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宇宙の約束  作者: 創
第二部 共有された沈黙
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17/30

第十章 向かい側②



バーの扉を開けると、いつもの音楽に、いくつかの話し声が重なっていた。


「いらっしゃい。」


マスターが二人を見る。


「こんばんは。」


璃子が先に店へ入る。


湊も続いて、いつものようにカウンターへ目を向けた。


席はすべて埋まっていた。


「あ、いっぱい。」


「そうなんだよ。今日は珍しくね。」


マスターが店の奥を指した。


「二人とも、テーブルでもいい?」


「もちろん。」


「大丈夫です。」


「じゃあ、そっち座ってて。すぐ行くから。」


二人は店の奥へ向かった。


璃子が椅子を引く。


湊も向かいに座った。


鞄を置いて顔を上げた璃子の目の前に、湊がいる。


少し見て、璃子が笑った。


「……なんか変な感じ。」


「向かいにいるから?」


「うん。いつも横にいるから。」


「ああ、確かに。」


湊も少し笑った。


「こうやって座ること、あんまりないね。」


「ね。なんか新鮮。」


「うん。」


マスターが水を持ってきた。


「何にする?」


二人がそれぞれ注文する。


「映画はどうだった?」


「面白かったですよ。」


璃子が答えた。


「湊は最後だけ納得してないけど。」


「まだそれ言うの?」


「だってさっきも言ってたじゃん。」


「まあ、言ってたけど。」


マスターが笑う。


「原作があると大変だね。」


「璃子は映画の方が好きなんですよ。」


「私は最後は映画の方が好き。」


「そこだけ?」


「そこだけじゃないよ。全体的にも好き。」


「じゃあ俺とそんな変わらないじゃん。」


璃子が少し考える。


「……確かに。」


湊が笑った。


「なんだったの、今日の議論。」


「楽しかったからいいの。」


「それはそう。」


マスターが二人を見る。


「じゃあ、結論は出たね。」


「出ました。」


璃子が笑う。


「また思い出したら言うけど。」


「まだ続くんだ。」


「たぶん。」


「じゃあその時また聞くよ。」


マスターは笑いながらカウンターへ戻っていった。



---


グラスが運ばれてくる。


二人で軽く合わせた。


「今日はありがとう。」


璃子が言った。


「こちらこそ。」


「楽しかった。」


「俺も。」


璃子は一口飲んだ。


「映画も良かったし、ご飯もおいしかった。」


「店、璃子が見つけたからね。」


「そう。私のおかげ。」


「そこはちゃんと取るんだ。」


「取るよ。」


湊が笑う。


璃子も笑った。


そこから、映画館で隣に座っていた人の話になった。


上映中、何度も眼鏡を外しては拭いていた人。


「あれ気にならなかった?」


「気付いてた。」


「やっぱり?」


「三回目くらいから、また拭いてるなって。」


「私も(笑)」


「曇ってたのかな。」


「映画館で?」


「泣いてたとか。」


璃子が少し考える。


「ああ。」


「結構泣く場面あったじゃん。」


「じゃあ悪いこと言った。」


「本人には言ってないから大丈夫でしょ。」


「そうだけど(笑)」


璃子が笑いながらグラスを持つ。


その顔を、湊は正面から見ていた。


璃子が気付く。


「ん?」


「いや。」


湊はそのまま少し笑った。


璃子も笑う。


「何?」


「こうやって見ると、ほんとにちょっと違うね。」


「でしょ?」


「うん。」


璃子は湊の顔を見る。


「私もさっきから思ってた。」


「何を?」


「いつも横顔ばっかり見てたんだなって。」


「ああ。」


「正面から見ると、なんていうんだろ。」


璃子は少し湊を見る。


「ちゃんと顔が見える。」


湊が笑った。


璃子も自分で笑う。


「変な言い方になった。」


「言いたいことは分かるよ。」


「ほんと?」


「うん。」


璃子はもう一度湊を見る。


「目とか。思ってたよりちゃんと見るんだなって。」


「璃子のこと?」


「うん。」


湊は少し笑った。


「見るよ。」


璃子は一瞬だけ黙った。


「……そっか。」


グラスに口をつける。


少しして顔を上げると、湊はまたこちらを見ていた。


璃子もそのまま見る。


「ほんとだ。」


