第九章 向かい側①
待ち合わせは十四時だった。
璃子は十分ほど早く駅に着いた。
改札を出ると、外から入ってくる熱気に思わず足を止めた。
「暑……。」
駅前の大きな時計の下には、同じように待ち合わせをしている人が何人かいる。
璃子は日陰へ移動して、スマートフォンを取り出した。
十三時五十一分。
画面を閉じる。
ガラス張りの建物に、自分の姿が薄く映っていた。
髪に触れる。
少し整えて、手を下ろす。
数日前、クローゼットの前で何着も服を合わせていた自分を思い出した。
「……。」
璃子は少し笑った。
もう一度スマートフォンを見る。
十三時五十三分。
さっきから時間ばかり見ている。
「早く来すぎた。」
そう呟いたところで、遠くから歩いてくる湊が見えた。
向こうも璃子に気付く。
軽く手を上げた。
璃子も手を上げる。
「お待たせ。」
「早いね。」
「璃子もでしょ。」
「私はちょっと前。」
湊が時計を見る。
「まだ七分前だけど。」
「細かい。」
「待った?」
「待ってないよ。」
湊は璃子を見た。
いつものバーで会う時とは、少し雰囲気が違って見えた。
「なに?」
「いや。」
「なに。」
「今日いつもとちょっと違うね。」
璃子が一瞬だけ自分の服を見る。
「そう?」
「うん。似合ってる。」
「……ありがとう。」
璃子は少し笑った。
「湊もちゃんとしてるじゃん。」
「ちゃんとしてるって何。」
「いつもちゃんとしてないみたいになっちゃった。」
「なってるよ。」
二人で笑う。
朝からどこかにあった璃子の緊張が、少しほどけた。
「映画館、こっちだよね。」
湊が歩き出す。
璃子も隣へ並ぶ。
「そっち。」
「よかった。」
「今日間違えたら帰るからね。」
「厳しくない?」
夏の午後の街を、二人で歩き始めた。
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映画館に着くと、上映まではまだ少し時間があった。
館内は冷房が効いていて、外を歩いた後には少し寒いくらいだった。
「涼しい。」
璃子が言う。
「生き返るね。」
「外出たくない。」
「映画終わる頃には涼しくなってるでしょ。」
「ほんとかな。」
二人で飲み物を買う。
上映フロアへ向かう途中、原作本が展示されていた。
璃子が足を止める。
「これ、湊持ってるんだよね。」
「持ってるよ。」
「また読む?」
「映画観たら読みたくなるかも。」
「通勤で?」
「たぶん。」
「ちゃんと本読むんだね。」
湊が璃子を見る。
「その言い方、俺が普段何も読んでない人みたいじゃん。」
「なんとなく。」
「またそれ。」
璃子が笑う。
「便利だから。」
上映時間が近づき、二人は劇場へ入った。
席に座る。
ここでも、いつもと同じように横並びだった。
照明が落ちる。
璃子は少し姿勢を直し、スクリーンを見る。
映画が始まった。
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エンドロールが流れ始めても、二人はしばらく席を立たなかった。
場内が明るくなる。
璃子が湊を見る。
「どうだった?」
湊は少し考えた。
「好きだった。」
「私も。」
「でも最後、変えたね。」
「ね。」
「璃子はあれ好き?」
「好き。」
「即答だね。」
「湊は?」
「俺は原作かな。」
璃子が笑う。
「もう割れた。」
「早いね。」
劇場を出る頃には、二人とも映画の話を始めていた。
「あの最後さ、私は全部言わなかったのが良かったと思う。」
「俺はもう少し見たかったな。」
「でも、あそこで終わるからいいんじゃない?」
「分かるんだけどね。」
「分かってない顔してる。」
「分かってるよ。納得してないだけ。」
「それ分かってないんじゃないの?」
「違うでしょ。」
「一緒だよ。」
璃子が笑う。
湊も笑った。
映画館を出る。
外はまだ明るかった。
昼間ほどではないが、夏の熱が街に残っている。
歩きながら、また別の場面の話になる。
原作では短かった場面が映画では長く描かれていたこと。
脇役だった人物が、思ったより印象に残ったこと。
音楽が良かったこと。
「あの曲よかったね。」
