第十章 向かい側②
バーの扉を開けると、いつもの音楽に、いくつかの話し声が重なっていた。
「いらっしゃい。」
マスターが二人を見る。
「こんばんは。」
璃子が先に店へ入る。
湊も続いて、いつものようにカウンターへ目を向けた。
席はすべて埋まっていた。
「あ、いっぱい。」
「そうなんだよ。今日は珍しくね。」
マスターが店の奥を指した。
「二人とも、テーブルでもいい?」
「もちろん。」
「大丈夫です。」
「じゃあ、そっち座ってて。すぐ行くから。」
二人は店の奥へ向かった。
璃子が椅子を引く。
湊も向かいに座った。
鞄を置いて顔を上げた璃子の目の前に、湊がいる。
少し見て、璃子が笑った。
「……なんか変な感じ。」
「向かいにいるから?」
「うん。いつも横にいるから。」
「ああ、確かに。」
湊も少し笑った。
「こうやって座ること、あんまりないね。」
「ね。なんか新鮮。」
「うん。」
マスターが水を持ってきた。
「何にする?」
二人がそれぞれ注文する。
「映画はどうだった?」
「面白かったですよ。」
璃子が答えた。
「湊は最後だけ納得してないけど。」
「まだそれ言うの?」
「だってさっきも言ってたじゃん。」
「まあ、言ってたけど。」
マスターが笑う。
「原作があると大変だね。」
「璃子は映画の方が好きなんですよ。」
「私は最後は映画の方が好き。」
「そこだけ?」
「そこだけじゃないよ。全体的にも好き。」
「じゃあ俺とそんな変わらないじゃん。」
璃子が少し考える。
「……確かに。」
湊が笑った。
「なんだったの、今日の議論。」
「楽しかったからいいの。」
「それはそう。」
マスターが二人を見る。
「じゃあ、結論は出たね。」
「出ました。」
璃子が笑う。
「また思い出したら言うけど。」
「まだ続くんだ。」
「たぶん。」
「じゃあその時また聞くよ。」
マスターは笑いながらカウンターへ戻っていった。
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グラスが運ばれてくる。
二人で軽く合わせた。
「今日はありがとう。」
璃子が言った。
「こちらこそ。」
「楽しかった。」
「俺も。」
璃子は一口飲んだ。
「映画も良かったし、ご飯もおいしかった。」
「店、璃子が見つけたからね。」
「そう。私のおかげ。」
「そこはちゃんと取るんだ。」
「取るよ。」
湊が笑う。
璃子も笑った。
そこから、映画館で隣に座っていた人の話になった。
上映中、何度も眼鏡を外しては拭いていた人。
「あれ気にならなかった?」
「気付いてた。」
「やっぱり?」
「三回目くらいから、また拭いてるなって。」
「私も(笑)」
「曇ってたのかな。」
「映画館で?」
「泣いてたとか。」
璃子が少し考える。
「ああ。」
「結構泣く場面あったじゃん。」
「じゃあ悪いこと言った。」
「本人には言ってないから大丈夫でしょ。」
「そうだけど(笑)」
璃子が笑いながらグラスを持つ。
その顔を、湊は正面から見ていた。
璃子が気付く。
「ん?」
「いや。」
湊はそのまま少し笑った。
璃子も笑う。
「何?」
「こうやって見ると、ほんとにちょっと違うね。」
「でしょ?」
「うん。」
璃子は湊の顔を見る。
「私もさっきから思ってた。」
「何を?」
「いつも横顔ばっかり見てたんだなって。」
「ああ。」
「正面から見ると、なんていうんだろ。」
璃子は少し湊を見る。
「ちゃんと顔が見える。」
湊が笑った。
璃子も自分で笑う。
「変な言い方になった。」
「言いたいことは分かるよ。」
「ほんと?」
「うん。」
璃子はもう一度湊を見る。
「目とか。思ってたよりちゃんと見るんだなって。」
「璃子のこと?」
「うん。」
湊は少し笑った。
「見るよ。」
璃子は一瞬だけ黙った。
「……そっか。」
グラスに口をつける。
少しして顔を上げると、湊はまたこちらを見ていた。
璃子もそのまま見る。
「ほんとだ。」
「何が?」
「ちゃんと見る。」
湊が笑った。
璃子も笑う。
「なんか面白いね。」
「何が?」
「同じ人なのに、見る場所が違うだけでちょっと違って見える。」
湊は少し考えた。
「分かる。」
「湊も?」
「うん。」
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「そういえば。」