「何が?」


「ちゃんと見る。」


湊が笑った。


璃子も笑う。


「なんか面白いね。」


「何が?」


「同じ人なのに、見る場所が違うだけでちょっと違って見える。」


湊は少し考えた。


「分かる。」


「湊も?」


「うん。」



---


「そういえば。」


璃子がグラスを置いた。


「お土産、ほんとに飾ってる?」


「飾ってるよ。」


「どこに?」


「棚。」


「ちゃんと見えるところ?」


「見えるところ。」


「えらい。」


「えらいって何。」


璃子が笑う。


「あれ見るたびに、なんなんだろうって思ってる。」


「まだ分かんない?」


「璃子は分かってるの?」


「分かんない。」


湊が笑った。


「買った本人が分かってないじゃん。」


「でも、湊っぽかったんだもん。」


「それが一番分からない。」


「いいじゃん。似てるよ。」


「何に。」


「それに。」


「だからそれが何か分かんないんだって。」


璃子が声を上げて笑った。


「じゃあ湊でいいじゃん。」


「俺なの?」


「うん。」


「俺を俺の家に飾ってることになるけど。」


璃子はしばらく笑っていた。


湊もつられて笑う。


カウンターの方からマスターが顔を上げた。


「何の話?」


璃子がまだ笑いながら答える。


「私があげたお土産が、湊なんです。」


マスターが湊を見る。


「ずいぶん小さくなったね。」


璃子がまた笑う。


「しかも何なのか分からないんですよ。」


湊が言った。


「璃子ちゃんは?」


「私も分かんない。」


「じゃあ、分からないままでいいんじゃない?」


マスターはそれだけ言って、空いたグラスを片付けに戻った。


湊と璃子が顔を見合わせる。


「マスターまで分かんないって。」


「いいんじゃない?」


「璃子まで。」


また二人で笑った。



---


話はいつの間にか、最近行ってみたい場所の話に変わっていた。


璃子がスマートフォンで何かを探す。


「これ。」


画面を湊へ向ける。


湊が少し身を乗り出した。


「海?」


「うん。ここ綺麗じゃない?」


「いいね。」


「夕方がすごい綺麗らしいよ。」


璃子が画面を送る。


何枚か写真が並んでいる。


「ほんとだ。」


「行ってみたい。」


湊は写真を見る。


「ちょっと遠いね。」


「車ならそんなでもないんじゃない?」


「確かに。」


璃子がもう一枚見せる。


「これ見て。綺麗。」


「いいね。」


しばらく二人で画面を見ていた。


璃子がスマートフォンを置く。


顔を上げる。


また湊と目が合った。


璃子が少し笑う。


湊も笑った。


「今日、よく目合うね。」


璃子が言った。


「向かいにいるからね。」


「そっか。」


少し間があって、璃子はまた湊を見る。


「でも、やっぱりちょっと違う。」


「俺も思う。」


「ほんと?」


「うん。」


湊は璃子を見る。


待ち合わせで会った時から、いつもより少し華やかに見えていた。


映画館では横にいた。


歩いている時も隣だった。


今は正面にいる。


笑った時の顔が全部見える。


湊の話を聞いている時の目も。


グラスを持つ指も。


髪を耳へかけて、そのままこちらを見る仕草も。


笑っていた表情が、ふっとほどける瞬間も。


「璃子って、正面から見ると華やかだね。」


璃子が少し目を大きくした。


それから笑った。


「なにそれ。今日初めて気付いたの?」


「前から思ってたよ。」


湊も笑う。


「でも、こうやって見るとまた違う。」


「ふーん。」


璃子は笑いながらグラスを持った。


「じゃあ今日は、よく見といて。」


「そうする。」


璃子の手が一瞬止まった。


「……そこ普通に返すんだ。」


「うん。」


湊はグラスを持つ。


璃子は少し笑って、酒を飲んだ。


「そっか。」


それから別の話を始めた。


けれど、しばらくして会話が途切れた時。


璃子はグラスの中の氷を見ていた。


華やか。


さっきの湊の声のまま、その言葉が残っている。


顔を上げる。


湊がマスターと話していた。


少し斜めを向いた顔が、またこちらへ戻る。


目が合った。


璃子は笑った。


今度は何も言わなかった。



---


二杯目が半分ほどなくなる頃には、向かいにいることにも馴染んでいた。


璃子が仕事であった話をする。


湊が聞く。


途中でマスターが入ってきて、三人で笑う。