「よかった。あそこ映像も綺麗だった。」
「海のところ?」
「そう。」
「私もあそこ好き。」
信号が赤になる。
二人で立ち止まった。
「なんだかんだ結構好きじゃん。」
璃子が言う。
「好きだよ。最後に文句言ってるだけ。」
「一番面倒な客だ。」
「ちゃんと褒めてもいるから。」
青になる。
二人はまた歩き出した。
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気付けば十八時を過ぎていた。
「お腹空いた。」
璃子が言う。
「俺も今言おうと思ってた。」
「何食べる?」
「璃子は?」
「なんでもいい。」
湊が足を止める。
「出た。」
「なに。」
「一番困るやつ。」
「じゃあ湊が決めて。」
「それも困る。」
「なんでよ。」
「外した時、俺の責任になるじゃん。」
「ならないよ。」
「ほんと?」
「たぶん。」
「たぶんなんだ。」
璃子が笑う。
少し歩いた先に、小さな店があった。
璃子が中を覗く。
「ここ良さそう。」
「入ってみる?」
「うん。」
二人は店に入った。
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料理が来る頃には、映画の話も少し落ち着いていた。
「おいしい。」
璃子が言う。
「当たりだったね。」
「私が見つけたからね。」
「さっき責任放棄してた人が。」
「結果が良ければいいの。」
湊が笑う。
料理を食べながら、話は仕事のことへ移っていった。
「最近は落ち着いた?」
湊が聞く。
「少しね。この前までは結構忙しかった。」
「連絡した日も疲れてたもんね。」
「そう。あの日ほんと疲れてた。」
「ちゃんと早く寝た?」
璃子が少し考える。
「……たぶん。」
「絶対寝てないじゃん。」
「動画見てた。」
「ほら。」
「でもちょっとだけ。」
「それが長くなるんだよ。」
「お母さんみたい。」
「もう心配しない。」
「それはやだ。」
璃子がすぐに返した。
湊が一瞬、璃子を見る。
璃子は料理を一口食べる。
「……心配はして。」
湊が笑った。
「分かった。」
「適度にね。」
「注文多いな。」
「大事だから。」
二人で笑った。
少しして、璃子が聞いた。
「湊は最近どうなの?」
「仕事?」
「うん。」
「普通かな。忙しい日はあるけど。」
「湊って仕事の話あんまりしないよね。」
「そう?」
「聞けば話すけど、自分からはあんまり。」
湊は少し考えた。
「仕事してる時は仕事のこと考えてるけど、終わったらあんまり持って帰りたくないのかも。」
「切り替えられるんだ。」
「前よりは。」
「前は違った?」
「もっと全部一緒だった気がする。」
璃子が湊を見る。
「仕事も?」
「仕事も、人間関係も。考え始めるとずっと考えてた。」
「今は?」
「考えても分からないことは、分からないままでいいかなって。」
璃子は少し笑った。
「湊っぽい。」
「どっちが?」
「今の方。」
「昔の俺知らないでしょ。」
「知らないけど。」
「じゃあ分かんないじゃん。」
「なんとなく。」
湊が笑う。
「また出た。」
「でも、そう思う。」
璃子はそれ以上聞かなかった。
湊も続きを話さなかった。
料理を食べる。
少しして璃子が、仕事であったくだらない出来事を話し始めた。
湊が笑う。
話はまた別のところへ移っていった。
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店を出ると、外はすっかり夜になっていた。
昼間の暑さは残っている。
けれど陽がないだけで、歩きやすかった。
二人は駅の方へ向かう。
「今日結構歩いたね。」
璃子が言う。
「歩いた。」
「ちょっと疲れた。」
「じゃあ帰る?」
璃子は少し考えた。
「……まだ帰らなくてもいいかな。」
湊も少し笑った。
「俺も。」
二人はそのまま歩く。
しばらくして璃子が言った。
「どうする?」
湊が璃子を見る。
「行く?」
璃子も笑う。
「行こっか。」
どこへ、とは言わなかった。
二人は駅へ向かっていた道を外れた。
いつものバーへ続く道を、並んで歩いていった。