璃子がグラスを置いた。
「お土産、ほんとに飾ってる?」
「飾ってるよ。」
「どこに?」
「棚。」
「ちゃんと見えるところ?」
「見えるところ。」
「えらい。」
「えらいって何。」
璃子が笑う。
「あれ見るたびに、なんなんだろうって思ってる。」
「まだ分かんない?」
「璃子は分かってるの?」
「分かんない。」
湊が笑った。
「買った本人が分かってないじゃん。」
「でも、湊っぽかったんだもん。」
「それが一番分からない。」
「いいじゃん。似てるよ。」
「何に。」
「それに。」
「だからそれが何か分かんないんだって。」
璃子が声を上げて笑った。
「じゃあ湊でいいじゃん。」
「俺なの?」
「うん。」
「俺を俺の家に飾ってることになるけど。」
璃子はしばらく笑っていた。
湊もつられて笑う。
カウンターの方からマスターが顔を上げた。
「何の話?」
璃子がまだ笑いながら答える。
「私があげたお土産が、湊なんです。」
マスターが湊を見る。
「ずいぶん小さくなったね。」
璃子がまた笑う。
「しかも何なのか分からないんですよ。」
湊が言った。
「璃子ちゃんは?」
「私も分かんない。」
「じゃあ、分からないままでいいんじゃない?」
マスターはそれだけ言って、空いたグラスを片付けに戻った。
湊と璃子が顔を見合わせる。
「マスターまで分かんないって。」
「いいんじゃない?」
「璃子まで。」
また二人で笑った。
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話はいつの間にか、最近行ってみたい場所の話に変わっていた。
璃子がスマートフォンで何かを探す。
「これ。」
画面を湊へ向ける。
湊が少し身を乗り出した。
「海?」
「うん。ここ綺麗じゃない?」
「いいね。」
「夕方がすごい綺麗らしいよ。」
璃子が画面を送る。
何枚か写真が並んでいる。
「ほんとだ。」
「行ってみたい。」
湊は写真を見る。
「ちょっと遠いね。」
「車ならそんなでもないんじゃない?」
「確かに。」
璃子がもう一枚見せる。
「これ見て。綺麗。」
「いいね。」
しばらく二人で画面を見ていた。
璃子がスマートフォンを置く。
顔を上げる。
また湊と目が合った。
璃子が少し笑う。
湊も笑った。
「今日、よく目合うね。」
璃子が言った。
「向かいにいるからね。」
「そっか。」
少し間があって、璃子はまた湊を見る。
「でも、やっぱりちょっと違う。」
「俺も思う。」
「ほんと?」
「うん。」
湊は璃子を見る。
待ち合わせで会った時から、いつもより少し華やかに見えていた。
映画館では横にいた。
歩いている時も隣だった。
今は正面にいる。
笑った時の顔が全部見える。
湊の話を聞いている時の目も。
グラスを持つ指も。
髪を耳へかけて、そのままこちらを見る仕草も。
笑っていた表情が、ふっとほどける瞬間も。
「璃子って、正面から見ると華やかだね。」
璃子が少し目を大きくした。
それから笑った。
「なにそれ。今日初めて気付いたの?」
「前から思ってたよ。」
湊も笑う。
「でも、こうやって見るとまた違う。」
「ふーん。」
璃子は笑いながらグラスを持った。
「じゃあ今日は、よく見といて。」
「そうする。」
璃子の手が一瞬止まった。
「……そこ普通に返すんだ。」
「うん。」
湊はグラスを持つ。
璃子は少し笑って、酒を飲んだ。
「そっか。」
それから別の話を始めた。
けれど、しばらくして会話が途切れた時。
璃子はグラスの中の氷を見ていた。
華やか。
さっきの湊の声のまま、その言葉が残っている。
顔を上げる。
湊がマスターと話していた。
少し斜めを向いた顔が、またこちらへ戻る。
目が合った。
璃子は笑った。
今度は何も言わなかった。
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二杯目が半分ほどなくなる頃には、向かいにいることにも馴染んでいた。
璃子が仕事であった話をする。
湊が聞く。
途中でマスターが入ってきて、三人で笑う。
マスターが別の客のところへ戻れば、また二人で話す。
時々、言葉がなくなる。
璃子がグラスを傾ける。
湊も飲む。
ふと顔を上げる。
