとんどなかった。
「夜はだいぶ変わったね。」
「ね。」
二人で駅へ向かう。
歩道には仕事帰りの人が何人も歩いている。
自転車が二人の横を通り過ぎた。
璃子が少し避ける。
また湊の隣へ戻る。
「海の日、晴れるといいね。」
「晴れるといいね。」
「雨だったら?」
「どうする?」
璃子は少し考えた。
「行く。」
「じゃあ行こう。」
「雨でも?」
「璃子が行きたいんでしょ。」
「行きたい。」
「じゃあ行く。」
璃子が笑った。
「海が呼んでるから?」
湊も笑う。
「璃子が行きたいから。」
「そっか。」
しばらく歩いた。
店を出た人の声が後ろへ遠ざかっていく。
璃子はふと、さっき座っていたカウンターを思い出した。
一ヶ月以上前。
少し酔って、自分から敬語をやめようと言った。
隣を歩く湊を見る。
「なに?」
湊が気づく。
璃子は少し笑った。
「なんでもない。」
「今日それ多いね。」
「そう?」
「多い。」
「じゃあ、なんか考えてるのかも。」
「何を?」
璃子は少し前を見た。
「分かんない。」
湊はそれ以上聞かなかった。
風が吹く。
璃子は髪を耳にかけた。
少しして、さっきの声がまた浮かんだ。
――すごく素敵だと思う。
前を歩いていた人を避けて、二人の距離が少し近くなる。
璃子はそのまま歩いた。
駅の向こうに、夜の街の灯りが続いていた。