マスターが別の客のところへ戻れば、また二人で話す。


時々、言葉がなくなる。


璃子がグラスを傾ける。


湊も飲む。


ふと顔を上げる。


目が合う。


璃子が少し笑う。


湊も笑った。


どちらも何も言わなかった。


少しして、璃子がまた話し始める。


「そういえばさ。」


いつもの声だった。


湊もいつものように、その続きを聞いた。



---


「そろそろ帰ろっか。」


璃子が時計を見る。


「そうだね。」


二人で立ち上がる。


カウンターへ向かった。


「マスター、お会計お願いします。」


「はいよ。」


マスターが伝票を確認する。


「今日は長い一日だったね。」


璃子が笑う。


「でも楽しかったです。」


「それなら良かった。」


会計を済ませる。


「ごちそうさまでした。」


湊が言う。


「ありがとう。またおいで。」


「また来ます。」


璃子もマスターに手を振る。


「またね。」


「うん。気をつけて帰ってね。」


二人は店を出た。



---


外には、まだ夏の夜の熱が残っていた。


昼間よりはずっと歩きやすい。


少し酒の入った身体に、夜風が気持ちよかった。


二人は並んで歩く。


璃子が隣を見る。


いつもの湊の横顔がある。


「どうした?」


湊が璃子を見る。


「ううん。」


璃子は笑った。


「こっちの方が見慣れてるなと思って。」


湊も笑う。


「俺も。」


少し歩く。


いつもの公園が見えてきた。


前に二人で入った公園だった。


入口の前まで来たところで、璃子が歩く速度を落とす。


公園の中を見る。


「今日も寄ってく?」


湊も足を止めた。


「うん。少し寄ろうか。」


二人は公園へ入った。



---


夜の公園には、人の姿がほとんどなかった。


昼間の熱を残した地面から、夏の匂いがする。


木々の間を風が抜けていた。


前と同じベンチまで歩く。


璃子が先に座った。


湊も隣へ座る。


さっきまで向かい合っていた二人が、また横に並んだ。


璃子が少し深く背もたれに身体を預ける。


「気持ちいい。」


「ね。」


「ちょっと酔ったかも。」


湊が璃子を見る。


「大丈夫?」


「大丈夫。ちょうどいいくらい。」


「ならいいけど。」


璃子は笑う。


「湊も酔ってるでしょ。」


「少しね。」


「顔じゃ分かんない。」


「璃子もそんな変わってないよ。」


「ほんと?」


「うん。」


璃子は少し嬉しそうに笑った。


「じゃあ大丈夫。」


しばらく二人で風に当たっていた。


遠くを車が走っている。


葉の揺れる音がする。


さっきまでずっと話していたせいか、どちらもすぐには話さなかった。


璃子が空を見上げる。


「今日、長かったね。」


「長かったね。」


「十四時からだもんね。」


「もう結構経ってる。」


「でも早かった。」


湊は少し笑った。


「うん。」


璃子も笑った。


また風が吹く。


少し乱れた髪を璃子が耳にかけた。


湊はその横顔を見る。


今度は、いつも見ていた角度だった。


璃子が気付いて、湊を見る。


「なに?」


「いや。」


湊は少し笑った。


「こっちは見慣れてるなと思って。」


璃子が笑う。


「真似した。」


「さっき璃子が言ってたから。」


「まあ、いいけど。」


璃子はまた前を向いた。


少しして、肩が触れそうなくらいまで身体を背もたれに預ける。


近い。


でも、どちらも動かなかった。


璃子が小さく息を吐く。


「楽しかったな。」


湊は前を向いたまま答える。


「俺も楽しかった。」


それから、また少しだけ何も話さなかった。


二人の間を、夏の夜風が抜けていった。



---


公園を出る頃には、酒も少し抜けていた。


駅へ向かう道を、また二人で並んで歩く。


改札の前で足を止める。


「じゃあ、またね。」


璃子が言う。


「うん。着いたら連絡して。」


「分かった。」


少し歩いてから、璃子が振り返る。


「湊。」


「ん?」


璃子は少し笑った。


「今日はほんとにありがとう。」


湊も笑う。


「こちらこそ。」


「じゃあね。」


「またね。」


璃子は改札の向こうへ歩いていった。


湊はその姿が人の流れに混じるまで見てから、帰り道へ向かった。

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