目が合う。
璃子が少し笑う。
湊も笑った。
どちらも何も言わなかった。
少しして、璃子がまた話し始める。
「そういえばさ。」
いつもの声だった。
湊もいつものように、その続きを聞いた。
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「そろそろ帰ろっか。」
璃子が時計を見る。
「そうだね。」
二人で立ち上がる。
カウンターへ向かった。
「マスター、お会計お願いします。」
「はいよ。」
マスターが伝票を確認する。
「今日は長い一日だったね。」
璃子が笑う。
「でも楽しかったです。」
「それなら良かった。」
会計を済ませる。
「ごちそうさまでした。」
湊が言う。
「ありがとう。またおいで。」
「また来ます。」
璃子もマスターに手を振る。
「またね。」
「うん。気をつけて帰ってね。」
二人は店を出た。
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外には、まだ夏の夜の熱が残っていた。
昼間よりはずっと歩きやすい。
少し酒の入った身体に、夜風が気持ちよかった。
二人は並んで歩く。
璃子が隣を見る。
いつもの湊の横顔がある。
「どうした?」
湊が璃子を見る。
「ううん。」
璃子は笑った。
「こっちの方が見慣れてるなと思って。」
湊も笑う。
「俺も。」
少し歩く。
いつもの公園が見えてきた。
前に二人で入った公園だった。
入口の前まで来たところで、璃子が歩く速度を落とす。
公園の中を見る。
「今日も寄ってく?」
湊も足を止めた。
「うん。少し寄ろうか。」
二人は公園へ入った。
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夜の公園には、人の姿がほとんどなかった。
昼間の熱を残した地面から、夏の匂いがする。
木々の間を風が抜けていた。
前と同じベンチまで歩く。
璃子が先に座った。
湊も隣へ座る。
さっきまで向かい合っていた二人が、また横に並んだ。
璃子が少し深く背もたれに身体を預ける。
「気持ちいい。」
「ね。」
「ちょっと酔ったかも。」
湊が璃子を見る。
「大丈夫?」
「大丈夫。ちょうどいいくらい。」
「ならいいけど。」
璃子は笑う。
「湊も酔ってるでしょ。」
「少しね。」
「顔じゃ分かんない。」
「璃子もそんな変わってないよ。」
「ほんと?」
「うん。」
璃子は少し嬉しそうに笑った。
「じゃあ大丈夫。」
しばらく二人で風に当たっていた。
遠くを車が走っている。
葉の揺れる音がする。
さっきまでずっと話していたせいか、どちらもすぐには話さなかった。
璃子が空を見上げる。
「今日、長かったね。」
「長かったね。」
「十四時からだもんね。」
「もう結構経ってる。」
「でも早かった。」
湊は少し笑った。
「うん。」
璃子も笑った。
また風が吹く。
少し乱れた髪を璃子が耳にかけた。
湊はその横顔を見る。
今度は、いつも見ていた角度だった。
璃子が気付いて、湊を見る。
「なに?」
「いや。」
湊は少し笑った。
「こっちは見慣れてるなと思って。」
璃子が笑う。
「真似した。」
「さっき璃子が言ってたから。」
「まあ、いいけど。」
璃子はまた前を向いた。
少しして、肩が触れそうなくらいまで身体を背もたれに預ける。
近い。
でも、どちらも動かなかった。
璃子が小さく息を吐く。
「楽しかったな。」
湊は前を向いたまま答える。
「俺も楽しかった。」
それから、また少しだけ何も話さなかった。
二人の間を、夏の夜風が抜けていった。
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公園を出る頃には、酒も少し抜けていた。
駅へ向かう道を、また二人で並んで歩く。
改札の前で足を止める。
「じゃあ、またね。」
璃子が言う。
「うん。着いたら連絡して。」
「分かった。」
少し歩いてから、璃子が振り返る。
「湊。」
「ん?」
璃子は少し笑った。
「今日はほんとにありがとう。」
湊も笑う。
「こちらこそ。」
「じゃあね。」
「またね。」
璃子は改札の向こうへ歩いていった。
湊はその姿が人の流れに混じるまで見てから、帰り道へ向かった。




